10月になり朝晩は秋めいてきましたが、日中は30度超えの暑さ、、、

自然が狂っていていると感じるのは私だけではないと思います。

その自然は私たちの生活や身体に大きく関わっています。
 
そして、その自然こそが病になった時にもとても大きな力を私たちに与えてくれるのです。
 
今日はそんな自然が生みだす治癒力について書こうと思います。

 

自然とは自らが然ると書く

 

それは自分のあるがまま

 

つまり〝自分らしくある〟ということ。

 

 

では自分らしくない時ってどんなとき?

 

私の場合は忙しいときかな?

 

忙しいとは心が亡くなると書きますが、それは自分の存在に気づけなくなっているような気がするのです。

 

自分がなくなっているのですから、もちろん他に対しても。

 

また、よく有るケースが他に焦点が合っていて、逆に自分に焦点が合わなくなっているなんて事もありますね。

 

そんな時はこころがざわつきます。

 

こんなことを言いつつ、私はどうしてもじっとしていることができず、あれこれと忙しく動いてしまいます。



昔からどうしても、予定が入っていないと落ち着かないのです。


それなので、月に2.3日はあえて予定を入れずに、流れに任せてそのときやりたいことをやっています。

「何もやらないことをする。」

 

そんな時があってもいいのではと思うほどなんです。

 

筋トレや身体を鍛えるこも、実は私にとっては、何も考えず自然にただ自分の身体と向き合うという意味では何もしない時でもあるのです。

 

してるだろ!という話もありますが(苦笑

どうしてなのか?

 

私は〝する”の多くは生き物として不自然なことではないのだろうか?と思うようになりました。


「する」というのは考えるという行為と意図があってのもの。

 

自然界の中で「する」という行為をするのは人だけではないか?

 

そして近年はその「する」ことが「しなければいけない」になり、四六時中することに拘束され、生きる力を失ってしまっているような気がしてならない。

 

だからこそ、しないからこそある〝ゆとり”というものこそが生きる力になるのではと。

 

先にも言ったように、忙しいという字は、心が亡くなると書きます。

 

 

そして暇とは、自由に使える時間、つまり余裕であり伸びしろ。

 

その伸びしろこそが、出し切っていない力を呼び起こすような気がしました。

 

そう思って、ガンになる前、ガンになったばかりの頃を振り返ってみると、ともに余裕がなくなっていたような気がするのです。

 

「あれをしなければいけない。これをしなけばいけない」と。

 

そうやって〝ゆとり”がなくなり病になり、そして病になったことでさらに「しなければいけない」ことが増えて生きる力も失っていたのでした。

 

私は、その生きる力こそが治す力だと思うのです。

 

それが「自然治癒力」

 

自らが然る状態に戻すことで治癒する力が蘇ってくるのです。

 

なのに、不自然なことばかりして治そうとするから、治らなくなるということが起こるような気がするのです。

 

とはいっても、不自然なことが必要な時もありますよね。

 

私が言いたいのは、不自然なことをするなら、それ以上に自然という概念を持つことが大切だということを言いたいのです。

 

 

 

自らか然るということをもっと意識して、その然る自分をよりよく生きること。

 

言い訳がましいですが、ボクシングや筋トレをやっている時が、私にとってこの時間でもあります

 

自らが今  然るのは自分の身体が機能しているから。

 

身体に意識を向けないことは、自らを見ていないということだと思います。

 

そんなことを心掛けることは人も自然界の一部だということに気づくということでもあります。

 

自然の中には、すべてある。

 

つまり『足りていること知る』ことなのです。

 

自然という場は生き物としてあるべく姿を感じることげできるような刺激が多い場です。

だから、自然の中にいると存在しているという感覚で、地位や身分などの差も感じないし、病があるかないか関係ない。

そこには自然の中での生き物と生き物という関係でいられるから、自分を感じることもできるような気がするのです。

しかし、都会や市街地には自然は少ない。

もちろん病院にも。

 

すると不自然な刺激しか入ってこないので足りていないと思い、あれがほしい、これがほしい、健康になりたいという不自然な欲求が生まれ、自らが然あるという大切なことすら解らなくなってしまうのです。

 

私も、こんなことを書いてはいますが、どうしても街で暮らす普通の生活の中では、これらのことを忘れてしまいがちなのです。

 

人はそれほど環境に支配されているということ。

 

不自然な刺激が入ってくるからどうしてもそうなってしまいます。

 

だから、病になったら、できるだけ自然に近い刺激を五感から入ることで、自然治癒力が高くなるのです。

 

自然の中で然るがままに過ごすことで、自分自身の生きる力を高めて、伸び代をつくる。

 

だから、病気になった時はすべてを自然に任せ、自らが然ることを楽しめばいいだけ。


そうすれば、何も気にすることはなく、心も病も癒され治る力が自然に蘇ってくるのです!

 

 

現在、私はNPO法人ノーマカフェで「お米カフェ 東郷食守族」を営業しています。

 

私にとって「食」はら、人生の永遠のテーマだと思っています。


ガンになる前は百貨店の食品部で食の仕事、そしてガンになってからは玄米おむすびの会、カフェめぐみえんなどずっと「食」のことをやってきました。


今日は私がどうして「食」を大切にし、「食」

をテーマに様々な活動をしているのか?を書こうと思います。 


18年前、15時間の大手術をして麻酔からさめたときは、首と胸、腹を切って人工呼吸器をつけられまったく身動きもできない状態。


病室のベットで寝返りもすることができず、ただじっと天井を見て、思い出すことは元気なころの自分。そして、現在の自分と比較するとますます「孤独」と「絶望」が大きくなってきました。





1日たって人工呼吸器ははずれたものの、身体中からでたチューブや傷の痛みで動けない、食べることも、水を飲むこともできません。


手術をする直前まで普通にできたこと、いや当たり前だと思っていたことがまったくできないのです。


 しかし日にち薬とはよく言ったもので、状態は少しづつですがよくなってきました。


そして術後5日目、明日から食事を口から取れるという日に、食道の切ったところから空気が漏れるという(縫合不全)合併症になり、空気を抜くために再度首の切った箇所を開いたり、外れたチューブをつけるという処置をして更に16日間水を飲むことも食べることもできない状態が続きました。





そんなことがあって、初めて口から水を入れることができたのは術後、22日目でした。


その水の美味しかったこと。口では表現できません。


そんな出来事があって、当たり前だと思っていた、飲む、食べるということがどれだけ大切でありがたいことだったのかに気づきました。


そして、もう一つ口からものを入れることができるようになってから、不思議に「孤独」と「絶望」が除々に薄れてきたのです。


食べるという行為によって「生きる」ことができ、そして食べれるようになって「今、生きている」ということの有難さも実感できました。


振り返ってみると、私は百貨店の食品部門で働き「食べる」ことは仕事。


それも美味しくて、普通ではなかなか食べることができないようなものも当たり前のように。


そんな職業柄、いつの間にか美味しいものや高級なものが良いものと思い、食べ物は食欲や我欲を満たすための道具だと勘違いしていたことに気がつきました。


それ以後「食」に関心を持って多くの本代読み漁り、人づてに「玄米」がいいと聞いたりして、実践してみると、不思議なことに身体も心も大きく回復し、術前からあった高血圧、高脂血漿、肝機能障害、うつ病までがよくなってきまました。


食べ物が身体を作っていると身を持って実感できたのです。


その後、いろいろあって仕事を辞め、食の大切さを伝えたいと「玄米おむすびの会」を作りました。


またこれと並行して、自分の経験を現在苦しんでいる患者さんに伝えたいと、がん患者会の活動を始めてNPO法人ガンの患者学研究所「いのちの田圃の会」全国患者会長に就任し、がん患者さんのサポートをしたり講演会活動をして全国を廻りました。


そして多くの患者さんと接して気づいたこと。


 ガンを治そうとしている患者さんの多くは「食事療法」しています。


しかし多くの方はなかなか結果が出ません。


どうしてか?


食事が、玄米が、ガンを治してくれると思っています。


そして、「あれを食べてはいけない」「これを食べなければいけない」と必死になっています。


命がけで食事療法をすることは大切なことかも知れません。


しかし、一番大切なのは「感謝して食べる」ことではないでしょうか。食べ物は薬ではありません。


食べ物が自分の身体と心を治してくれるのではなく、治すための、生きていくためのエネルギーを私たちに与えてくれているのです。


食べ物なくして人間は成長も生きることもできません。


そう考えたとき、今までの食べ物に対する認識が変わり、食べ物への「感謝」気持ちが湧いてくると思います。


その時、身体と心に「治るスイッチ」が入るのだと思います。


それは、私がこれまでの活動の中で出会った多くのガンからの生還者に共通していることです。


しかし、多くの人は食=病を治す・健康になると考え、そのために「~を食べなければいけない」「~を食べてはいけない」と思っています。


しかし本当は食べてはいけないものなど無いのではないのでしょうか。


そして「食」を考えるとき大切なことは、「どんな人間になりたいか、どんな人生を送りたいか」によって自分で食べ物を選ぶことです。



本当に良い食品には宇宙や大自然の恵み、命の恵みや生産者の思いなど多くのエネルギーが入っています。


経済性や利便性を優先することで農薬や化学肥料を使った農産物、添加物が多く含まれた加工品、人間に食べられる為だけに狭いところで薬漬けで育てられた畜産物や魚に幸せになるためのエネルギーがあると思いますか。   


それを食べて幸せになれると思いますか?



「食」は「幸せ」になるための手段です。


とすれば、「食」は楽しくなければいけません。

笑顔で食べなければいけません。


現代に生きる多くの人が忘れてしまっていたり、当たり前だと思いなくしてしまっていることだと思います。


以前の私のように。


最後にもう一度


なんのために「食べるのか?」


その答えは、「幸せになるため」です。


私はがんになってから、やりたいと思ったことはなんでも〝まずは始める”ことにしました。

だって、再発宣告を受けたら、余命は長くて半年しかなかったんだから、今やらなければ永遠にできないかもしれないのだからやるしかないでしよ!

そんな思いで様々なことを〝始めた”結果、18年経って.今まだ生きていて、当時は予想だにしなかった展開になっています。

そして、めっちゃ楽しいし、幸せを感じる時を過ごしているのです。

もし、始めることに躊躇していたら、失意しか残らず、たとえ生きていたとしても今のような人生にはなっていなかったでしょう。

そう思って振り返ると〝始める”ことって大切。

というより、〝始めなければ何も変わらない”

しかし、多くの人は始める前に様々なことを考える。

成功する可能性、リスク、風評、そして結果。

そして自信が持てるまで待っている。

確信というやつだ。

もし私が確信も持つまで何も始めなかったとしたら?、、、

多分、癌になって未来を失い、過去の残像にすがって生きていると思う。

そう思うと、癌になり先が見えなくなったことは私にとって〝始める力”になったような気がします。

そう、ガンになり、再発=余命半年という大きな力が私を行動に駆り立ててくれたのです。

いつまで生きられるか分からないから、今から始めよう!

先を見るより、今を生きよう!

先が見えないから、今が楽しい!

今が変われば、先も楽しくなる!!

何も始めななれば、何も変わらないし、楽しみもやってこない。

何も変わらないのは、楽しくないのは、何も始めようとしないからに他ならない。

もし余命半年だったとしたら、果たして今のままで納得できるのか?

限られた人生を今のまま過ごしていいのか?

死はいつやってくるかわからない。

今日かも?

明日かも?

それはガンであろうが、なかろうが関係ない。

この経験があったからこそ、私は視覚障がい者となり、失明に向かっていても、それを受け止め見えなくなっても人生を謳歌するために、様々な新しいことを始めることが出来ています。

だから皆さんも、今やりたいこと、興味があることがあるのなら始めてみよう。

そうすそれば、きっとうまくいく。

そして楽しく素敵な人生が待っていますよ!




 




 

私はガンになってからこれまでずっと「遊び心」を大切にしてきました。


遊び心とは遊びたい❗️


楽しみたい‼️と思う気持ち


そして遊ぶことや楽しむことは心を満足させることを主たる目的として行う行為。


つまり遊び心とは、心の満足を求めようとする心でもあるのです。


思い返すと私の遊び心は、鬱になる少し前からなくなったような気がするのです。


管理職になりやることばかりが増えて、趣味だった釣りやスポーツジムに使う時間もなくなりました。


やりたかった好きなものにかける時間が減り、しなければいけないものにかける時間が増えたのでした。


すると非日常も減り、同じ日常の繰り返しとなり、五感から入ってくる刺激もほとんど変わらなくなります。


そこで日常をあまり変えずにてっとり早く刺激を求めようとすると、飲む、打つ、買う。


しかし、そんな刺激の中には、心の満足もワクワク感もあるがずがなく、心にはいつも空洞がありました。


それはどんなに体を使って行動しても、心の満足を得ることがないという状態です。


今思えば鬱になるのも頷けますが、当時はそれでも心の満足を得たいと思って頑張りつつけていたのでした。


そう思って振り返ると、鬱になる前の私には仕事の中にも結構遊び心があったような気がするのです。


こんな企画が出来たら面白いだろうなぁ。


リニューアルでこんなショップが入ったら楽しいだろうなぁ。


物産展なども企画から交渉、図面を書いて会場設営からイベント開催まで、来場する人の楽しそうな笑顔を思い浮かべて、仕事をしていました。


このように仕事に中にも1からつくり上げるゲーム感覚のような遊び心があったのです。


しかし、管理職になると仕事が一変して、人の管理、売り上げや売益や残高などの数字の管理ばかりで、遊ぶ心を持つことすらできなくなっていき、出るのは愚痴や不満・・・・


そんな状態で心はいつも満足することがなく隙間だらけ、でも仕事は立場上やらなければいけないことがどんどん増えてくるのでした。


その結果、心が先に悲鳴を上げて鬱に・・・


さらには身体が悲鳴を上げて癌に・・・


鬱も癌もすべて心を満たそうとする心と行動がなくなったことが原因で発症する病ではないかと思うようになりました。


さらには癌になったら、心は気に病み満たされることもなくなり、遊び心なんて遠く向こうに行っていますのです。


このことはガンに限らず、様々なトラブルに関しても同じことが言えるのではないでしょうか?


しかしそれでは、そのトラブルの原因をさらに上積みしていることに他ならないこと。


それでは良くなるはずもありません。


私が知っている、そんな境地から脱出した人の多くはこの「遊び心」をもって様々なことに取り組み、楽しそうな人たちでした。 


一般的にはそんなときは、は必死に一生懸命頑張らないといけないというのが多いと思いますが、私的にはそれが良くならない原因の一つのような気がしてなりません。


肩の力を抜いて脱力し、理性ではなく感性で楽しいことを創造して、笑顔で前に進む。


それこそが、新しい未来への最初の一歩に繋がることだと思います。


私自身、これから失明に向かって進んていきますが、見えない世界を「暗闇の中の大冒険!」と捉えて、今はそのための準備で様々な訓練を受けています。


もちろん不安もありますが、理性ではなく感性で前に進めば、必ず現実が変わってくるということを、私はガンから学び、そして実践してきました。


だから、目が見えなくなっても、同じことをするだけ。


また新たな人体実験ができると思っています(笑)


このところ随分涼しくなり、季節の移り変わりを感じるようになってきましたが、自分を変えることは、本当に難しいと思いませんか?
 
自分を変えることって本当に難しいと思いませんか?
 
人はなかなか変われないもの。
 
しかし、仏教で『この世はすべて無常』といわれるように本当は「常に同じものはない」のです。
 
人も含め一切のものは、生じたり変化したり滅したりして、常住(=一定のまま)ではありません。
 
そうです。
 
変われない、変わらないと言っていても、身体も心もすべてが実は変わっているというのが現実。
 
その中で同じではないと言うことは、どう変わっているか?ということが一番の問題なのです。
 
そしてガンになったのは、長い変化の中で身体も心もガンという病の方に向かって変わってきたということでもあります。
 
その身体や心は残念ながら可逆性はありません。
 
つまり、元にはもどならいのですから、よい方向に変えていかなくてはいけないのです。
 
そんなこともあり、18年前に私がやったのが肉体改造でした。
 
当時は玄米菜食をして走って筋トレ
 
その結果、次第に心もよい方向に変わり、こうやって18年間、元気に生きてこられました。
 
しかし、7年ほど前からいろいろ落ち着いてきたこともあり、身体をあまり動かさない普通の生活にもどったことで、あまり自分が変わっているという意識はなくなってきました。
 
実はそれは退化や老化、そして萎縮しているということ。
 
人は心や身体に何も負荷をかけなければ、どんどんと廃用性萎縮されていくのです。
 
だから私は自分の身体や心にに対して、可能な限り負荷をかけ続けるために、様々なチャレンジをしているのです。

そしてこの変わることにより、自分の持っている時間や労力をどう使えば、どう変わるかといことが腑に落ち、自信になり、心も変わってくるのです。
 
つまり変わらないということは、自分の時間と労力を同じことに使っているから、変わらないだけ。
 
その時間と労力を身体や心へちょっと負荷をかけてあげれば人は必然的に良い方に変わっていきます。
 
それが筋トレであり、ランニングやウォーキングなどの有酸素運動。
 
そして食改善。
 
それにより、心肺機能や消化機能、循環器機能、呼吸機能などが保たれ、廃用性萎縮をなくしていきます。
 
それは心も一緒。
 
ストレスから逃れてばかりでは、たぶん生きる喜びも、楽しさも萎縮していしまうのではないでしょうか?
 
とは言っても、過度の負荷は負担になってしまうこともあるので要注意ですね。
 
どこまでが良くて、どこからが良くないのか?
 
それは人によっても違いますので。
 
そんな中で、私が思うのは。
 
生き物として、生きるための負荷をかけること。
 
人としてではないですからね。
 
この世から便利、快適、手軽、簡単といったものがなくなったとき、生き物としていきていくだけの負荷をかけること。
 
それが本当の意味での生きる力を持ち続けるとということだと、私は思います。