「せ、せんめんきっ!早く!!」

6月17日午前、ついに吐血。あまりにだるいので仕事は休みにして、家で映画ビデオでも見るか、ってな感じでソファーに朝からごろごろ。トイレに行って3日ぶりの便通に気分よくしていたのだが、急にめまいと激しい脱力感。

「じゃじゃじゃーっ」。勢いよく口から血やら何やら黒っぽい水がドバドバ出て、あっという間に洗面器半分以上を満たす。

妻「救急車呼ぶよっ」

わし「頼む」

ピーポー乗るのは嫌だけど、仕方ない。



5分で来た救急隊。どっかで見たことある救急隊員だなあと思いつつ、担当医のいる病院に搬送。すぐに輸血されながら、胃カメラ。ただでさえ激しい腹痛なのに、胃カメラ、今のむんかい・・・と思いつつもなすすべもなく。


医者「胃の傷、出血は、ほぼ収まってるかな。当分、入院で食事は禁止です」



今思うと、初めての吐血で、妻も医者も「もうこいつはダメかな」と思ったようだ。

まあ6月初旬のCT検査で「がんは進行してます」と病巣でかくなってたし。

妻は医者に「本人の希望通り、延命措置は取らなくていいんですよね」と救急搬送後、一段落してから念押しされたそうだし。

いままで内緒にしてた周囲や親、子どもたちにも「とーちゃんは末期がん」と教えちゃったし。




まあ今は強い鎮痛剤のおかげか、痛みもあまり感じることなく病院のベッドで暇な日々が始まったという感じ。


サボっていたブログも、この間いろいろあったから思い出しだしまた書いていこう。

パリ話はまたお休みして。


連休明けは、貧血がまたもやひどく進んでいた(赤血球の数の上でかな)そうなので、9日、10日と連続して輸血。11日は東京出張日だったのだが。


わし「仕事で東京1泊行っても、大丈夫かな」

医師「輸血すれば大丈夫

わし「じゃあ、行こう」

医師「だけど、いつ倒れてもおかしくない数値だから駅ホームとかいろいろ気をつけたほうが良い」

わし「はあ」


・・・落っこちたら死にそうなところには近づかないことにして、11、12日と会議出張で久々の東京。


東北各県の皆さんと久々に会食。宮城の支社長(気仙沼出身)、福島の専務(避難所生活中)とか、なんとも悩ましい状況が続くなか、相当に頑張っているそのせつなさがそれぞれ生身から伝わってくる。


宮城支社専務「ありゃ、チュウネンコさん、どしたのその頭?」

  (フサ頭がツルリンに変わっているのを見て・・・私が癌で闘病中とか、抗がん剤でハゲたとか、業務上のおつきあいでは一切内緒にしているから誰も知らない)

わし「はあ、私の頭にも、ちと災害が

宮城「・・・」

わし「・・・」

わしの心の声 (し、しまったー!笑いも突っ込みもできない、一番ヤバいジョークをかましてしまった・・・)


東京出張は身体的にはコケずに帰ってくることはできたが、震災で苦労するみなさんにエールを送り損ねて精神的にコケまくった感の一夜でした。

5月1日 


残念その⑤=帰りたがる娘


フランス到着日の続き。ドゴール空港からパリ市内のリヨン駅まで2時間も空港バスに揺られた次は、メトロに乗って。2駅でホテルのある目的地だが、まあ地下鉄駅もエスカレーターといい壁といい通路や改札などどれもこれも薄汚れていてコキタナイんだよねえ。で、まあホテルに着いてやっと一息。お部屋といえば、分かっていたけれども、ツインのベッドできゅうきゅう。チョー狭い部屋なのだ。景色もさっぱり、バスタブもないし、まあ清潔で値段相応なんだけど、前日の成田がジュニアスイートのコネクトルームだったから、子ども達には落差がちと大きすぎたかな。


stageⅣの、ちょい呑みブログ

▲窓からは倉庫や鉄道が見える。


娘「ねえ、もう帰りたい」

妻「えっ?着いたばっかりじゃん」

娘「帰りたい」

妻「またすぐ12時間も飛行機乗るんだよ」

娘「それでもいい

オヤジの心の声(あーあ、着いたばっかりでこれかよ。旅の借金はこれから返すのになあ・・・)




残念その⑥=会話のない家族の夕食


時差ぼけ解消のため、少しでも夕食を食べてから現地時間に合わせて寝ようと、近くのレストランへ行ってみる。


わし「イタリアンの店か。まあここでもいいや」

妻「ピザとパスタたべて宿に帰ろう」

娘「・・・」(終始ブスーッとした態度)

息子「ごはんないかな」

わし・妻「あるわけねえだろっ」


ヘンな仏語とたどたどしい英語でなんとか注文。白ワインで妻と乾杯。子どもたちは「早く帰ろうよ」状態で、シラーって感じ。