自然とは自らが然ると書く
それは自分のあるがまま
つまり〝自分らしくある〟ということ。
では自分らしくない時ってどんなとき?
私の場合は忙しいときかな?
忙しいとは心が亡くなると書きますが、それは自分の存在に気づけなくなっているような気がするのです。
自分がなくなっているのですから、もちろん他に対しても。
また、よく有るケースが他に焦点が合っていて、逆に自分に焦点が合わなくなっているなんて事もありますね。
そんな時はこころがざわつきます。
こんなことを言いつつ、私はどうしてもじっとしていることができず、あれこれと忙しく動いてしまいます。
昔からどうしても、予定が入っていないと落ち着かないのです。
それなので、月に2.3日はあえて予定を入れずに、流れに任せてそのときやりたいことをやっています。
「何もやらないことをする。」
そんな時があってもいいのではと思うほどなんです。
筋トレや身体を鍛えるこも、実は私にとっては、何も考えず自然にただ自分の身体と向き合うという意味では何もしない時でもあるのです。
してるだろ!という話もありますが(苦笑
)
どうしてなのか?
私は〝する”の多くは生き物として不自然なことではないのだろうか?と思うようになりました。
「する」というのは考えるという行為と意図があってのもの。
自然界の中で「する」という行為をするのは人だけではないか?
そして近年はその「する」ことが「しなければいけない」になり、四六時中することに拘束され、生きる力を失ってしまっているような気がしてならない。
だからこそ、しないからこそある〝ゆとり”というものこそが生きる力になるのではと。
先にも言ったように、忙しいという字は、心が亡くなると書きます。
そして暇とは、自由に使える時間、つまり余裕であり伸びしろ。
その伸びしろこそが、出し切っていない力を呼び起こすような気がしました。
そう思って、ガンになる前、ガンになったばかりの頃を振り返ってみると、ともに余裕がなくなっていたような気がするのです。
「あれをしなければいけない。これをしなけばいけない」と。
そうやって〝ゆとり”がなくなり病になり、そして病になったことでさらに「しなければいけない」ことが増えて生きる力も失っていたのでした。
私は、その生きる力こそが治す力だと思うのです。
それが「自然治癒力」
自らが然る状態に戻すことで治癒する力が蘇ってくるのです。
なのに、不自然なことばかりして治そうとするから、治らなくなるということが起こるような気がするのです。
とはいっても、不自然なことが必要な時もありますよね。
私が言いたいのは、不自然なことをするなら、それ以上に自然という概念を持つことが大切だということを言いたいのです。
自らか然るということをもっと意識して、その然る自分をよりよく生きること。
言い訳がましいですが、ボクシングや筋トレをやっている時が、私にとってこの時間でもあります。
自らが今 然るのは自分の身体が機能しているから。
身体に意識を向けないことは、自らを見ていないということだと思います。
そんなことを心掛けることは人も自然界の一部だということに気づくということでもあります。
自然の中には、すべてある。
つまり『足りていること知る』ことなのです。
自然という場は生き物としてあるべく姿を感じることげできるような刺激が多い場です。
だから、自然の中にいると存在しているという感覚で、地位や身分などの差も感じないし、病があるかないか関係ない。
そこには自然の中での生き物と生き物という関係でいられるから、自分を感じることもできるような気がするのです。
しかし、都会や市街地には自然は少ない。
もちろん病院にも。
すると不自然な刺激しか入ってこないので足りていないと思い、あれがほしい、これがほしい、健康になりたいという不自然な欲求が生まれ、自らが然あるという大切なことすら解らなくなってしまうのです。
私も、こんなことを書いてはいますが、どうしても街で暮らす普通の生活の中では、これらのことを忘れてしまいがちなのです。
人はそれほど環境に支配されているということ。
不自然な刺激が入ってくるからどうしてもそうなってしまいます。
だから、病になったら、できるだけ自然に近い刺激を五感から入ることで、自然治癒力が高くなるのです。
自然の中で然るがままに過ごすことで、自分自身の生きる力を高めて、伸び代をつくる。
だから、病気になった時はすべてを自然に任せ、自らが然ることを楽しめばいいだけ。
そうすれば、何も気にすることはなく、心も病も癒され治る力が自然に蘇ってくるのです!

