ワシントンの桜が削減される | ロバ耳ブログ 

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 ワシントンD.C.。ここの公園の桜が、いつもより早く満開になったそうです。これも温暖化のせいだとかで、実は他にも、重大な懸念が出ている。
それは、温暖化によって、満潮時に水位が上がって、桜が水に浸かる被害が増えている事。

それで腐ってしまい、幾らかの桜が枯れる中、写真の一本は、何故か毎年、上の方だけ花を咲かせ続ける。木は朽ちている様に見えるのに、そこだけ生きているわけです。現地のアメリカも不思議がって、その桜に、「スタンピー」と愛称をつけて、親しんで来ました。


 ところが、この池の周辺の桜は、防波堤を作る為に160本弱が伐採される事になりました。温暖化で、水面が上がって来て、満潮時には水に浸かってしまうんだ、って言われたら、まあ仕方がない気が、しないわけでもない。

しかし、高い堤が必要とも思えないし、そもそも、陸側を盛るべきなのか。湖面の方を埋め立てて、少し盛るとかじゃダメなのか。


それより何より、「満潮時に水面が・・」って言ってるけど、ワシントンD.C.って、海沿いの街でしたっけ?大西洋から、100キロくらい内陸の、川沿いの街に見えますが・・・。



 記念撮影しているアメリカ人たちは、この木が切られる事を、普通に受け入れるのでしょうか。川の横の池が、温暖化で膨張するのでしょうか。少なくとも、日本のニュースでは、そうだと説明しています。



 ワシントンの桜は、一度、全て枯れた事があったはずなんですよ。それで、再び日本が送ったって話を聞いた記憶があります。その話を聞いた頃、日本の桜も、全て枯れる時期が来たって、大宣伝していました。戦後に植樹した多くの桜が、60年くらいで寿命になって、一斉に枯れるってね。専門家がテレビやラジオで言ってました。


そして、実際に枯れた桜の木も出て来たんですよ。なんか腐って。

 まあ、その時は、桜に寿命があるのか、と素直に受け止めていましたけど、よくよく考えたら、もっと長生きの桜の木は、各所に残ってますよねえ。

この頃から、まさか、何か撒いて嫌がるのかって、感じ初めていました。カエルがウイルス感染で絶滅する、とか、イモリが絶滅するとか、ミツバチも、ですよねえ。世紀末を乗り切って、今度は2012年に人類が滅亡するって言い出した頃の話です。


今は、2025年の7月に人類滅亡って言ってます。



 こんな奴らに言論自由が保証されて、ワクチンが怪しいとか、バイデンは不正選挙だって言ったら、社会的に抹消しようとしているんですよ。河野太郎も、思いっきり中国共産党との繋がりが出て来たのに、ちゃんと地上波で報道されるのでしょうか。単なるミスで済ますつもりです。

親子揃って、とんでもないです。河野家が中国人だって噂は、かなり信憑性はありそうです。



 要は、こんなめちゃくちゃな連中が、桜を切ろうとしているわけです。ワシントンの最初の桜も、枯れ葉剤で枯らしたのが真相だと私は思っているくらいです。ビックモーターかっての。

今も、マダニがどうとか、殺人バクテリアがどうとか、やってますよね。シカに奇妙な皮膚病が蔓延したり、それまでに無かった奇病が次々に現れる。テレビしか見て無くても、流石に怪しいと思ってもらわないと、巻き込まれる私たちは、たまったもんじゃないですよねえ。


自民党への政治資金は、外国人勢力と製薬会社がメイン。これが政権を取って、私たちに良い事が起きるはずがない。



 アメリカ人も鈍臭い。なんで、桜が御神木になったのに気がつかない。木って宿るんですよ。石とかも。自然界から、メッセージは来ているのに、気がつかないなら救われようがない。不思議な事を、ただ不思議だなあ、で終わらせたら、そこで何も気づく事がない。

この前に、福島で巨石が出ましたよね。あれも、工業団地の予定地に、邪魔する大きな石が出て来た、どうしよう、で話が終わっていたら、何も変わらないんですよ。



 こう云ふ言い方をするとね、この人、スピリチュアル系に捕まって、妙な方向に走り出したぞって思うかも知れません。しかし、こう設定する事で、日本人の不屈と海外から思われている精神が、形成されて来たのだとしたら、どうですか。単なる空想の遊びじゃないですよ?


アメリカ人などから見れば、街が徹底的に破壊されたら、皆んなそこを捨てて別の新天地を目指すって言ってます。大陸が広いから、それが可能なのもあります。あと、311の津波の行方不明者を、今も捜索しているって事にも驚いています。

911では、一千人の行方が分からないまま、直ぐに見切り私つけて、整地してビルを建ててしまいました。。トルコの大地震では、政府は、行方不明者を数えるのも止めてしまったそうですよ。


この、自分たちと日本人の、あまりの常識の違いに、日本は凄い人権意識の国だって感心していました。


 でもこれって、ちょっと違う気がしませんか。人権意識よりは、何となく、発見されない遺体が、何処かその辺にある。その事が何か気味が悪い。祟られたくもないし。

遺族の場合だと、誰にも見つけて貰えず、深海だか、泥の中だか分かりませんけど、そこで一人で寂しい思いをしているんじゃないか、


そんな風に、私たちは思っているのではないですかねえ。



死んだら肉の塊なんだから、寂しい思いもクソもないでしょう。でも、日本人って、それでも、そこに供養されない魂が、待っている様な気がするんですよ。





 こう言った感性は、黄泉の世界と現世との境界が、曖昧な事を意味しています。神界と霊界と現世。これが曖昧にリンクしている。時々スポーツ界で、神がかりなパフォーマンスが出るけど、あれも、そのリンクしたところで発生しています。何でも自分の力だって思っていると、人は謙虚さを失う。そうすると、神がかり的な、或いは霊的な表現が出来なくなる。逆に言えば、本来、人は霊的で、神秘的な存在とも言えます。



 私は明治以前の記憶、とは言いましたが、この様な記憶は、今の日本人も普通に引き継いでいますよね。それを霊界とか神界とか、そんなものを信じる必要は無いんですよ。死んだら分かる話を、わざわざ生きてる時にやっても意味がない。ただ、それを感じる事で、発揮できる力がある。


 今頃になって、神風特攻隊の、家族への手紙などが、海外で紹介されるようになった。10代や20代の書いた文章とは思えない。明日、死ぬ者が、一文字一文字、命を賭けて、綴った手紙。逃げ出そうともしないで、ここでアメリカ軍を食い止めて、皆んなを守る。ただその思いだけです。

特攻隊って、別に士族でも何でもない。普通の庶民の子どもですからね。それなのに、幕末の志士と大差が無い。


 新渡戸稲造は、武士道精神と表したけど、一般的な日本人の感覚だった。そして、それは恐らく、神とか霊とか、以外にいつも身近に感じているから、じゃないでしょうかね。靖国で再会しようって、死んで、日本の守護神になりますって事でしょう。武士は、極端に散り際を重んじたけど、大事なのは当然ながら生き方。死に際に、それまでの生き様が出るって話ですよ。



 これって重要な事だと思いませんか。命を軽く考える様にも見えますけど、そうでは無いです。むしろ、一つの命を、死んでからも続いて行くものだと認識している。そして、そうした認識があるから、死ぬ事を恐れない様な行為をしてしまう。切腹もそうですよね。今の私たちから見たら、簡単に死んでしまう。


これは、外国人には全く理解できない点です。




 しかし、この死んでも命が続いて行く世界観。これが、日本社会で、どうして上手く機能して来たのか。普段は、例とか神とかは遠ざけていますよね。だけど、正月と盆には、それらと接触があるとされる。

これは、生きているうちに、来世で自分はどう生きるのか、って変な思想を生み出しています。一般に、天国と地獄が想定されていますけど、子孫の為に守護神になる、守護霊になるって選択肢があっても不思議はない。守護霊は、悪さをする妖怪から子孫を守り、守護神は、気まぐれで人を殺してしまう様なうっかり神から世界を守ります。


 例えば、こう言った死んでからの設定があれば、地獄に堕ちたら、守護霊になれないし、死んでからも子孫を守ろうって思って生きていたら、その人の行動って、違って来ると思いませんか。

生きてる側の人も、やがては自分もそこに加わると考えたら、正月や盆に対する姿勢も違って来ると思いませんか。守ってくれている守護霊が信じられたら、心細さも強さに変わるかも知れません。


そうやって、神界と霊界を結びつける行事を大事にする事で、一族が集まる事になる。ここに最大の効果があるって思うんですよ。細かい事は抜きにして、毎回、行事で家族、一族が集まる機会が作られる。そしたら自殺や離婚や、そう言ったネガティブな日常は、回避できる様な気がしませんか。

実際、それで日本人は、社会の健康を保って来たのではないでしょうか。



 テレビを筆頭に、今や教育分野でまでもが、個人を出来る限り細分化するよう努めています。こいつら、悪魔に操られてますよ。これらを跳ね返す力が、日本人にはあるとしたら、それはまさしく、先祖たちが持っていた死生観なのではないでしょうかねえ。

それに、死んだ後も、何かあったら駆けつけてやれるって、そう信じられたら、案外と人生は悪くないのでは?

少なくとも、死んだら暗闇。全てが無になるって思うよりは、よっぽど健全に生きて行ける気がします。あの世の役割を果たす条件として、人として真っ当に生きろ。そう言われたら、自然と理性も秩序も保たれる。

何となく日本人はそう思っているから、災害時でも理性的なのではないですか?


唯物論者から見れば、霊だの神だの、非科学的な絵空事でしかないでしょう。しかし、私の言っている事は、科学では無いけど、科学的な知見だと思いますよ?



 大切な事は、その社会は、どんな設定で構築しているのか、だと思いますね。少なくとも、戦前までは、悪魔崇拝なんて寄せ付け無かったところを見ると、設定をしっかりさせる。これが一番大事な事だと、今は思います。
設定がしっかりしていなければ、幾ら社会の矛盾や腐敗を正しても、作っては壊し、壊しては作るの繰り返しになる。そんな気がしますね。



 にしても、アメリカ人ども、気づけよなあ・・・。その木は切っては行けない。千の風になって、って、あんたら歌ってたやん。