死の恐怖 | 季節の横顔

季節の横顔

昭和10年に刊行された祖父の随筆集『季節の横顔』によって,昭和初期という時代に生きた人々の様子,また時代を超えて共通する想いなどについて語るブログとしてスタート。
・・・今では単なるつぶやきノートです。

夜、ご飯を食べながら、

エジプトの謎を探るという番組を見ていた。

4時間もあるという番組なので、


途中でた~ぴんは寝に行ったのだけれど、

途中で戻ってきて




「おかあさん、やっぱり一緒に寝て。

ボクねえ、想像力が強いから(と、こういう表現をする)

さっきみたいなテレビを見ると、

怖くて眠れなくなるの」




と言う。

番組は、ツタンカーメンの死因の謎を探る、というもので、


ミイラにCTをかけたりとか、ミイラ作りの方法だとか、


確かに彼にとってはちょっと刺激が強すぎる内容だった。


うー、今ですか?もうすぐ真相が語られるかも知れないのに・・


と思ったけれど、続きはビデオに録ることにして、


た~ぴんと一緒にベッドに入った。




「ボクね、死ぬっていうことがとってもコワイの。


 コワクて眠れないよ。」






怖い想いをさせちゃったんだ。


再現ドラマも生々しかったしなぁ・・・。


ごめんね。

何とか、た~ぴんの恐怖を和らげてあげないとなぁ。


そう思って、一生懸命に話をしてみた。




そうだね。

死ぬって言うのは、本当にこわいよね。

誰も経験したことないもんね。

でもその「怖さ」から守るために、親がいるんだよ。

た~ぴんが死にそうな怖い目にあったら、

お母さんは命がけで助けて上げるからね。

でも、もしお母さんが死んじゃっても、

た~ぴんは大丈夫だよ。

お母さんがた~ぴんにパワーを遺していくからね。

お母さんね、


自分のお父さんもお母さんも、どっちも死んじゃったでしょ?

亡くなったお父さんとお母さんは、

お母さんにパワーをくれたんだよ。

「死」ということをこわがらなくてもいいパワー。

だからこそ、「生きていること」を、

とっても大切に考えることができるパワー。

お母さんも、じいじちゃんとばあばちゃんがくれたこのパワーを、

「いのち」をもっと大切にできるパワーをた~ぴんに遺していくからね。

た~ぴんが「死ぬこと」を怖いと思うのは、

とても大切なことでもあるんだよ。

それは、た~ぴんが「生きる」ことが大好きだからこそ、

「生きていられない」ことを怖いと思うということだから。

怖いからこそ、

「生きている」毎日を大切にしようね。





などと、7才児の寝物語にはちょっと「?」ではあったけれど、

いつかは伝えておきたいことだったので、

話してみたのであった。




どうしてこんな話を伝えたかったかというと、

一つには、

た~ぴんを生むことを決めた時に、

(ちょっと決意が必要な出産だったので)

私が生む子どもに、何を伝えてやりたいかを

真剣に考えていたからだ。

それは




他人(ひと)を傷つけないこと。身体も心も。

自分を傷つけないこと。身体も心も。




このことをきちんと話したかったということ。




そしてもう一つは、井上靖の著作によって導かれた想いである。

去年、盲腸で急に入院することになった時、

入院中に読む本を、テキトーに本棚から抜き出して持っていった。

痛くてあんまり何も考えられなかったので、

本当にテキトーに持っていったのだが、それが井上靖のものだった。

例によってうる覚えなのだが、

両親という存在は、


死という大きな恐怖と自分との間にある衝立のようなもので、


両親共に亡くなってしまった今、恐怖と自分とを遮るものが何もなくなった・・・と、

多分、こんな内容だったと思う。




その文章はとても印象深くて、


以来、私の中に同じ思いが生まれたのだった。




こんな情けない親でも、


子であるた~ぴんにとっては最大・最強の庇護者である。

いや、そうありたい。っていうか、そうでなければならない。

だからもした~ぴんに死が迫っているのなら、


自分の命をかけて、た~ぴんを救うだろうと思う。


そして私自身が死ぬと言うことは、


た~ぴんにとっては、一番身近な人間の死を体験することで、


「死」とは、誰も避けることの出来ないゴールであり、


つらいし苦しいことだし、多分かなり痛いことでもあると思うけれど、


絶対に受け容れざるを得ない未来であるという覚悟を


少しずつ確かなものにしていくことで、


死をゆっくり受容していくことにつながるのではないかと思う。


これは私自身がいま体験しつつあることでもある。






私は14歳の時に父を亡くし、3年前に母を亡くした。

父が亡くなってから母が亡くなるまでの期間は随分長いのだが、

衝立は半分になってしまっていたけれど、

母が生きて、存在しているということが私に与える意義は、

どれだけ大きかったことか・・と、今になってその恩をひしひしと感じている。

私は死の恐怖から守られていた。

半分しかない衝立でも、十分に私は守られていたのである。


衝立越しに垣間見る死の恐怖と、

衝立なしで、目の前に広がる暗黒の淵をのぞき込む恐怖はとは桁違いだ。




怖い。




人類が宗教を必要とするのは、

死を受け容れるためでもあるかもしれない。

受け容れやすいカタチに加工してくれるのが宗教なのかもしれない。




けれども、自分の両親の死に顔を、

その頬を自分の両手ですっぽり包んで泣いた時のことを思うと、

最愛の両親が受け容れていったものだからこそ、

この私もきっと受け容れることができる・・・という気持ちになってくる。




あ゛~。

やっぱり、「死」について書くのは難しいなぁ。

難しいけれど、た~ぴんが「怖い」と言ったときに、

ちゃんと守ってやれる親でありたいと思う。




なんてエラソーに書いてみたけれど、


実は私は、自分が生きているということが怖くて眠れなくなる人である。


横を向いて寝ようとすると、特に・・なのだが、


耳を枕に当てていると、


自分の鼓動の音が、ドク ドクと聞こえてくる。


そうすると、その音を聞いただけで、


くゎ~っと血圧が上がるような感じがして、


怖くてますます眠れなくなるのだ。


血圧を測るときも同様である。


腕帯を巻いて、シュカシュカされると、


腕の血が止まるような感覚がある。


あれがイヤ。


「あ~、血が止まるぅ~。っていうか、血が流れてるのね~」


と思うだけで、胸がドキドキしてくる。


あ。献血するときもそう。


自分の血管から、管を通して血が流れていくのを見ると、


胸がドキドキして、くゎ~っと来るのだ。


「死」を受け容れる前に、


まずは自分の心臓が動いているということと、


身体の中に血が流れているんだということを、


恐怖心抜きで受け容れられるようになることが先決だ。


私の場合。


ごめん。た~ぴん。


お母さん、まだまだ、だね。






ところで、ツタンカーメンの死の真相について。

ビデオの録画に失敗。

続きが撮れていないので、

ミステリーはミステリーのままになってしまいました。

どながか、あの番組ご覧になった方、

私に教えて~~。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。