パンデミックも終焉を迎え、地球規模の往来が盛んになってきた今日この頃。順調に経済成長を続ける世界各国に対し、30年以上の停滞ですっかり後退したわが国だけが、デススパイラルに飲み込まれて苦しんでいるようで歯がゆい。
とはいえ、なんとか策を講じて海外にも出向いて見聞を広めるべく、ただいまスケッチ旅行を模索中!
さて、
世界中の観光地では、どこに行っても必ずと言っていいほどその地の風景画や民族衣装を着た人物画などを売っている土産物店が軒を連ねる。
レベルはマチマチで、技法(画材)もさまざま。
しかし、残念ながら、未だかつてその手の絵を「いいな!」と思った記憶がない。
その理由は私なりになんとなく察しはついているものの、深く考えたこともなく言葉にしたこともなかった。
パリセーヌ川沿いのお土産屋
※この記事との直接的な関連はありません。
なので、この機会に少し考えてみようと思う。
何度も言うが、本当にこの類で “いい絵”を見たことがない。
手垢のついた風景を、手慣れた筆遣いと技法で何も考えずに描いたであろうそれらの絵からは、いくら “上手くても” 何の感動も共感も感じない。
その感覚は、著名な絵描きがお金のためだけに同じ絵を何枚も並べて描いたような 魂を売った絵 = “売り絵” を見た時と同じだ。
絵は技術ではないと思う瞬間でもある。
“悪達者” という言葉がある。
■三省堂大辞林
"悪達者" わる だっしゃ
芸などがたくみであるが、品がない・こと(さま)。
そのような人をもいう。
■図書出版皓星社 隠語大辞典
"悪達者" わる だっしゃ
本筋を離れて邪道で巧くなつた芸。
ということらしい。 言い得て妙。
“技術の受け売り” だけでは到達できない。
自問自答しながら表現を追い求める真摯な姿勢が大切なんだと思う。
体裁だけ整えてもすぐに壁にぶち当たる。
壁を意識できればまだましだ。
その次にステップアップできるかもしれない。
だが、そこそこの体裁が整っただけで満足しているようなら、その先はないと思っている。
【関連記事】
“技術は後から” 2017年12月29日の記事
“画家 堀文子 96歳” 2014年9月15日の記事
異論もあるだろうが、絵と真摯に向き合っているかどうか、私自身いつも初心に戻って考えている。その中でどうしても違和感を感じる “技術至上主義” に対する私なりの見解だ。
※ 伝統的な技法の伝承に価値を置く表現世界については、私は全く異論はない。私自身大学では美術学部工芸科で金工(鍛金)を専攻していたので、その重要性はよくわかっているつもりだ。 この記事は、個としての“絵を描く意味”について私なりに到達した結論である。