23-12-29 ぼくらのスタア・古谷敏 | ヤマダ・マサミ ART&WORK 検:ヤマダマサミ

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23-12-29 ぼくらのスタア・古谷敏

昔の映画は銀幕のスタアと呼ばれた人気者がいました。裕次郎や勝新、雷蔵、東宝では三船敏郎、加山雄三、宝田明。怪獣映画で育ったぼくのスタアは人間ではなくゴジラやガメラでした。テレビで大好きだったウルトラマンも仮面ライダーも銀幕デビューをしてくれた。また70年代に入れば東宝チャンピオンまつりで映画の全盛期の名残りを思わせる賑わいを体験させてもらっています。

そのころ娯楽の王様はテレビに変わっていて、怪獣より、勉強そっちのけでアイドルが登場する番組をチャンネルを変えながら見て、本屋へ行けば次々雑誌をめくる。沢田研二、フォーリーブス、西城秀樹、麻丘めぐみ、天地真理。映画からテレビへ、スタアはスターへと、現代的な変貌を見せていました。

俳優業をやめたビンさんは、子供相手にショーを見せるビン・プロモーションを率いた若手実業家でした。きっと横目で流行りの芸能を見つつ未練を断ち切り仕事ばかりが頭にあったでしょう。

ビンさんが映画界の門を叩いて猛勉強して東宝ニューフェイスの15期に選ばれた事はみんな知っています(「ウルトラマンになった男」(小学館)に詳しい)。何百人かのうちから選出された3人の1人でした。

そこから150本の東宝映画に出た。映画が産業として最高潮を迎えた60~62年頃のピークから下降して行く頃が、ビンさんのデビューでした。

ビンさんがテレビに呼ばれた理由に過剰になった若手の逃し先であったことは間違いないでしょうが、そこでウルトラマンと巡り会えた事がビンさん最大の財産になり実績になりました。こんな希有な俳優は他にいません。

ついこの10年の話。

ビンさんの事を知らなかった宝田さん。アメリカへ2人で呼ばれた。

宝田さんの記憶に古谷敏は刻まれていない現実がある。ビンさんはかつての銀幕の大スタア、東宝の大先輩の前に小さくなっていた。

ところが会場へ入ればウルトラマンの大人気、サイン会の列にならぶ無数のビンさんのファンを見て、宝田さん驚きます。

清楚で洒脱な身なりと人となりは東宝で培ったスタア候補生が苦難の末やっと開花させた姿でした。

「きみがもし10年早くデビューしていたらぼくもうかうかしていられなかったな」と感嘆した宝田さん、そこから、ビンさんを弟のように可愛がるんです。

思えば「ウルトラセブン」が終わって東宝へ戻れず役者を廃業したビンさんはビンプロを運営したことで初めて外の世界を知ったのかもしれません。30歳をはさんで人生の伸び盛りを営業と舞台の設営、司会、進行で東奔西走、ずいぶん鍛えたんだと思います(これが現在のビンさんの興行の核になっている)。

子供時代のビンさんは憧れの野球選手に会えた時、書くものがなくて、サインをもらい損ねた。俳優になったとき、つねにサインペンを持ち歩く事で、ファンにそんな可哀相な事をさせたくないと、いまでもゴソッとたくさんのペンを持って出かけます。

「大部屋だったからなぁ。優等生でもなんでもないよ」と、言うビンさんですが、スタアになるための勉強をした若い頃が起点となった事は誰もが理解できるはず。

ビンプロの解散と復活までの地を這うような苦労を経て人生の星霜を重ねたビンさんの、見事なカムバック。遅咲きの開花。その姿に自分を重ねて元気をもらえた人も大勢いたでしょう。

特撮が文化となったいま、ビンさんは、比類なきスタアになったと思うんです。でなければ、あれだけのファンが集まるはずがない。

ぼくらが子供の頃に愛読した平凡や明星のグラビア。ビンさんはかつての昭和のスタアに負けない瑞々しさとパッションで、輝いている。80歳の挑戦の素晴らしさ。撮影の傍らで感じました。

光縁会でみんながカメラを向ける。アメリカでも、国内の地方でも同じ、洒落たスーツにネクタイをしめて、笑顔と包容力で接します。

黄金期の映画の時代に育ったビンさんの矜持です。俳優は夢を見せるものだと。

宝田明を刮目させ、熱烈な老若男女がビンさんを慕う。でも、決しておごらないビンさんは、ぼくらにとって歳の離れた兄のような存在なのです。

 

 

先日のビンさんの撮影からスナップ数点。素人写真だしメインのカメラの左側からなので正面が少ない上、オフショットみたいなものばかりですが、当たり障りのないところを。