がんフーフー日記 -43ページ目

物語は、まだ途中

ダンナである。




先日KZO宅で、ちょっとまじめな話をした。

その中心は、やはり現在の現実感のなさについてだった。

あれからひと月以上経っても、相変わらずポケーっとしたままの

自分たちの感情はどうなんだろうと、真夜中につぶやいてみたのだ。


身近な人の死の瞬間には、きっと立っていられないような

衝撃に襲われるものだと思っていた。

心がバラバラに砕け散るような、

それ以前とそれ以降では別人になってしまうような

ディープインパクトが来ることを想定して、

私たちは両足を踏ん張り、神経を張り詰めていたはずだった。


でも通り過ぎたのは、吹き飛ばされそうな衝撃波ではなく、

どろ~んとした、けだるい熱波だった。


拍子抜けした。

次に、死がそんなぬるっとしたものでいいのかよ、という怒りが湧いた。


「……まだこないすね」

KZOは言う。号泣も悔恨も訪れない自分に苛立つかのように。


「……いつかなんかわかるんすかね」

確かに人格崩壊は起こさなかったが、

これはこれで別の何かに捕まってしまったような、不健全な気分である。



何か言おうとして、うまく言葉が出なかった。


かっこいい言葉でさすがの先輩風でも吹かしてやろうと思ったが、

ぼんやりとした想いは、なかなか像を結ばないのであった。





また先日、ギフとちょっとシリアスな話をした。

ギフは娘の死について「神も仏もない」と言っていた。

何度も何度も「悔しい」という言葉を使っていた。


そして「これから家族への接し方など、いろいろ変わってくるんだろう……」と

独り言のようにつぶやいて、それがひどく心に残った。





思えば、すべてはドミノのようだった。


ヨメと出会って、再会して、プロポーズして、懐妊して、

がんになって、ぺ~が産まれて、この世からいなくなって。


なにかが起こると、それが次のドミノを倒し、またそれが新しいドミノを倒す。

「因果」という言葉がふさわしいのかどうかわからないが、

いつもひとつの結末が、次の何かの始まりだったりしてしまう。



ヨメの死も、ひとつの大きな終着点でありながら、

もうすでに次のドミノを倒し始めているようだ。


ギフは自ら言うように、ここから少しずつ変わっていくのだろう。

KZOも、想像と違う形であれ、これまでと同じではいられないだろう。

私がこれからどんなチェンジを遂げるのか、自分自身にもわからない。



ヨメはいなくなったけど、その余波を浴びて、

私たちの物語は新しい展開を見せていく。






そういえば、終戦記念日にあわせてやっていた『歸國』(TBS系)というドラマで

例のセリフを言っていた。

たしか西原恵理子のマンガにも出ていたと思うが、


「人は二度死ぬ。

 一度目は肉体が滅びたとき、

 二度目は誰からも思い出されなくなったときだ」


みたいなセリフだ。



それを「人生=物語」という観点から見ると、

以下のように言い換えられるな、と、ふと思った。



「人の物語は二度終わる。

 一度目は自分が主人公の物語を終えたとき、

 二度目は脇役として誰の物語にも関与しなくなったときだ」






今、再びむずむずと動き出そうとする私たちの物語は、

残りの長短にかかわらず、死ぬまで続いていくのだから

今わからないことでも、いつかわかるかもしれなくて、

今やりきれないことにも、いつか微笑めるかもしれなくて、

で、もしも大事な登場人物がいたなら、絶対またどこかで出てくるはずで、

「あ、こんなこと前もあった」とか

「なんかシンクロしてない?」とか

「あのときのこと思い出すなぁ」とか

「結局そこに戻んのかよ!」とか、

そんな「誰かとまた出会ってしまうストーリー」っていうのは、

なかなかに重層的で、シンフォニックで、

滋味の効いた、豊かなものなんじゃないかと私は思ってる。



物語は、まだ途中。

だからあせらず、あきらめずいこう。




……みたいなことをあの晩、KZOには言いたかったのだが、

たしかにこりゃ口頭ではムリだったな。