約二か月近くの休暇帰国を経て、任地に戻ることになった。
帰省して両親に会い、友達にも会い、本省にて関連する人にすべて会った。
遊びたいだけ遊んだ。
ゆっくりできたと思う。

だけど、再び任地に戻る際、ものすごく憂鬱で仕方がなかった。

この休暇帰国での日本滞在時、遊ぶだけではなく、この役所を辞めて次に何をすべきか、ということを彼女とものすごく真剣に話し合っていた。
でも、結論は出ない。
何をしていいのか分からないままだから。

少しの貯金はあっても、何か習おうとするとあっという間に食いつぶしてしまう。
だから、一歩踏み出すのに、ものすごく躊躇するし、他に何ができるか、二か月間の滞在期間では答えが出なかった。

成田からの飛行機に乗り込み、飛行機の中でそんなことを考えても仕方がないのに、頭の中は辞めてから何をするのか、そんな考えに支配されてしまっている。
遂に頭痛がしてきた。
カバンの中に頭痛薬があって良かった。
飛行機の中ではお通夜モードで、自問自答して考えがまとまらないうちに、任地に戻ってきた。

次の日は、いつもの執務部屋で、俺の不在時に応援に来ていた事務官とお会いすることになる。
休暇帰国は職員なら誰でもある当然の権利なので、何も後ろめたい思いはする必要がないのだが、それでも留守中に応援に来てくれた事務官には感謝の思いで一杯だ。

俺が休暇帰国で離れて数日後に、任地に応援に来てくださったので、応援の事務官とは、俺が任地に戻って初めて顔を合わせる。
お礼を述べて、日本から買ってきたお土産を手渡した。

現地職員一同から、日本に帰ってリフレッシュしたから若返ったねと言われた。
心の中で、そりゃそうだろう、貴国の環境では若さを保てないからなと嘯いた。

いつこの国を離任して帰朝できるのか分からないが、離任までの覚悟を決めて、今しばらく頑張ることにしよう。
 

私、アジア諸国の駐在を続けてまして、現在アジア二か国目の赴任地に居ります。
単身赴任が長くなり、心折れるとまではなりませんが、そろそろ本帰国して親子水入らずの生活を送りたいなあ。ふと頭をよぎること、そう少なくありません。

とはいえ、子供の学費もかかり家のローンもたんまり残っており、会社員として第一の定年まであと数年あるので、踏ん張って働く気持ちは、衰えることはありません。

今働いている会社ですが、それなりに規模の大きな会社であるせいか、優秀で素晴らしい方も多く見てきました。この会社でとても良い上司に恵まれたことは、棺桶に入る前に良い人生だったと振り返ることができると早くも思っているくらいです。

その一方で、それなりに、この人は。。。というような考えを持たざるを得ないような人物にも遭遇しています。
つい最近、残念ながら不祥事が発生してしまいました。
そのようなわけで、本日は趣向を変えて、現在思うことを書きたくなりました。

第一の定年が近くなってきたので、振り返ると、公務員時代も含め雇われ人生を長きにわたり送ってきました。
その間、某省ではさんざ不正を見ましたが、今回近いところで見た今の会社の不祥事もそうですが、かねてから思ってきたことがあります。
時間をかけて忍耐をもって勉強に励み、受験戦争を勝ち抜いて立派な大学を卒業して、就職した。
そこまではいいが、感情コントロールができず墓穴を掘ったり、やる気なく情意評価で低い評価を得たり、そんなことしたら嫌われるに決まっているじゃないかと思わせる、他人の気持ちの分からず屋だったり、燃え尽き症候群になったり、自己摂生ができず自暴自棄になったり、対人ストレス耐性が低いのか、意地悪してその挙句に病気になったり、そのような人が少なからずいるもんだなあという印象を持っています。そして、これは本当に不思議に思えます。
時間をかけて忍耐をもって勉強に励んできたであろうに、なんでそんな風になっちゃうのよ、と。

受験戦争を勝ち抜いてきたからには頭脳の良さと忍耐力や努力する能力があるのだから、会社でも身を持ち崩すことはなくそつなく出来るのだろうという私の考えは少々違ったようです。

それはあんたの会社が盆暗社員ばかりだからじゃないかと言われればそうかもしれないけど、某省だって似たような人を見ました。

いい大学を出てきたにせよ、セカンドキャリアとは無縁の、大企業だからとあぐらをかいているのか社会人として学びを放棄したような振る舞いは、受験勉強もしてこなかった私のような人間の目には、不思議で仕方なく映るのです。

私ごときがおこがましいけど、大半のビジネスにおいては、受験競争で勝つためにしてきた訓練って、 役に立たないのかなって思わざるを得ません。

受験勉強以外に苦労を知らないからなのか、弱者かもしれない相手に配慮が持てないのだろうか?
社会人生活を初めて、物差しがいくつも持てて価値観や多様性を認めてもよさそうなのに、洞察力が低く感情的に破綻してゆく。。。

感情に流されすぐに顔や態度に出て爆発したり、言わなくてもいいことばかり口にして自らの評価を落としてゆく。人の失敗を笑い、人を下げたところで自分の格が上がるわけでもないのに。
なんでそうなのか本人に聞いてみたいところですが、聞いたところで無駄であることは間違いないでしょう。
 

言い争いをして、居心地が悪いながらも、年越しを実家で過ごす。
年が明けてお雑煮。
旧友たちと連れ立って神社へ初詣。
これは、高卒後上京する前と、同じスタイルだ。
新年会と称して、部活の仲間、中高校とクラスメイトだった友達と狂ったように飲んでいた。

そんな日々も、三が日を終えたら、それぞれの住む場所に散ってゆく。
休暇期間中で何もせずに遊んでいられる俺は、いい身分であるようだけど、それまで任地に縛り付けられていて身動きが取れなかったんだから、それくらいの恩恵はあってしかるべきだと、後ろめたい思いは微塵もない。

世間が正月休みから明ければ、言い争いをした実家にもういなくてもいい。
隙間風入る古くて汚い家にいるのはもう嫌だ。
寒いし、心身ともに居心地が悪いからだ。

帰国してすぐに転がり込んだ東京の親戚の家に、任地に帰るまで過ごすことになった。
毎日が馬鹿みたいに晴れだし気温も少しは高い。
くだらない諍いを聞かなくていいから、本当に気分が晴れやかになる。

久しぶりの霞が関界隈、省内外の人たちは実に時間に余裕がない表情でせかせかしている。
本省人事課に、休暇帰国の挨拶に行った。
そんな職員を常時見ている人事課職員はそつなく事務的な対応だ。
その後、俺が在外赴任する前に所属していた課に、顔を出した。
あれから何年も経てば、だいぶ変わっているだろうと思ったが、予想通りで知っている人は三分の一もいない。
唯一救いだったのが、庶務班の俺の後任者がまだいてくれたから、立ち話以上に話が続いたし、昼休みに一緒に外に昼食を食べに行った。
昼食後、最後に所属公館の国を担当する地域課を訪問した。
俺のような初級職の電信担当者の存在など、地域課にとってみればどうでもいいだろうが、一応は挨拶しとこうとの意志が働いたので、地域課に伺ったのだ。

電信官のことなどは気にかかる存在ではないことは分かっている。
同じ語学の専門職である誰々さんはどうか?と聞かれたので、同じ公館の目上の人であるがその人をあまり好ましく思っていない俺は、
「え~いまいちなので、他の人たちは苦慮している模様ですよ」
と、俺はついつい本音をさらしてしまった。
そんなことをいう俺も俺だが、それを聞いた同じ語学の専門職の職員たちは、
「そりゃ大事なことだ。そういうことはたくさん話してもらわないと」
嬉しそうな表情を満面にたたえ、足を引っ張りたいのか、さらに具体的な出来事を俺から聞き出そうとする。
我に返った俺は、
「まあ、思い出すほど具体的で決定的な問題というのはありませんが、何か馬が合わないようなところがあるんじゃないですかね~」
やっぱり、この役所って、俺を含め底意地の悪くてひねくれた職員が多いと確認をすることができた。
 

両親に会い、ああ久しぶりという感覚で、何か感動するかと言えば、そうでもない。
それなりに二人とも老けたかなあと思ったが、それよりも大きく変わっていたのが家庭環境だ。

サラリーマン的な国鉄を解雇同然になって去り、職を転々とした父、退職金をつぎ込んで、借金をして、自営の飲食店を経営していた。


国鉄時代もなにかしらと家族に対するあたりが強かった父。
自営になってから、借金があるからか、店をつぶせないという気負いなのか、そんな環境では母だってイラつきがちになっていた。

自営環境では、サラリーマン時代のルーティン的なしきたりも崩れ、昔に比べて輪をかけて、だらしのない、くっだらない小競り合いが頻発する。

 

冬の田舎町、ボロ屋で気分は滅入って最高に不愉快なのに、精神的にも追い打ちをかけるような家庭環境である。
俺はこんなの見たくて日本に帰ってきたんじゃない。
高校生の頃、父母が衝突するたびに味わった、嫌で嫌でたまらなかったあの感情が、さらに強くなって俺を襲ってくる。

高校の時、何の授業だったか忘れたが、貧窮問答歌の現代語訳に、本当に昔はこんな世の中ってあったのかと強い衝撃を受けた。
主人公は「極貧の中、これほどまでに世の中はどうしようもないものなのか」みたいなことを言っていたかと思う。
俺の場合、幸いながら極貧ではないけど、何時まで経ってもこれほどまでにどうしようもない理不尽な家庭ってあるのかと、やるせなさに胸が張り裂けんばかりだ。

不遜にも叫んでいた。
「俺が遠く日本から離れた地で3年以上も帰らないで頑張っていた間に、まだこんなことやってんのか。成長しているのは俺だけじゃねえか」

久しぶりに投稿しておいてなんですが、今回は暗さMaxです。
閲覧注意に近いかもしれません。でも、休暇帰国中の本当のことなので、アップしました。

※   ※ ※

休暇帰国して、約10日後、クリスマスも過ぎた頃、親戚の家を経由して、ついに実家に舞い戻る。

10日も東京にいないで、実家なんだから早く帰ればと思われそうだが、東京でも旧交を温めたい交友関係がある。
それに、実家にはなかなか複雑な思いがあるから、何よりも優先してすぐに帰る、という気持ちはなかったのである。
あんなに喜び勇んで日本に帰ってきたのだが、実家に帰るとなると、それは同じ感情にはならない。

日本海側の実家、冬は寒いし天気は良くない。
冬の東京は快晴で馬鹿みたいに天気がいいんだから、日本海側と比べると雲泥の差である。
天気や東京の旧友との交友関係より、実家に帰るのに億劫になるのは、過去の実家への複雑な感情だけではない。
貧困と言って差し支えない実家の家屋で過ごすのが嫌だからだ。
実家にもかかわらず、落ち着かない滞在になることは明らかだからだ。
実家を離れて上京した後、実家よりは快適な部屋に住み、外国の広い部屋に住めば、冬という環境を差し引いてみても、快適とは言えない家屋の実家に帰省するのは、気がひけるのだ。

高卒で働かざるを得ない環境で育った家、そして複雑な感情を残した両親との再会は、決して待ち焦がれたものではないことは確かだ。
それに、休暇帰国する前に、父親が脱サラして飲食業を始めたことを知ってしまっていた。。。。
ただでさえ貧困なのに、うまくいってなかったら、貧困に輪を掛けるどころか、底辺まっしぐらになるのではないのか。

会う前に、久しぶり~なんて最初だけで、話せば話すほどストレスフルになっていくばかりではないかと、雪交じりの雨をひた走る帰省中の列車の中で、思っていた。

まあ、案の定、その予感は現実のものとなる。
随分顔つきも変わっていた妹弟に会えたことは、純粋に良かったが、その後がいけない。

口が悪く妙に達者な祖父祖母、性格に問題のある父親と、再会してからほどなく口げんかが始まり、やはりこんなになってしまったかと、本当にガックリときてしまった。

受け流せばよいものだが、受け流せないのは自分も悪い。(了)