物語は、まだ途中
ダンナである。
先日KZO宅で、ちょっとまじめな話をした。
その中心は、やはり現在の現実感のなさについてだった。
あれからひと月以上経っても、相変わらずポケーっとしたままの
自分たちの感情はどうなんだろうと、真夜中につぶやいてみたのだ。
身近な人の死の瞬間には、きっと立っていられないような
衝撃に襲われるものだと思っていた。
心がバラバラに砕け散るような、
それ以前とそれ以降では別人になってしまうような
ディープインパクトが来ることを想定して、
私たちは両足を踏ん張り、神経を張り詰めていたはずだった。
でも通り過ぎたのは、吹き飛ばされそうな衝撃波ではなく、
どろ~んとした、けだるい熱波だった。
拍子抜けした。
次に、死がそんなぬるっとしたものでいいのかよ、という怒りが湧いた。
「……まだこないすね」
KZOは言う。号泣も悔恨も訪れない自分に苛立つかのように。
「……いつかなんかわかるんすかね」
確かに人格崩壊は起こさなかったが、
これはこれで別の何かに捕まってしまったような、不健全な気分である。
何か言おうとして、うまく言葉が出なかった。
かっこいい言葉でさすがの先輩風でも吹かしてやろうと思ったが、
ぼんやりとした想いは、なかなか像を結ばないのであった。
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また先日、ギフとちょっとシリアスな話をした。
ギフは娘の死について「神も仏もない」と言っていた。
何度も何度も「悔しい」という言葉を使っていた。
そして「これから家族への接し方など、いろいろ変わってくるんだろう……」と
独り言のようにつぶやいて、それがひどく心に残った。
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思えば、すべてはドミノのようだった。
ヨメと出会って、再会して、プロポーズして、懐妊して、
がんになって、ぺ~が産まれて、この世からいなくなって。
なにかが起こると、それが次のドミノを倒し、またそれが新しいドミノを倒す。
「因果」という言葉がふさわしいのかどうかわからないが、
いつもひとつの結末が、次の何かの始まりだったりしてしまう。
ヨメの死も、ひとつの大きな終着点でありながら、
もうすでに次のドミノを倒し始めているようだ。
ギフは自ら言うように、ここから少しずつ変わっていくのだろう。
KZOも、想像と違う形であれ、これまでと同じではいられないだろう。
私がこれからどんなチェンジを遂げるのか、自分自身にもわからない。
ヨメはいなくなったけど、その余波を浴びて、
私たちの物語は新しい展開を見せていく。
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そういえば、終戦記念日にあわせてやっていた『歸國』(TBS系)というドラマで
例のセリフを言っていた。
たしか西原恵理子のマンガにも出ていたと思うが、
「人は二度死ぬ。
一度目は肉体が滅びたとき、
二度目は誰からも思い出されなくなったときだ」
みたいなセリフだ。
それを「人生=物語」という観点から見ると、
以下のように言い換えられるな、と、ふと思った。
「人の物語は二度終わる。
一度目は自分が主人公の物語を終えたとき、
二度目は脇役として誰の物語にも関与しなくなったときだ」
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今、再びむずむずと動き出そうとする私たちの物語は、
残りの長短にかかわらず、死ぬまで続いていくのだから
今わからないことでも、いつかわかるかもしれなくて、
今やりきれないことにも、いつか微笑めるかもしれなくて、
で、もしも大事な登場人物がいたなら、絶対またどこかで出てくるはずで、
「あ、こんなこと前もあった」とか
「なんかシンクロしてない?」とか
「あのときのこと思い出すなぁ」とか
「結局そこに戻んのかよ!」とか、
そんな「誰かとまた出会ってしまうストーリー」っていうのは、
なかなかに重層的で、シンフォニックで、
滋味の効いた、豊かなものなんじゃないかと私は思ってる。
物語は、まだ途中。
だからあせらず、あきらめずいこう。
……みたいなことをあの晩、KZOには言いたかったのだが、
たしかにこりゃ口頭ではムリだったな。