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   sunrise*

        嫌でも明日はやってくる。静かな気持ちで今日もゆく。


人にはそれぞれ、こだわりというものがある。

ちょっとした信念。ルーチン。譲れないもの。

なればこそ、自分のこだわりに頓着しない人と、くだんの事柄を挟んで相対してしまったとき、果たしてどうすれば良いだろうか。

相手の無頓着さを指摘し、あるいは自分が固執せずにはいられないことを認めることは、時に関係を悪化させる。

かといって、己が信念を笑って曲げることもまた、その人の幸福を損なわせる。

そも、二兎追う状況を作らなければいいのだが。
僕が年末年始に急性の内臓系の疾患により倒れている間、どうやら勉強部屋についてのアナウンスがあったらしい。

勉強部屋とは、5人、7人、10人のグループを作り、そのメンバーで自習室を借りられるシステム、および自習室を指す。

これが1月中旬までに各々グループを作成し、委員会まで届け出るように、とお達しがあったそうなのだ。

そんなことはつゆ知らず、ひたすら自身の回復に努めていたわけだが、本日実家より帰還し、友人と会った際、言われたのだ。

真面目なおまえが勉強部屋についてのアナウンスがあってからなにも言ってこないのはおかしい、知らないのではないか、と。



これほど嬉しく、ありがたいことがあるだろうか。
彼曰く、彼のもとにはいくつものオファーがあったが、断ったそうなのだ。

持つべきものは友である。

友とは、つまり、一般において、互いに利する行動…ときに自身への不利益も含む…を厭わない間柄、と定義できるのではないだろうか。

いつなんどき不測の事態により窮地に追い込まれるか分からない、それが人生であり。

そんな人生、窮地において、一も二もなく助けてくれる人が友人である。

たかが勉強部屋から始めた話にしては大げさかもしれない。



ちなみに、その後6人に声をかけ、5人がともに勉強しようと言ってくれた(1人は残念ながらすでに他のグループに属していた)。
僕は大学に友人が少ない。それはたびたび友人にバカにされ、言い返せないところである。
しかし、こうして助けてほしいときに手を差し伸べてくれる友人が5人もいるならば、僕はそれ以上望まない。
だって、お互いに精神が不安定となりかねない数ヶ月をともに過ごすことを、即座に受け入れてくれたのだから。なんともまあ信じられないことである。

同時に、彼らのために、彼らが困ったときには、いちばんに助けとなりたい。

そう思った。
病める人は不安である。

病むということは、それが器質的であれ精神的であれ、己の自己同一性を少なからず失うということだ。

寄る辺の喪失を実感すれば、すなわち不安となる。

安らぎがないのだ。

病による機会逸失も少なくない。

だから、例えば優先席であったり、たとえばライブ会場で最前列に通されたりといった配慮は、あってしかるべきで、健常者にこれを奪ったり非難したりする権利はない。

幸福を得る権利だけは、すくなくとも、万人に平等に与えられるものなのだから。

日頃逸している幸せを享受するのは当然である。

ところで、幸せとは、いかに定量化すべきなのだろう。

機会を逸した幸福を補おうとすれど、目安がなければ行きすぎることもある。

たとえば、老人ホーム入居者の、語弊を恐れずに言えば、我儘をどこまで聞き入れるか、というのが最も身近な例だろうか。

不自由な弱者に対する優しさは必要だ。
だが、行き過ぎた配慮は健常者に対する差別だ。

弱者の立場が逆転してしまう。

幸福という観点から万人が平等であるための重心を探るには、幸福が定量化されるべきだ。

最大多数の最大幸福、とはいえど、集合をいかにとるかに依存して最大多数は千変万化する。

ゴールデンスタンダードたる標準的幸福人生というものを、まずは国を挙げて設定したほうがいいのかもしれない。
本名を知らないということは、怖いことだ。

オタクはハンドルネームで呼び合う。
現実とは違う名前で、別の命を生きている。

けど、その命はとても儚くて、ネットから離れてしまったらそこで終わってしまう。
"死んでしまったハンドルネーム"の持ち主とは、もう二度と会えない。

どこかで、本当の名前で、きっと生きている。けど、どんなに仲が良くても、どんなに同じ時間を過ごしていても、名前がわからなかったら、もう会えない。

会えないということに関しては、本当に、その人が死んでしまったのと変わらない。
オタクにとって、ハンドルネームの死とは、その人の死そのものだ。

だから、怖い。

たくさんの大切な友人たちを、失ってしまうかもしれない可能性が、いまこの瞬間にも存在するから。

もちろん、彼らがその名を捨てるとき、きっと縁も切りたいと願ってのことだろうから、それは仕方のないことだと思う。

でも、悲しいことに違いはない。

いまは、なんだかとても悲しい。

だれも失いたくないなあ…

いつまでも、このままで…



友だちで、いてほしい。
誰かに楽しく過ごしてもらいたいと思ったとする。そのためになにかをしたい。さて、何をするのが正解だろうか。

まず、相手が楽しいかどうかはわからない。わかるわけがない。

つぎに、自分が相手に対し、気を支えているかどうかがわからない。

さらに、自分が相手を、少なくとも楽しませようと努力している、ということが、伝わるかどうかがわからない。

わからないのだ。

ならば、変に気を回して相手にいぶかしまれるくらいなら、まずは自分が楽しく、かつ相手に迷惑でない行為から始めてみてはどうだろうか。

 相手にとって迷惑でないかどうかは、その人をいかに知っているかに依存するので、はじめの頃はお互いに失礼を重ねて当然だろう。

そうやって仲良くなっていくのだ。
恋をするとは、どういうことだろうか。

特定の人に対する憧憬、尊敬、独占欲…様々な感情に起因する、その人をもっと知りたいと思う気持ちを持つこと、だろうか。

しかるに、恋とは自分本位な軽い気持ちでいいのであろう。

この前提の上で、恋をすることが好きであることだと考えると、お互いを好きであるということはまた途方もない偶然の向こう側ではないだろうか。

そもそも誰かが自分のことを知りたいと思っている、という想定があまりにも難しい。知ってどうするのか、という疑いが先に出る。

人から寄せられる好意というのは恐ろしいものなのだ。

すこし飛躍するが(ねむい)、つまり、お互い自分にない要素を相手に見いだすことが必須条件だろう。

しかし、

知らないという状態が恋だとすると、知ってしまったところで恋は必然的に終わる。

いや、まあ。

ねむいからいいや。
また明日考えよう。
幸せとはなにか、という問いについて。

幸せとは、それによって精神がより望ましい状態へと向かうような体験をすることである。

と、ぼくは考える。
つまるところ、幸せとは比較であり、結果なのだ。
ある体験をする前と後で、己の精神状態を評価し、経験後のほうがポジティブな気持ちになれていれば、それは幸せだったと言える。

なればこそ、体験の捉え方が重要なのだ。

ものごとをどう捉えたら、自分の精神状態が良くなるのか。

幸せは、ものごとの受け止め方ひとつでいくらでも生み出せる。
一週間が終わった。
この1ヶ月半で朝に対して耐性がついた。
早く起きると一日が長い。

面白くないものは面白くないし、面白いものは面白い。

幸せへのアンテナを鋭敏にしながら生きていこう。


久しぶりの晴れた週末だ。

楽しみたい。
将来の自分へ
自分に甘くなりそうなとき、これを見ろ。
心が弱いことに甘えるな。



頑張っているんだからそんなに責めないで!と、ひとはいう。言う人がいる。
でも、思うのだ。
頑張ったからなんだと言うのだ、と。

過程はどうだっていい。頑張ろうが手を抜こうが、心を込めようが上の空だろうが、どうだっていい。

大事なのは結果だ。
結果の出せないやつは無能の誹りを甘んじて受け入れるべきだ。

どれだけ大変だろうと、やるといったことはやれ。
やれないことはやると言うな。
安請け合いするくらいならその仕事を辞めてしまえ。

できなかったことに言い訳するな。
次回などないと思え。

約束を遂行できるか否かで下される評価は、有能か無能かしかない。

頑張ったから無能だけどオッケーなんて甘い話があってたまるか。

悔しかったら完遂してみせろ。
できないということは、努力が足りなかったんだ。
さらなる努力は、きっとできる。
やるしかない。
気合入れていこう。
私は部屋の隅に立っている。

私は彼を見遣る。
彼は今日まで、血の滲むような努力を重ねてきた。全てはこの日のため。多くのものを犠牲にし、強い精神力と忍耐力、そしてなによりも努力を以って、成長した。

立派に成長したのだ。

彼は再び時計を見る。約束の時間はとうにすぎている。そうであっても、彼がいまだ希望を捨てず、やってきたからこその不安と緊張とを理由にいっときも心休まる時間を得ていないのは、その額に浮かぶ脂汗を見れば明らかだった。

約束の時間がいつだったのか分からなくなったころ、彼は現れた。さも忙しそうに、しかし目はしっかりと無関心の下卑た色で彩りながらご破算を告げ、彼は満足げに部屋から出ていった。

しばし部屋に響くのは時計の秒針の音だけだった。乾いた喉を通る呼吸の音も、一瞬消えた。

やがて怨嗟の唸りが彼から漏れ出す。相手への怨みは瞬く間になりをひそめ、あとは己の未熟さへの呪詛が溢れるのみであった。髪を乱し、目は虚ろに、机を強く握りしめて彼はひた唸る。涙が頬を伝う。

私は部屋の隅に立っている。