なぜここまで走って来たのだろう。母校の高校の坂の下。

佐倉のマラソン大会の打ち上げで久しぶりに同級生と飲み語らい、亡失していた文化祭で制作した8mm映画が見つかって、少し感傷的になってしまったのか・・


校舎へと続く坂道。

昔、部活でならしたように坂道ダッシュ5本ぐらい、かましてやるか。
・・・
喘ぎながら駆けのぼる坂道、思いは30年前に飛ぶ・・
「ラスト一本!」女子マネージャの励ます声に駆け上がったその場所には確かに白い校舎が夕日に照らされていたはずだ。


少子化の問題もあって高校の統廃合が進む中、わが母校も廃校は免れたものの、交通の利便の良いニュータウン地区に移転の憂き目を見ることになった。22年に閉校式、一昨年校舎の取り壊しが行われ、今は更地になってしまった。
そこには行きかう人もいなければ、学校があったことを示す何物も残ってはいない。ただの静寂のみが支配する空間が広がっていた。


三年間という短いながらも濃密な人間関係を醸してくれたわが学び舎に感謝!校舎はなくとも思い出はわれらが心の中に。


折から小雨が降り出しました。空も惜しんでくれますか・・

日本語においてカタカナは主に外来語に使われる。また海外で認知された日本語もカタカナで表記されることがある。例えば「スシ」「カラオケ」数え上げればキリがない。

しかし、ことに地名がカタカナで表記されるに及んでは少々身構えざるえない。そう「ヒロシマ」「ナガサキ」そして震災・津波・原発事故の三重苦にあえぐ「フクシマ」・・いまや世界において「フクシマ」は誰もが知っている日本語になってしまった。「ツナミ」という言葉とともに。


関西電力・大飯原発の再起動問題。この度の東日本大震災の福島原発での想定外の被害が出るに及んでも、このような不毛な議論がなされていることにあきれ果てることしかできない。


危ないものは止める!議論の余地などはない。ストレステストの評価とか地元の理解とか、そんなものははるかに超えた次元の話なんだ。


夏場の電力不足、来るなら来い!昨年同様、日本国民一丸で乗り切ってやる。

少なくとも、福井を「フクイ」にしないために!、故郷を「カタカナ」で呼ばないために!

時計は0時を回った。この病室で日付をまたぐのは何日目だろう。きょう8月22日はかたわらに横たわる母の89回目の誕生日だ。大正11年生まれ。関東大震災経験者だ。これで2度の震災を乗り越えてきたわけだ。

入院当初は経過もよく、医師もその回復ぶりに驚異の目を見張り、家族もあわよくばお盆明け、遅くとも誕生日には家に帰れるだろうと楽観していた。だが事はそううまくは運ばず、一週間前に病状が悪化し、そののちは一進一退、きょうで入院18日目を迎える。


「病床六尺」これが今の母の世界である。ただでさえ小柄な上にこの入院でさらに小さくなってしまった母には広すぎる。

私は6人兄弟の末子、男3人、女3人よく産み分けたものだ。母が40歳の時の子だ。いわゆる「女四十の恥かきっ子」である。今でこそ高齢出産は珍しくもないが、早婚・早産が当たり前だった時代の言葉である。

小学校の頃の同級生はみな若いお母さんたちで、子供ながらにそのことに引け目を感じていた。「お前のかあちゃん、年寄りだな」はっきり言う奴もいた。

運動会の「親子競争」の時だ。同級生の前に母を連れ出すのがいやで、姉だったか、親戚の人だったかに代わりに出てくれるよう頼んだことがある。その時の母の気持ちやいかに、罪深い事をしてしまったと今も悔やまれ、心が痛い。

その罪滅ぼしではないが、時間が許す限り「病床六尺」の傍らに付き添っていようと思う。

今年は自宅と病院、場所は違えども一つ屋根の下で過ごすことができた。

来年はそれがかなうだろうか?

「病床六尺」を引き払い、90歳=「卆寿」の祝いを自宅で家族揃ってことほぐことができることを願ってやまない