人の一生 | 徒然なるままに 〜CUT SHOP Diary〜

徒然なるままに 〜CUT SHOP Diary〜

ブログ始めました。

中野区でヘアカット専門店(1000円カット的な業務内容の1500円カット)を営んでおります。
日記、お知らせ、小ネタ色々書いていく予定です。

店主です。


今回、気まぐれ営業の火曜日を臨時休業にして実家へ戻っていました。



なぜ正月に帰ったのに急遽また戻ることになったかというと、入院中の祖父が誤嚥性肺炎で容体が急変し、もう長く持たないかもしれないということだったからです。



その連絡が入ったのが18日の木曜日で、私はすぐにでも行こうと思ったんですが、面会が週に1回、2名までと決まっていて、駆けつけたとしても病院の規則で顔すら見れるかわからないということでした。


「祖父と孫」という間柄ではありますが、やはり優先すべきは祖父からみた息子、娘たちであり、貴重な枠を私が使って、そのせいで会わなければいけない人が会えなかったらどうしようとか、葛藤があったのも事実です。



ですので、ずっとモヤモヤしつつも仕事をこなし、一旦冷静になってどうしたらいいものかと考えていました。



月曜日に母に様子を聞いたところ、多少持ち直したというか峠は越えたような感じでした。ですが、やはりお年寄りの誤嚥性肺炎は死に直結するパターンも少なくないですから、今日良くても明日急変ということもありえますし後悔しないよう地元へ戻りました。



枠に関しても、絶対に会わなければいけない最も近い血族の人たちはみんな面会できたようですし、私は母親の分の枠を使わせてもらう形で、父親と2人で面会することになりました。



祖父の年齢は正確にはわかりませんが、私がカットショップを開業する1〜2年前に米寿祝いをした記憶があるので、もう92〜3歳くらいでしょうか。


コロナ禍ということもあり、なかなか帰ることができない間に認知症になってしまったようで、もしかしたら私のこともわからないかもしれない…それでも、私は祖父に会いに行かずにはいられませんでした。




理由としては10数年前祖母が、ずっと会えないまま風邪からの肺炎であっという間に逝ってしまったからです。





ちょうどその日は休みの日で一日中寝ていたんですが、日が暮れるころ父親から電話が入ったときは、逝ったすぐあとだったようでした。あの時、「母さんが逝ってしまった」と、初めて聞いた父の涙声はいまでもよく覚えています。


休みでしたし、連絡があればすぐにでも新幹線に飛び乗っていたのに、もっと早く言ってくれたら俺も間に合ったかもしれない、そう言って当時の私は母親を責めましたが、今考えるとあの時本当に祖母が死んでしまうなんて、急変する数時間前までは誰も思っていなかったと思います。私自身も、地元に帰りさえすれぼ何年何十年経とうといつだって会えると、そんなことありえるはずないのにそう思っていました。糖尿病はありましたが、とても元気な人だったので。


祖母は、私が帰る時必ず抱きしめてくれました。

私は決まったように毎回「またすぐ来るから、おばあちゃんも元気でいてね」と言います。

東京にいて、新幹線どころか夜行バスで帰るのだって時間的にも金銭的に厳しくて、すぐなんて来れるはずないのにそう言っていました。


結果的に、私は数年間祖母に会うことがないまま、2度と会えない状況になってしまったということです。


そういう後悔を、やはり今でも不意に思い出したりしますので、同じ後悔はしたくないという気持ちが強いんだと思います。








面会は、15分間という短い時間制限があるのは事前に聞いていたので、私は行きの新幹線の中で、祖父に伝えたいことをずっと考えていました。


ですが、いざ面会となったとき祖父は、もうほとんど目を開けることもなく、酸素マスクをつけ辛そうにぐったりした様子でした。


私はそんな祖父を見て、用意していた言葉が全てふっとんでしまうくらい、辛かったし悲しかったです。


私が言葉に詰まっていると、父親が「〇〇が来たよ!わかるか?」と耳元で伝えると、祖父は私の顔をしばらくみて、ウンウンと首を縦に振ってくれました。

私は、その瞬間嬉しくて涙が込み上げてきました。

何か伝えたそうに喋るのですが、何を言っているのかもわからないくらいで、そんなやり取りをしているうちにあっという間に15分経ってしまいました。

私は最後に「またすぐ来るから次はもっと喋れるようにおじいちゃんも頑張ろうね」と言いました。

今度はおばあちゃんの時のように嘘にならないよう、私はまた何度も会いに行こうと思いました。


そして、嬉しいことに手を動かすのさえ辛そうな祖父が、帰り際に私が手を振った際、ゆっくりですが手を振りかえしたのです。

私は、先に出ようとした父親に「じさ(地元の方言でおじいちゃんという意味)が手を振りかえしたよ!」そういうと、父親もとても嬉しそうでした。


私は、一番伝えたかった「大好きだよ」という言葉を伝え忘れてしまいました。

ですので、次会えた時は伝えたいと思っています。



そして、祖父の様子ですが今日は昨日よりまた良くなったらしいです(笑)


生命力の強さに驚かされます。病気じゃなくたって普通に考えて年齢的にも、もういつ何があってもおかしくないはずなのに、凄いなって。



きっと、まだまだ生きたいんですよね。そうじゃなきゃ、脳が「もういいよ」って生きるのを諦めてるはずですもん。


ただ、綺麗事抜きの話ですが、生きるということはもしかしたら今後退院しなければいけないかもしれない。退院したあとの介護のこと、考えなければいけないことがたくさんあると思います。



そうなった時、きっと一番大変なのは私の母親でしょう。



「命」と「介護」



このふたつは決して天秤にかけられることではないんですが、やはりそうなったときに誰かが大変な思いをするんですよね。

登場人物全員が幸せな介護生活なんて、きっと世の中には存在しません。



生きてほしい。


でも、誰も辛い思いをしてほしくない。


そう思うのは、わがままですよね。



こういう時、故郷を捨てたことを後悔したりします。私が一度も地元を離れずにずっと残って、介護の資格とって祖父や祖母のお世話する未来だってあったはずです。




全国的にみても田舎の県の、その中でもかなり田舎の地域の田んぼに囲まれた場所で生まれ育ち、都会の生活を知らないまま何十年も生活していた祖父ですが、いい人生だったのでしょうか。




私のように自身を育んでくれた故郷を捨て、東京やその他都会に拠点を移した人間は、いい人生と言えるのでしょうか。


人は、何を失ったのか分かるのに時間がかかるように、何を手に入れたのか分かるのにも時間がかかります。


何を得て何を失ったのか。


何を失い何を手に入れたのか。


今の私にはわかりません。もしかすると、人生の終わりくらいにその答えが出るものなのかもしれませんね。




死ぬ瞬間にいい人生だったと思えるよう、悔いのない人生を送りたいものです…。