富山県に井村和清氏という医師がいました。子供が二人、わたしと同世代でガンになり、そして・・・亡くなられました。しかも、二人目の子は顔も見ずに他界されました。長女の名前は「あすか」です。
私は、鳥肌が立ちました。同世代・・・同じガン・・・長女の名前が同じ…。
そして・・・私は助けられました。
余命3カ月宣告から私にもう一度生かせて頂く役目が与えられました。何のためにこの機会を与えられたのだろうか?
和清氏の詩に「あたりまえ」という詩があります。私の経験と一致し、とても感銘を受けました。
あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう。
あたりまえであることを。お父さんがいる。お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。
行きたいところへ自分で歩いて行ける。
手を伸ばせばなんでもとれる。 音が聞こえて声がでる。
こんなしあわせはあるでしょうか。
しかし、だれもそれをよろばない。あたりまえだ、と笑ってすます。
食事が食べられる。 夜になるとちゃんと眠れ、
そして、また、朝がくる。 空気を胸いっぱいにすえる。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
走り回れる、みんなあたりまえのこと。
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。
そのありがたさを知っているのは、それをなくした人たちだけ。
なぜでしょう。あたりまえ。
『飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ』より
- 飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記 (祥伝社黄金文庫)/井村 和清
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近所の小学校でボランティアでさせて頂いている本の読み聞かせの時に、一度、読ませて頂きました。「あたりまえ」って何でしょうか?
実は、「あたりまえ」って…ないのかもしれません。
これからも、井村氏の教えに学びたく思っております。ご興味がありましたら、「井村和清氏」を検索されてみてくださいね。