針を巻き戻す
ダンナである。
ありがたいことに、このブログではがん患者の方や、
がん患者を家族に持つ方からコメントをいただいたりする。
本当に自分勝手な理由から、なかなかそのひとつひとつに
返信をすることはできてないのだけど、それでもそれらは
強いはげましとなって、このページを支えてくれている。
先日コメントをいただいた「みゆぅ222」さんは、
幼いお子さん3人いる状態で、旦那さんに再発があったという。
胸が痛む。
そして、気付かされる。
がんに関していえば、
私は今「その時」を終えて呆然としている人間かもしれないが、
同時に今、
考えたくない「その時」を前に絶望感に打ちひしがれてる人もいて、
一度治りつつも、再発という「その時」の不安に苛まれてる人もいて、
ホントに治るのかよと疑心暗鬼ながら
苦しい治療の「その時」まさに真っ最中の人もいて。
前でも後でも最中でもがんは等しく残酷で、
では何ができるのか?
少しずつ、いろんなことを思い出してみようと思う。
ブログの性格上(ヨメが見ていたり)、その時は書けないことが
少なからずあったし、書き漏らしたこともあった。
私の経験の中に、役立つ情報はまだ残っていないだろうか。
最期の瞬間は、
本当に予想もしていないほどのあっけなさだった。
つるべ落としのスピードだった。
7/4の一時帰宅&家族会議のときの様子で、
私は勝手に、あと2~3ヶ月は大丈夫だろうと踏んでいた。
臨終前日の7/8、ギフからの深刻な電話を受けたときも、
いよいよ、という気持ちはあったものの、
まさかそれが翌日に迫っているとは思ってもみなかった。
「翌週勝負か……」ぐらいの自己判断だった。
性格がのんき、ということももちろんあるだろう。
あと、治療を始めて以来、かなりキツい話を聞かされ続けてきたので、
「深刻です」という言葉に耐性がついてしまい、
「まー、まだ大丈夫だろう」と思うクセがついていたところもあると思う。
正直な話、看護する側としては、
最期の瞬間への恐怖ももちろんあったが、それと同程度に
「いったいいつまで闘病は続くのか?」という恐怖も同時にあった。
たとえば私の場合、会社を辞めてヨメの実家に向かうことを決めたが、
そこから体調が回復して2年3年もっていたらどうなったのか、
想像もつかない。
ケツが見えない闘いにとまどいながらも、
ケツにおびえてすごしていた。
だがそのケツは、あっけないほど、あっというまにやってきた。
その覚悟の持ちようは
やはりわからないとしか言い様がない。
ヨメは、東京、川崎、いわき、と3つの病院でお世話になった。
私はどの医療機関でも、その的確な診断と心優しい対応に感動して、
プロフェッショナルな彼らに尊敬の念を抱いていた
(特に、訴訟関係、患者の権利意識が影響しているのだろうが、
どの病院もインフォームドコンセントがトコトン丁寧で、
逆にお医者さんたちが気の毒になるほどであった)。
ただ、ひとつ心残りがあるとすれば、
最期の瞬間にコミュニケーションが足らなかった点だ。
私が東京で、先生がいわきで、
直接話せる機会が少なかったから仕方ないとも言えるのだが
(おまけに、1回だけの対面は、ヨメも同席だった)。
最期の1週間前の家族会議で、私たちは化学療法やるやらないを
真剣に話し合った。
しかし、後で聞いた話では、もう福島に転院してきたひと月前の時点で、
ヨメは化学療法に対応できる肉体ではなかったという。
先生は、ヨメに希望を与えるために、
その可能性を匂わせていただけだったという。
私は、それを最期の日の前日まで知らなかった。
化学療法の話題が出るのなら、まだ大丈夫だろうと判断してしまった。
あの時、もう本当にぎりぎりの肉体であることを知っていれば。
直接先生と一対一で話せていれば。
せめて電話でもしていれば。
完璧がありえないことなど、わかっている。
ただ、そんな些細なことで発生するわだかまりを、
残された者はこれからずっと抱えていくのだ。
あの時もしも…………と。
明日、再びいわきに向かいます。
あさっての25日は、はたせなかったヨメの39回目のバースデー。