人には2つの道があるように思う。


1つは誰もが選ぶ前が見える道。


もう一つはあまり多くの人が選ばない、前が見えない道。

18 年前に私が罹った“癌”という病は前が見える道を歩んでいた人が突然前が見えない道に迷い込んでしまう病だとおもう。

私も突然真っ暗闇に入り右往左往したことを思い出す。

しかし、よくよく考えてみると人間なんて本当は前が見えない道を歩んでいるのではないのか?

すべての人に明日突然死んでしまう可能性はあるではないか?

なのに多くの人は今日と同じように明日はあると思っている。

そしてあれやこれやと考え起きてもいないことを予測し迷い不安になる。

私の場合、癌になる前は自分の会社での将来だった。

そして癌になった後も自分が後どれだけ生きれるか?という未来。

どちらも自分という人間の中で考えていた。

もし明日がないかも知れないと思ったらどうするか?

たぶん将来や未来のことなど考えずに今やらなければいけないことが見えてくるような気がした。

そのときから私は自分勝手な未来を描くから迷いや不安が出る思うようになり、先を見ないようにした。

明日死んでもいいという生き方をしようと決めたのだ。

そう思うと時間の使い方や人との接し方が大きくかわった。

自分の将来や未来のためにではなく、顔の見えない人たちの将来や未来のために今自分ができることをやろうと思うようになったのだ。

そうすれば明日私が死んでも、私のやったことは生かされていくと。

こんな話を聞くとなんだかすごい悲壮な思いのように感じるかも知れないが、やってみるとこれが目茶苦茶楽しいではないか?

今の自分の行動が将来どんな人を喜ばすのだろうか?楽しますのだろうか?

そのために今自分が喜びと楽しさを創造し表現する。

前が見えないから色々不測事態が起こったりすることがあるが、これもこれから良くするためにはどうしたらよいかという感覚でいると楽しみに変わるのだ。

そう思うと「前が見えるということ」はこれから先何が起こるかをある程度認識できるということ。

癌になる前の自分は大方の自分の未来が予測できたから不安があったと解った。

何が起こるかがわかってしまえばゲームでも楽しみが半減するではないか?


どうなるかは解らないけど、その結果は今によって変わるという感覚が人をワクワクさせる、

双六でサイコロを振る感覚だ!


結果が予測できたら楽しくないだろう。


私は今、前が見えない道を進むことが楽しくてたまらない。


これからはさらに前が見えなくなってくる。


さぁ、今後はとんなことが起きるのだろう?


それも楽しみにしていければと思う今日この頃だ。

 

私はサラリーマンの頃“三越”という看板の力で仕事をしてきた。


当時はその力を自分の力だと誤解して、あたかも自分が大きな力をもっているという自意識過剰な状態だったように思う。


しかしそれがガンになったことで大きく崩れ去った。


そこで一度は看板に縋ってもう一度力を取り戻そうとしたが、それは今の社会では通用するはずもない。


まだまだ、癌という病は普通の人から見れば「いつ死んでもおかしくない」という状態なのだ。


そして私は、外側の看板もなにもなくなった一人の人として他を当てにするものではなく、自らの力をつくろうと思った。


そしてこれまで持っていた力を癌という病によって失ったので、これからは癌という病で自分の力をつけようと決めたのだった。


その当時は失ったものばかりで、得たものは身の回りで癌しかなかったので、そこに意味をつけようと考えた。


そこからがんを学び、学んだことを実践し、苦しんでいる人に手を差し伸べるという行動で力をつけていった。


すると不思議なことに癌という病が予想もしていなかったほど大きな力を私に与えてくれたのだった。


そのガンという看板をつけてから、すでに20年近くなり色褪せて来たら、今度は視覚障がい者という看板を得ることができた。


これからはその看板を背負い、自分のために、社会のために何ができるか?


きっと失うものもたくさんあると思うが、得るものもたくさんあると思う。


だから


失うことを嘆くのではなく、得られるものに感謝して、それを力に変えていこうと思う。


力とは本来、自ら動いたり、他のものを動かすもの。


即ち、自分を受け止めることで、自分自身の内側につくり、それを何かの役に立て、他と合わせることで無限大になり未来を切り開くエネルギーとなるものなのだ。


さぁ、どんな人生に成っていくのか?


もちろん不安もあるが、楽しみを膨らませて生きたいと思う今日この頃です。


私たち人間が生きていくには〝刺激”が必要です。

日常私たちの目にはいるもの、耳に聞こえるもの、臭うもの、食べるもの、触るものすべて外からの刺激ですよね。

そしてその刺激によってひとりの人間が出来上がると言ってもいいのかもしれません。



私は学生時代は結構自由気ままに過ごしていたので外部から様々な刺激が入ってきていましたが、社会人になってからは毎日が同じことの繰り返し。


入ってくる刺激もほとんど変わらなくなってきてしまいました。


新しい刺激が入ってこないということは、生きているという感覚が薄れてきてしまう・・・・・

私はなにか刺激を!求めて、ボクシングを始めました。

ボクシングは人を殴り、殴られるスポーツです。

私はボクシングをすることで刺激のない生活から刺激のある生活を手に入れたのです。

しかしこのような刺激はあまり良くはありませんよね。

みなさんは変だと思うかもしれませんが、この時私は殴られたときの痛みで「生きている」ことを実感し、そして自分の体をいじめることで自分の存在価値を高めようとしていたのです。

まぁ、当時はそんなことには気づいていませんでしたが、癌になって今までの自分を深めていった時に気づきました。

そしてそれはボクシングを辞めてからも続いてしまったのです。

どんなに辛くても弱みを見せない。

そんなに体調が悪くても頑張って仕事に行く。

どこかが痛いと痛みを喜ぶ・・・・

人より優位に立つことへの刺激・・・・

電車の扉があいて改札を一番に通るために一生懸命走ったりしてましたから(笑)

どう考えてもおかしいですよね。

でも当時はそれが美徳のようになってしまっていたのです。

そんな生き方をしていたら、必ずいつかは体や心がブッ壊れてしまいますよね!

その結果が癌だったのです。

そして私は癌になった時も結構ゾクゾクしていました。

これからどんな治療をするのか?

抗がん剤の苦しみって?

手術で体を切り刻まれるのはどんな感覚なんだろう?と

今まで仕事で同じことを繰り返し、同じ刺激しかない生活から、今までに経験したことのない刺激が入ってくることにワクワクさえしていたのです。

だからあまり癌になったことを苦しんではいませんでした

仕事も行かなくていいので、むしろ楽しんでいると言ったほうがよかったのかもしれません。

これも普通じゃないですよね。

ちょっと話がずれますが、この時私は今までで一番ストレスが解消された時だったように思います。

それが証拠に、副交感神経が優位になっていたせいか、72時間入れ続けている抗がん剤の副作用もほとんどなく、手術前の検査ではガンはほとんどわからないくらいに小さくなっていたのです。

でも、ドクターからは必ずがん細胞は残っているし、リンパや血液に乗ってどこかに浸透しているので手術をしなければ半年生きられるかわからないと言われ、当時は全くの無知だった私は手術することにしたのです。

今思うと、しなくても良かったと思うのですが後の祭りですよね。

というより、15時間の大手術して人工呼吸器をつけたり、不自由な体になったことで新たな自分を発見できたと思っています。

話は戻りますが、私たち人間はみな私ほどではないにしろ〝刺激”を求めていますし、脳に入ってくる刺激によってものの考え方、感情の出し方や性格、人格まで変わってきてしまうような気がします。

そしていまの社会、本来人間に必要な刺激はどんどん少なくなり、あまりよくない刺激を繰り返す生活になってしまっているのではないのでしょうか?

例えば、毎日同じところを行ったり来たりの通勤。

自然からかけ離れた無機質な建物や環境。

会話のない家庭。

生きている躍動感のない多くの人間たち。

ゲームも

子供達が刺激欲しさに無意識のうちにゲームに走ったり、お祭りやスポーツなどにハマるのも毎日同じことの繰り返しから新しい刺激をもとめているような気がします。

そんな中にいたら結局は生きている喜びなんて生まれっこないのでは?

私はガンになる前はそんな状態だったことに気づき、刺激を変えようしました。

だから、外に刺激を求めることはやめて、自分の中に刺激を求めて、様々なことに挑戦をしたのです。

今年に入って、肉体改造やボクシングを始めたのも、そんな自分を成長させる刺激を求めたから。

みなさん、もし自分の何かを変えたいと思ったときに、この”刺激”に意識を向けてみてください。

そして最初は戸惑うかもしれませんが、今までと違った刺激が入る環境に身をゆだねてみてください。

そうすれば、きっと変えようと思わなくても変わってしまうと思います。

私はそれほど〝刺激”が自分に大きく関わっていると思います。

刺激を求めた結果の私です。

これからは視覚から入る刺激がなくなってきてしまいます。

そうなったらどうやって刺激を求めるのか?

まぁ、いろいろ試してみるとしましょう。




私たちの意識や言動は「関心の輪」のなかに有り、そこで生活習慣や性格(心の生活習慣)が出来上がるのだと思います。

以前の私の関心は、仕事に関わること、ギャンブル、お金、美味しいものを食べること、酒・・・・・

年をとるにつれて、どんどん関心の輪が狭まり、毎日の殆どが同じことの繰り返しになってしまっていました。

すると不思議なことに自分の周りは同種の人間ばかりが集まるようになってきます。

その結果、同じ情報や現象しか入ってこなきなり、さらに関心の輪も狭くなってしまうのです。

それは自分にとって良いものばかりが集まり、それ以外のものを排除しようとしていることにほかなりません。

私は、会社、組織、政治、団体、そして治療家や先生と呼ばれる人の多くは、その集まりのような気がしてなりません。

私はサラリーマンという会社組織を辞めてから、この関心の輪を広めようと様々なところに顔を出したり、首をつっこんだりしました。

すると多くの人に「一体何をしたいの?」と言われたのです。

「一つにことをきちんとやらなくてどうするんだ!」と。

私はそれこそが、人の関心や好奇心を奪うことで人を思い通りにしようとする、現代社会の人と人との関係ではないのかと感じました。

勝手に仲間だと思い裏切った

組織に馴染めないと、その中の人たちの行動パターンや考え方や目的にあわないと烙印を押す。


そして、同種のもの以外、すべてをあたかも敵のようにみなして排除する。

会社も、教育も、政治もほとんどが、同じ関心の輪を持つものの集合体でなければ生きていけなくなってしまっているのではないのでしょうか?

このように同種のものが集まることで、視野はどんどん狭窄していき、いずれは盲目にようになってしまうのです。

今、それに「なにかがおかしい」と気づき始めた人が増えてきているような気がします。

しかし、それらの人は排除されたり、心が病んだり、病になったりして、枠の外に放り出されてしまう・・・・

また、そう思っていても、そんな状況になってしまうことを恐れて自分を殺してしまう・・・・

その結果が、病や犯罪が増えている原因ではないのでしょうか?

今私たちに必要なことは、自分以外の様々な物事に関心を持ち、関わりをもちことなのではないのでしょうか?

私はガンになる前と、後、何を一番変えたか?というと「優先順位」です。 



私たちが生きていく上で様々なことがあるが、それを行動に移すためには何を選択するのか?ということで人生は変わってきます。


そして選択するうえで、無意識な部分も多い場合もあるが優先順位というものがある。


私のサラリーマン時代は言うまで観ないが仕事が一番優先順位が高かった。

家内が流産到時も私の優先順位は仕事の方が優先だった。(ガンになるわけだ)

しかし歳をとるにつれ、そんな生活を送っていて徐々に自分っていったい何のために生きているんだ?と思うようになった。

家族のためと仕事をして家族を犠牲にする。

自分のためと仕事をして自分を犠牲にする。

お客さんのためと仕事をして家族と自分を犠牲にする。

そして会社のためと言っているが、本当は自分のため・・・・・

もうなんだか解らなくなってきたときに、次男と今年こそは行くと言っていた幼稚園最後の運動会の日と中日ドラゴンズ優勝セール初日が重なって、優先順位で仕事を取った。

しかし、翌日すべてのエネルギーを失って電池切れ・・・・

そのまま、うつ病と診断され3ヶ月会社を休み、復帰をしたがどうしても空回りして挙句の果ては癌

だけどそれが良かった!

5年間生存率は20%前後と言われ、私の優先順位が変わったのだ!!

私の優先順位から、仕事やお金がなくなった。

最初は家族のためにお金を稼ぐことに執着をしたが、子供にとって、妻にとって私は一人しかいないと思った。

その時は子供や家内はどう思っていたかは考えなかった。

改めて自分本位だと思う(笑)

子供にとって、妻にとって私がこのまま死んだら、家庭のためだと言って家庭を顧みずがんになって死んだ父であり夫でしかない。

それでは余りにもやるせない・・・・

だから私は男として人間としてどう生きるかを妻や子に見せようと思った。

それが私を愛してくれた妻とその結果生まれた子供たちへの私が唯一できることだと思ったのだ。

あとどれだけ生きれるかわからない。

再発と言われたら、持って半年、早ければ3ヶ月。

今思い返すと、またまたそれが良かった(笑)

究極の選択なんだから。

そしてすべての優先順位が変わった。

自分の生きざまに集中したのだ。

どう死ぬは、どう生きるか?

またどう生きるかは、どう死ぬか?だと認識した。

それからは、まざに無敵!

だって、死ぬことが私の人生のゴールなんだから。

そして今はいつゴールがやってきてもいい生き方だけを考えればいいんだから。

すべての優先順位は考えずして決まるのだ。

私はこの年で生きるということが分かったような気がする。

生きるとは、

自分の気持ちを大切にすること。

自分そのままに生きること。

自分の生き様を示すことだと私は思う。


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