環7ウォーク余録 学徒出陣 平和島 | 楽典詩人

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環7ウォークで平和島まで歩いたが、ウォーキングから離れた話を書いておきたい。

 

今年は太平洋戦争中、昭和18年の学徒出陣からちょうど80年で、10月には新聞にその特集が何度か組まれた。その時20歳で招集された学徒は、生きていればちょうど100歳になる年だ。

学徒出陣の話題は11月になっても続いているようで、今朝の新聞の投書欄には、投稿者の母親が神宮外苑で泣きながら小旗を振って出陣学徒の見送りをしたという記事があった。

 

ずいぶん昔になるが、職場の大先輩からその話を聞いたことがある。

彼はその時東京の私立大学の学生で、ちょうどその学徒出陣に該当したそうで、昭和18年10月21日に神宮外苑競技場で行われた壮行会に出たという。

壮行会では大学ごとに分列行進をしたそうだが、その日は雨で行進が始まるまでは同級生たちと不満を言いながら待機していたそうだが、競技場に出ると観客席が女学生で埋められており、その声を聞きながら女学生の前を行進していると何故か一つやってやるかという気分になったと話してくれた。

 

当局が学生たちの戦意高揚を女子学生を使って図ろうとしたのだろうが、スポーツでも戦争でも、戦わなければならない男たちを勇み立たせるには女の声援の力が効果を発揮することを計算したのだろう。

彼はその後将校になり満州に行きシベリヤに抑留されたと話してくれた。

 

じつは私の父も大正12年10月生まれで、その時ちょうど20歳になった。

父は四国の人間だが、大阪で働きながら夜学に通っていた。

在学中であることから、その年の徴兵を猶予するという通知をすでに受け取っていた(その通知書を父は保管していて、私も若いころそれを見た覚えがある)が、この学徒動員令で徴兵されることとなり、その年の終わり近くなって善通寺の師団に招集された。

善通寺で基本的な訓練を受けた後も善通寺に残り、昭和19年には新たに招集される新兵たちの教育の補助をしながら出動の待機をしていて、いよいよ南方に出撃する編成に一旦組み入れられたそうだ。そうしたなか、部隊長から軍の教育機関の受験を命じられ編成から外されたという。父が受験のため善通寺で待機している間に、その隊が乗った輸送船は香港沖で敵の攻撃で沈没し、200人全員が死亡し、それに乗っていたはずの父は通信を担当している先輩の兵からそれを聞いたという。

 

その後父は受験に合格して東京で教育を受けることになった。

父が東京にいた昭和20年は東京の空襲が激しくなり、連夜の空襲で睡眠がとれず教育を受ける昼間もいつも眠い思いをしたと言っていた。

 

そのころ、外国人捕虜収容所は、大森の先の小さな人工島にあったようだ。

戦後四国に戻った父は、ごくたまに大森の捕虜収容所について口にしたが、私は特に興味を持ったことはなかった。

 

ネットで調べてみると大森近辺は昭和20年5月下旬に何度か激しい空襲を受けているようだ。

捕虜収容所の周辺で空襲があると、不測の事態に備えての警備体制が敷かれたようで、教育機関に在学していた父もその警備に何度か駆り出されたようだ。

 

収容所内には一度も立ち入ったことはなかったようだが、ある時人工島をつなぐ小さな橋の上に一人で立っていると不意に敵(ここが捕虜収容所だということは周知されていただろう)の戦闘機グラマンではないだろうか)が現れて、父に向って機銃掃射を浴びせて来たという。父は死を覚悟したようだがすばやく欄干脇に身を投げ、一命をとりとめた。後で見るとすぐ近くに一直線に弾痕が続いていたそうだ。

 

今回初めて平和島に行ったが、当時と違い平和島周辺は広大な埋立地になっている。

当時の捕虜収容所は現在の平和島競艇場の観覧席があるあたりだという。

 

 

 

なお、戦後はこの捕虜収容所が、日本人戦犯の収容所として使われたようだ。

そうしたこの土地の歴史を踏まえ、ここが平和島と命名され、また、競艇場のホール前には観音像が立っている。

 

 

父が機銃掃射を受けた小さな橋はもちろん存在せず、当時の資料で見ると現在は、大森方面から伸びてくる広い道路になっているようだ。

 

 

道路の写真を載せるが、この道路のどのあたりだったかは父が3年前に死んだので確かめようがない。