零細企業ながら技術力は、というか開発力は、現場含めありました。
このあたりは、社長の懐の深さが一因でした。
仕事を取ってくる側の私も、得意先での無理難題も、「できるかもしれない」で持ち帰りができたのは、この2点のおかげでした。
◆仕事には「ミキサー」つまり撹拌機を最初に使うのですが、普通の混ぜる機械だと比重分離して粉や粒型のものは良くなかったのです。
もちろん「タンブラー」というぐるぐる機械を回すという装置もあったのですが、掃除等不便だったり、大掛かりだったりで、使いづらかったのです。
社長はミキサー製造会社にいろいろ提案、3回以上試作品作り、器と羽根に工夫施し、分離しにくい機械を作り出しました。
業界に置いて今は一般的な仕様になっています。
ちなみに、製造会社は量産していますが、社長は「お礼も1銭もない」とぼやいていました。
ただ、導入が早かったので、私は「混ぜるだけ」の仕事を数多く取るのに成功しました。
最終的には手が回らなくなり、外注も探し、設備してもらい、事業拡大しましたが今はどうなっているのか、わかりません。
◆仕事にどうしても「乾燥」が必要な仕事があり、熱風除湿機が必要になったのですが、ここでも社長のアイデアが炸裂しました。
古い機械は、パージ(清掃)時に、乾燥機の中に入らないと行けなく、酸欠含め危ない状況がありました。
そこで、社長は乾燥機メーカーに、中に上から入るのではなく、下から脚立で入れるような乾燥機をデザイン(といってもメーカーの乾燥機設計図にちゃちゃっと手を加えただけですが)、それを作れと指示しました。
メーカーは「作ったことない、無理」の一点張りでしたが、金は払うの一言で動きました。
これも、試行を3回くらい、社長肝いりの完全なものができました。
何よりも、社員が「危険回避」「掃除が容易」「ゴミの出が少ない」など大歓迎でした。
これも、今はこの所長の作った仕様が一般的になっています。
ちなみにこちらは「感謝状一通だけ」と社長は苦笑していました。
インラインではなく、仕様上独立型になったため、「乾燥だけ」の仕事も取れるようになり、仕事の幅が広がりました。
◆アルムナイ(出戻り社員)や、定年退職者を積極的に採用していました。
特に一回辞めて、「もう一度雇ってください」という人に関しては、やめる前の役職を外して一番下というのを、まず自覚させる、
そして、社員が納得したらもとの役職に戻すということをしていました。
私のいる間に4人、該当者がいて、4人とも以前よりも労働に関して積極的になっていました。
以前書いたISO9001取得にも、一番理解あったのがこの方たちでした。
一回外を見てきているは強みで、いる社員に外の大変さを伝え、退職しようとする人を何人引き止めたかわかりません。
ただ、私がやめる頃に思ったのは、「新陳代謝がない」ということ。
危険な作業もあり、注意力はあったので、マンネリ化の事故はまずなかったのですが、小さなヒヤリ・ハットはあり、気になりつつ私は退職しました。
後で、伝え聞くに、社長は私も戻ってくると思っていたようで、退職日に社長がいなかった理由がなんとなく察知できました。
◆工場のカラーリングもすごかったです。
危ない所は黄色や赤色に塗り、問題なさそうなところは緑色に塗っていました。
社長いわく「意識的に、また都度、変えないとマンネリになって危ない」と。
年末大掃除時期に、現場の人たちと意見交換して塗っていました。
意外とこういう地味なところもすごかった社長です。
◆現場の勤務体型は、最初は5勤務2休(土日)が二回で、深夜勤務5勤務2休のあと4勤務3休で28日を2グループで回していました。
忙しくなるとともに、機械は365日使えるのでもったいないとどうやったら土日も動かせるか検討、3グループ作り3勤務1休み→3深夜勤務2休で回す、パズルのような勤務体型を作りました。
当初、3工場あるうちの1工場に適用しましたら、当初は「土日の休みがなくなる」で文句言っていた社員たちが、しばらくすると掌返しで、「最高」と言い始めました。
理由は、平日の休みを有給休暇使わず取れる日がある、土日も一ヶ月に必ず一回は休みになる、5勤務より3勤務のほうが楽で安全、などの意見が出ました。
最終的には3工場すべてが3勤務1休み→3深夜勤務2休で回すことになりました。
これを可能にした一番の要因は、工場長、副工場長はシフトに入らないということにしたこと。場合により深夜、場合により日勤、病気等で欠員が出たらそこに入るという「仕組み」を作ったことでしょう。
同業他社でもこの方式真似たところがあると、これも伝え聞きました。
◆決算は3月ではなく、違う月でした。
営業的には楽、辛いどちらも感じませんでした。
理由は、社長いわく「3月は集中して計理士が大変な上、コスト高。違う落ち着いたときにしたら、計理士が『費用安くていい』と言ってきたのでそうした。」
実に合理的な考えでした。
◆自殺者含め、私の勤務期間に3人なくなりました。
そのうちの一人は、トラック運転手でしたが、荷物量増加の事情によりトラック廃止とともに退職しました。
身寄りのない人で、社長が身元引受人で雇っていましたが、「現場がいや」ということで仕方なかったです。
数カ月後、アパートで餓死で見つかりました。
手厚く葬ったのを覚えています。
ちなみに、辞めると思っていた他のトラック運転手は、水を得た魚のように、中心になって現場作業していました。
◆75歳で、大汗かいてパージ専門にしていた方いたのですが、社長が(私も同席)自宅へ菓子折り持って行き、「これからは奥様を大事にしてください」というと、号泣で「ありがとうございます」と言われたSさん。
今でも夢に出てくるくらい記憶に残っています。
次回はこの会社の最後、私の退職他の話しになります。