ここ最近、西尾の農場と自宅と双方での生活をしていますが、週の半分を西尾で過ごすことで自宅や家族の有り難さが今までにも増して感じられるようになりました。

ここ最近、場というものの大切さを実感していますが、「家庭」も場です。

私が思う「良い場」」とは、そこにいるすべての人が自然に融合しあって、良い方向に進むことができるところ。

つまり、誰からの意図もなく、教えることも教えられることもなく、自然にその人に委ねることができるところです。
そう思うと私の場合、家庭という場、職場にもすべてのところに、「結果に対するコントロールや欲求があった」と思います。

家庭とはこのようなものだ、こうしなければいけない、という概念が家庭不和を招いたり、執着を生んでしまう。
幸せになりたいと思うことが、苦しみの原因になってしまうという因果関係が見えてきます。
そんな中私は今、スラム街のようなゴミしかないところで、週何日か一人で寝泊まりしていることで、ただただ存在するだけで有難い、帰るところがあることに感謝できるようになりました。
すると執着が消えていくような気がしています。
たぶんこれも「ない」ことで、あったことに気づくのでしょう。
捨てたり、なくしたり、たとえ奪われたとしてもそれは良いことへの入口だと思えます。
そして大切なことは、取り返そうということではなく、「委ねる」こと。
失ったものより、あるものに視点を向けることで、感謝がわきおこってくるのでしょう。
そう考えると、組織は「ある」ことが原点になっています。
安定、信用、看板、役割・・・・・・
すべてが組織に入ったときにあります。
現在の家族でもほとんどか中流になったことで同じような現象が起こっています。
やはり「ない」ことを起点にして、創造して創ることで幸せになれるのだと思います。
「場」という言葉はよく使われますが、その場を何か具体的な成果に結び付けようとすることで、異なるものを排除しようという力どこからともなく沸き起こってきてしまうような気がします。
がたとえば、○○に活用しようみたいなことがあると、「場が出来せず」、うまくいきません。
それは、「場に全てを委ねる」ことが出来ておらず、「場の力を信じる」ことが出来ていないからでしょう。
場の力を信じ、全てを委ね、結果を見守ればいいということです。

これは自然そのもの。
自然にも目的はありませんからね。
私たちは今、「めぐみ農場」「降りてゆく生き方 上映会」などの場つくりをしていますが、これらは私たちが何かを伝えようとするのではなく、それぞれが個の目的を見つけたり、達成するために成長することで、全体としての目的は決まったものはありません。

めぐみ農場 ⇒ http://ameblo.jp/meguminojo/
降りてゆく生き方 名古屋上映会 ⇒ http://www.nippon-p.org/blog/2012/03/3_in_1.html

それが良い場を作ることだと思っているからです。
きっとそれが一番心地よく感じ、免疫も上がることだと思っています。