一旬驕話(そ):中野重治の鴎外の遺言論(上)
以前鴎外の遺言を紹介しました
2023年8月30日投稿の「一旬驕話(わ):「伊藤野枝100年フェスティバル」紹介:松下竜一『ルイズ』からの抜き書き・孫引き」で松下竜一『ルイズ 父に貰いし名は』の一節
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(福岡のアナキストにして人形師であり、主人公伊藤ルイズを雇用していた)副島辰巳が肺ガンで病没したのは一九六二(昭和三十七)年の暮である。(・・・・・・)
死に際して、副島が書き遺した言葉は短い。「私は副島辰巳以外の何者でもない」とのみ記されていた。一切の権威を認めず、個人の絶対的自由を希求し続けたアナキストに、いかにもふさわしい臨終の言葉であった。まだ五十六歳であった。棺は黒旗でおおわれた。(292ページ)
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を紹介して、副島辰巳の遺言から「森鴎外の遺言「森林太郎トシテ死セントス」を思い出しました」と書きました。その後で「そう言えば、中野重治に鴎外の遺言論があったナ~」と思い出しました。中野重治という名前もスッカリ忘れていた作家の名前が急に脳内に浮かんできたのか、その理由も取り掛かりも分かりません。
とは言いましても鴎外の遺言は有名なので、友人によりますと、少し鴎外のことを書いてある文章だったらほとんどがこの遺言を取り上げている、のだそうです。扨て思い出した中野重治の鴎外の遺言についての評論ですが、タイトルも所載している書籍のタイトルも思い出しません。第一、中野重治の本は目につきやすい本棚に一冊も立ってはいません。扨てどこだったっけ・・・・・・です。
中野重治の鴎外遺言論
部屋の隅に積んであるミカン箱を覗いたら「定本限定版 現代日本文学全集 55 平林初之輔、蔵原惟人、青野季吉、中野重治 集」(筑摩書房、昭和四二年)がありまして、その321ページの「鴎外 その側面 抄」に「遺言状のこと」が掲載されています。私が以前読んだ鴎外遺言論はこんな立派な装丁の本ではなかったように思うのですが、ともかく探す評論は見つかりました。
これは中野重治自身に関したことではないのですが、この全集には中野重治の年譜は掲載されていません(平林初之輔、蔵原惟人、青野季吉の年譜は巻末に掲載されています)。出版した筑摩書房との間に何らかの行き違いがあったのでしょうか。
それはそうとしまして、この「遺言状のこと」は難しい評論です。ナントカ読み終えたので内容は大方のところ把握できるのですが、漢字が多いのに加えて難しい漢字も使用されていますし(例:反噬、ハンゼイ、手元の「広辞苑」第2版によると「動物が恩を忘れて飼主にかみつくこと。恩義ある人にはむかうこと」です)。漢文や仮名文が出てきます。そういう訳でナントカ把握出来た範囲内での「中野重治鴎外遺言論」の紹介です。
「ほとんど取りみだした金切り声」である鴎外の遺言
「遺言状のこと」では正岡子規や二葉亭四迷など6、7名の遺書を取り上げておりまして、一種の遺言論としても読めるのですが、ナントカ把握できた範囲での評論の中で鴎外の遺言の性質を何故紹介しようかというと、「なぜ鴎外はここで(栗山:死を前にして、です)これほど神経質に、ほとんど取りみだして金切り声をあげたのであろうか」〈326ページ〉と書かれていたからです。遺書が金切り声?
326ページを読んだ折のこの疑問には330ページで「鴎外は(・・・・・・)息を引きとる今わのきわとなって、あとさき見さかいのつかぬ最後の反噬を金切り声をあげて試みねばならなかったのである。文学と芸術との結局の権威に対する心の奥所に横たわる信念、ほとんど信仰ともいえるものによってそれをせねばならなかったのである」と答えています。
学識と官位を極め、慌てるという心情とは無縁と見える鴎外には思いもよらない形容であるばかりではなく、評論にはふさわしいとは思えない「金切り声」なる表現が使われているのはこの二ヵ所だけです。明治末から大正にかけての文学と芸術の様相を歯牙にもかけずに睥睨していた鴎外が、と知ったかぶりの書き方をしますが中野遺言論の中にこれに類する説明がタップリあるのでそれを頼りに書いているだけですが、その落ち着き振りの奥にどれほどの葛藤を隠し蔵していたかを小さな字で10頁を費やして中野重治は説明しているのです。
自分のうちでの文学・芸術と自分の外なる勤務・官位・権威との無意識なる葛藤
鴎外が隠し持っていた葛藤というのは、当時の世に行われていた文芸を睥睨していたとは言え自分の為した史伝などの作品を支えている文学観、審美観に基づく人生観と営々として築いてきた職業人としての権威とのせめぎあいです。鴎外は人生のほとんどを後者の世界に「賢き」鴎外として尽くしてきました。しかし「馬鹿なる」前者の鴎外は自分が依拠もし、築いても来た権威に「世の中」に最後の最後に、上記に引用した「今わのきわ」になって、無駄と知りつつも「俺には触らせないぞ」と宣言したのです。
「(この遺言を口述)した時の鴎外は意識明瞭であった。しかしそれは、この遺言状が客観的に何であるかについて意識明瞭であったということではない。明瞭にも不明瞭にも、彼はそのことを考えても見なかったにちがいない」(331ページ)と評論家中野重治は解釈します。
鴎外が当時の文芸界を睥睨していたのは中野評論中の引用文で明証しているし、権威確立に払った努力も知られています。また史伝や審美観への鴎外自身の意味付けも、これまた中野評論中の引用文で明証されています。その上で中野鴎外遺言論は鴎外の無意識の遺言必要性を説明しているのです。多くの行動や主張を無意識内での行動と解釈するのはマユツバと思うこともありますが、中野重治の鴎外遺言論は、ナントカ読んでみた範囲内での判断ですが、私は納得しました。これは中野重治の文体はシッカリしているし、例証は確固としているからです。
中野重治の無意識解釈は遺言執筆(口述)の意図だけに留まりません。
(この項続きます)
補足:
ずいぶん昔に石川淳と高橋義幸の鴎外論は読んだ記憶があります。どちらもさわやかな気分で読み終えたのですが、内容は覚えていません。内容は覚えていないのに「さわやかな気分で読み終えた」と言うのは両者の一節が、そしてその一節のみ、記憶に残っているからです。その一節を記憶で書くと間違っているかもしれませんし、今は両書ともに探せませんので省略します。そのうちに探せましたら報告することにいたします。