もう27、8年前のことである。当時学生だった私はJRの車内販売(今はワゴンサービス)のバイトをしていた。

上野7:30発「ひたち5号」原ノ町(繁忙期は仙台)行き、常磐線の在来線特急である。距離が長いので一往復で当時10,000円と実入りがよかったので、よく乗務させてもらった。

売り上げの6~7割は茨城の水戸までで稼いでしまう。福島県に入り、平(現:いわき)過ぎれば乗客もまばらで、あとは終点まで実質「休憩」。仕事柄、車掌と仲良くなると、空席に座って休むことを許可してくれる。

「久ノ浜」駅に近づくと右手に雄大な太平洋が現れる。その車窓を楽しみながら列車は私を終点へと運ぶ。

「富岡」「大野」「双葉」「浪江」「小高」そして終点「原ノ町」。今でも駅名は空で言えてしまう。


そうこの地名・・今、地震・津波・原発の三重苦の被害にあえぐ街だ。

連日、この思い出の地名を聞くにつけ、当時の静かな海とのどかな田園風景を知っているだけに、こころ穏やかではない。

あの風景はもうそこにはないのだろう。


この未曽有の大惨事から復興を遂げるにはあと何年かかるか想像だにできない。ただ絶対に我々はそれを成し遂げる。これが今回命を落とされた方々への「弔い合戦」だ。


何もできない自分にやきもきしても始まらない。我々にできることは、人や金、物資を送り込み、後方からの支援体制を整えること。それしかあるまい。


見事復興を遂げたなら、もう一度この街を訪ねてみよう。そこにはきっと昔と変わらぬ風景があるはずだ。