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   sunrise*

        嫌でも明日はやってくる。静かな気持ちで今日もゆく。


昨日は朝から桜木町へ。
A応Pさんのリリースイベントに参加するためだ。

chukaさんと落ち合って、カフェへ。
僕は勉強。chukaさんはお手紙を書いていた。

イベント会場となったHMVの店内は足の踏み場もないほどオタクでごった返していた。
列に並んでCDを7枚買い、もろもろ参加の準備が整ったところでタイミングよく巴さんと広瀬さんが登場。

巴さんが今度出演される舞台の話、CDとタイアップのアニメホームズと今期のおすすめアニメの話(奴隷魔術)、ハイスコアガールの話があって、いよいよ私物サイン会。

1人1分で、おしゃべりしながらサインを書いてもらえる。

僕が何を話したかはツイッターに書いた通りだ。

chukaさんも1周目を終えて、しばらく様子を見てみることにした。しかし一向にファンが減る気配はなく、ツーショットチェキは諦め、ピンチェキ参加券をchukaさんに託し、僕は南へと帰った。

帰宅後、よなきにを聴いた。

愛美さんが卒業になるそうだ。



9:45に駐車場で集合した。

「はなそ!」の次なるイベント「いわお!」のチケットを取るためだ。
いま考えると、とくに集まって取る必要もなかったのだが、前日の酔っ払いにとって集まってチケットを取ることに疑問を抱くことは難しかったようだ。

無事チケットを確保したら、いざ出発。
まずは朝食だ。


ともだち役の田村良太さんがツイートしていた木村屋さん。


ハムカツパン、うまい。
ホットドッグ、うまい。
たまごサンド、当然うまい。


圧倒的ボリュームのかき氷(宇治金時味)。

ところでこれは日記だから、将来的に見解が変わる可能性を加味してあえて書くのだが、ぼくはかき氷の美味しさがいまいちよくわからない。

スキー場で喉が乾いたとき、周りの新雪をかき集めて食べたりするが、かき氷のシロップがない部分はそれとなんら変わらない味がする。

スキー場の雪の味+せっかくのおいしいシロップやら餡やらが、氷のせいで薄まった味=かき氷の味、という認識なのだ。

ふわふわの削り方が〜と評判があったりするが、口に入れて2秒経てばどんな削り方でも等しく水になる。なるだろう。

だからなんというか、かき氷のありがたみが、じつはよく分かっていない。
子供のとき夏祭りの特別感があって親にねだったものだが、食べ終わるころには垂れたシロップで手がベタベタになるし、ゴミは捨てられないしで非常に面倒な思いをすることを子供ながらに厭っており、食べたいけど食べたくない、けどせっかくだから食べるものだった。いつの日か感動しながら食べられる日が来るだろうか。

閑話休題。
かき氷を満喫した僕たちは水戸駅に戻り、ひろつぼさんと合流。
納豆像や水戸黄門像の前であだっさんポーズの写真を撮ったり、千菅さんたちの真似をした写真を撮ったり、なかなかはしゃいだ。

そのまま水戸芸術館へ。
魑魅魍魎さんやショ→キチさんとご挨拶させていただいて、ロビーで少しお話ししてから、席へ。

深呼吸して目を瞑り気持ちを切り替える。
後ろには菊池さんという座席も緊張を否応にも高める。
天井付近で回る青いライトを無心で眺めていると、物語が始まった。

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昼の部のあとはコーヒーを飲みながら感想を言い合い(めんそくさんもここで加わった)、水戸芸術館タワーに登った。正四面体を28個くっつけた塔のデザインはDNAの二重螺旋構造を模しているのだという。塔の頂上付近には39個の円窓が開いており、関東平野を一望できた。

15歳までにもっとも長く住んだ地域が地元だという説に則ればれっきとした東京都民である僕も、九州に住んではや6年。
そして6年もいると、山岳信仰の出現もさもありなんといったところで、山があることの安心感というものが不思議と骨身にしみるものである。
一望しても地の果てまで山が見えない関東平野は少し恐ろしく、同時に繁栄に対する納得感があった。

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夜の部が終わったあとはみんなでサイゼリアへ。
パスタにたっぷりとタバスコをふってつるりと飲んだら、心惜しくも出立の時間である。

帰りの車内は6人。
千菅さんにまつわる「ちすがしりとり」をしながら曲をかけてもらい、歌ったり口笛吹いたりしているとあっという間に東京についてしまった。

有楽町駅で皆さんと別れ、ぼくは実家に帰り、ビールを2缶開けつつ親に旅行譚を語り、やがて眠りについた。

まずは有楽町で皆さんを拾った。
車内では「はなそ!」の第2回放送を聴く。(というか僕だけ聴きそびれていたので付き合っていただいた。ありがたややや。。)

常磐道を北上し友部SAへ。
納豆ドッグを食べた。
和辛子とケチャップが納豆によく合う。


「ほら、納豆かけご飯食べながら、ケチャップかけた目玉焼き食べると口の中こんな感じじゃないですか」
と訴えるも、共感得られず。ふつうは目玉焼きにケチャップはかけないらしい。

そのまま笠間市内へ。
安達勇人さんプロデュースのカフェ ADACHI HOUSE へ。


安達さんファンでごった返してるかと思いきや、あまりいらっしゃらず。歴戦の皆様はもう何度もいらしているのか、金曜日だからなのか。

AYH煮込みハンバーグをみんなで食べた。
美味しくてバクバク食べてしまった。
冷静のコーンスープもおいしい。
パンもモッチリしていて、見た目に反してボリュームがあり、ハンバーグソースと絡めて食べると実に美味であった。


食後はコーヒー1杯でかなりの長っちり。
そのあと日本三大稲荷のひとつ、笠間稲荷神社へ。

本殿の朱塗りと抜けるような青空とのコントラストが美しかった。



in touch の大成功を神様に祈ったら、いよいよ水戸市へ。
水戸市に向かいながら「なはそ!」第3回を聴いた。(本当に朝第2回聴けてよかった…)

みんなで聴くラジオは素晴らしい。何倍も楽しく感じる。感情は共有することで増幅され、然るに普段よりも鋭敏となる。

ホテルに各々チェックイン後、再集合していよいよ水戸芸術館へ。


そしてサザコーヒー。
カウンターのお姉さんに豆のことをいろいろ聞きつつコーヒーをセレクト。


美味しかったので豆を購入。
水戸を思い出しながら楽しみたい。


そしていよいよ、in touch 初公演。

内容についてメモ程度に軽く触れるなら、
・自我の成り立ち
・愛
・人間関係
・保身と献身、許容と強要(愛の一形態として)

千菅さんを含め、みなさん全員がレベルの高いミュージカル。
千菅さんの終演後のほっとした表情が印象的だった。

CDもDVDも出ないとのことなので、セリフと歌を全て覚えなくてはならない。

明日も楽しみだ。


(旅行記を兼ねるなら、終演後に多くを語り合った飲み会の写真も添えなければなるまい)




今日は日がな眠気が絶えず、ほとんど記憶がなかったので(それでも婦人科はなんとかやっつけた。明日は小児科だ)、昨日のことを書こうと思う。

昨日は免許を更新した。
新旧二枚のカードをしげしげと眺めた。青色の線が金色へランクアップし、「普通」の区分が「準中型」へと変更になって、そしてなにより、僕が変貌を遂げていた。

なんというか、優しげである。
心持ちか目尻が下がり、鼻の位置も下がったようである。あとは顎の輪郭が丸くなったことが(これに関しては、悲しみ、反省すべき変化であるが)特徴的だろうか。

とくに科学的根拠に基づいた発言ではないので咎めないでほしいことをあらかじめ書いておく。
空想に基づいた、つまりなににも基づいていない、煙のような話だ。

ひとの性格というものは、あるいはその変化は、顔に出やすいと思っている。

勉強したあとはちょっとだけ賢しい顔に、感動した映画を観たあとはちょっとだけ優しい顔になっている、気がする。

そしてその積み重ねで、人相というものは変わっていくのではないかと思っている。

もしかしたら、賢いことを考えているときは「賢しい筋」が、やさしい気持ちのときは「優しい筋」が優位に緊張し、継続することでマッチョになり、そのような顔つきになるのかもしれない。

(人相についてさらに思いを馳せてみる。文化によって表情から他者が受け取るニュアンス、あるいは時宜に適った表情というものは異なるだろう。その一方で、たとえば笑顔は全世界で敵意のなさを表すように、似通う表現もある。ならば、1年ずつ10カ国で過ごしたひとの表情というのは分かりにくいのだろうか。あるいは最大公約数的であって分かりやすいのだろうか。)

老いや体重の増加はあるにせよ、この数年間で僕の顔は随分と変わった。
それが精神的成長に伴うものであったなら、嬉しいものである。

僕の誕生日は8月13日で、つまり免許の更新もまた7月13日〜9月13日のどこかで行なうこととなる。

今日は免許の更新に行ってきた。
ようやくゴールドだ。
毎日運転しているのにゴールド。事故を起こしなくないと常日頃から心がけている成果である。

歩行者の死亡者数が割合として高く、また高齢者が高い比率を占めるという。

道を渡るときに慢心してしまう高齢者にはなりたくないものだ。

それからドライブレコーダーをつけた。

なんというか、気が散るものだ。
早く慣れたい。

免許更新して、ドライブレコーダーとりつけて、勉強は?と思ったそこのあなた。

するどい。

婦人科の問題はそれほど多くないのに、興味のなさゆえか、驚くほど覚えられない。

ポケモンに関してはあらゆるデータを記憶できてもAKB48のメンバーさんにおいては顔すら覚えていられないというエピソードが往々にしてあるように、僕もまた婦人科疾患を覚えられない。

苦手分野といえる。

ところで、苦手な部分というのは、よいものではないだろうか。
そこを克服すればさらに十全な人間になれることが明確なのだ。嫌う必要がどこにあろうか。
自分の成長を己で実感する、またとない教材、それが苦手分野だ。

婦人科を制して圧倒的成長を遂げてやるぞ。

まあ。

続きは明日にしよう。

 

僕の随一の、最たる、比肩するもののない親友であるところのホウクが、最近軽妙なテイストの日記を書き連ねている。

 

中学生のころ毎日納豆巻きを食べる彼に憧れて同じように毎日中華焼きそばを食べ、

高校生のころライブハウスでドラムを叩きまくる彼に憧れてエレドラを買い、

大学生になってからは彼に触発されてコーヒーミルを買った僕は、今回も彼をまねて日記を書いてみようと思う。

日記は人をまねて始めるのが日本人の伝統でもあるからして。

 

まあ、どうせ、今までと同じように、彼のように硬い意志は持ち合わせていないし、長続きもしないのだ。

また彼と違って僕には我慢というものがない。

書くとなったら書く。書いてしまう。だからなにもない日に困る。

まあでも、それもまたしかたのないことだ。

そういう性格なのだ。

 

さて、それでは本題。

 

マッチングというものが10月初旬にかけてあって、国家試験というものが2月にある。

これらふたつをうまくクリアできれば、無事僕も社会人となるわけだ。

マッチングについてはさておくとして、常に心に重くのしかかる国家試験、そして卒業試験について書こうと思う。

 

卒業試験はニアリーイコール卒業論文、といったところだろうか。

全科目合格しなければ卒業できない。つまり留年が決まる、じつに恐ろしい試験だ。

その実施および内容に関しては大学ごとに一切の裁量が委ねられているため、一概に語れるものではない。

僕の通う大学においては、標榜診療科+アルファの科目が、それぞれ試験を課すことになっている。

内容は国家試験の過去問+アルファ、実施期間はじつに1っヶ月以上だ。

 

(+ベータという表現はまったく聞いたことがないが、なぜなのだろう。デルタでもイプシロンでもよさそうなのに。)

 

どうせ国家試験の過去問も卒業試験に出るのだし、今回は触れないマッチングにおいても国家試験の勉強をしておくことは有益でしかないので、まずは国家試験の過去問を研究し、いよいよテストが近づいてきたら卒業試験の過去問にも目を通す、そんな具合で2月までのすべてを攻略していこうと思っている。

 

ちなみに卒業試験の過去問の存在をさらっと提示したが、これは連綿と続く学生の涙ぐましい努力の賜物である。

普段はシケタイプリントすら内輪でのみ共有し、情報量でマウントを取り合い、結果として足を引っ張り合うという極めて頭の悪い行動を死んでもやめない彼らであるが(僕は自分が仕入れた情報は速やかに全員に提供する。彼らと一緒にしないでほしい)、期末試験および卒業試験のときだけは全員が結束する。

自分に割り当てられた番号の問題を必死に暗記し、試験室から出た瞬間Wordに打ち込んで回すのである。

こうすることで過去問を再現し、後輩たちが爆死しないように道を遺すわけだ。

 

とはいえその再現精度は低く、正当選択肢を2つ選ぶ問題で正解が3つあったり、逆にひとつもなかったりが往々にしてあるので、後輩たる我々は問題のエッセンスだけ掴んでその周辺知識を勉強することになることが常である。しかも新問が出題されれば全員が爆死するので、お守り程度にしかならない。

 

今日はそんなこんなで、産科の勉強をした。

産科というのは、婦人科とともに、男子学生にとって理解しづらいことこのうえない難科目である。

セクハラに厳しい昨今は仲のいい女学生に聞くのも憚られるし…

聞いたことない心音を覚えろというのと同じくらい、月経や妊娠について理解しろというのは無理難題だ。

完全な理解など一生無理だと思う。

そんな減らず口をいくら叩いても問題数も一向に減らないので、ひたすら覚えるしかないのだが。

 

 

 

以上だ。なんとつまらない一日か。

 

そもそも国家試験の問題というものは、五者択一式であるが、誤答選択肢を含めた周辺知識をつぶさに研究していくと一日80~120問くらいが集中力という観点から限界なのだ。

産科は「一周目問題」といわれる問題数が129問。

解ききるのに8時間かかったが、一日で終わらせればオッケーポッキーなのだ。

 

そうなのだが。

どうも、こう、不安というものは耐えることがない。

こんなどうでもいい日記など書かずにさっさと勉強したらどうだと自分でも強く思うが、どうも落ち着かない。

落ち着かないが、集中はもうできない。内容が頭に入ってこない。効率が悪い。

いやでも、たとえ非効率でもやったほうが。

でも。でも。でも。

 

という、典型的な受験生スパイラルに陥ってしまう。

 

まったく困ったことだ。

 

思い切って気分転換、と思ってゲームなどはじめてみると、これがあっという間に時間が経つ。

集中できるじゃないかと。

しかし机に戻るとなんとも。ぐんにょり。してしまうのだ。

 

やる気が無いのかと思ってしまう。

 

今の自分に必要なことが勉強をすることだとわかっていながらできないというのは、これはもう、勉強に対する適正が低いのではないか。

そんなことでよき医師になれるはずもなかろうに。

 

自分を自分で追い詰めてしまいがち。

 

必死に勉強していた僕のうしろで中世ヨーロッパを統一する神シュミレーションゲーム「グランドエイジ・メディーバル」を20時間ほどプレイして敵国をすべて滅ぼし、みごと西ユーラシア大陸の覇者となった親友のSのメンタルが本当に羨ましい。あと僕より先にクリアしやがったのが若干くやしい。

 

くよくよしたってしょうがない。

なるようにしかならないのだ。

明日もとりあえず勉強するのみ。

明日は婦人科を終わらせてしまいたい。

 

産科・婦人科・小児科の最難関さえ抑えてしまえたら…

 

皮膚科と精神科も厳しいなあ…

 

不安は増すばかりである。

いつも笑顔のひとが、どんな気持ちで笑っているのか僕は知らない。


その笑顔がどれほどの苦労の上にあり、どれほどの苦悩を隠しているのかを僕は知らない。


まるで笑顔であることを当然のように享受し、もしかすると言外に強要している。


そうして笑顔が失われたとき、はじめて、動揺し、狼狽し、愛の上にあったことを知り、失われたときのために何もせず怠惰に怠慢に傲慢に過ごしてきたことを自責する。


そこからなにを口にしようとも、いかな行動を起こそうとも、もう遅い。


その想いは届かない。


僕とその人との間に横たわる、絶望的なまでの隔絶に飲み込まれてしまう。




知りえないとしても知っているかのように考え、行動することこそ、信頼を形作るのだ。


乖離が生じてしまうまえに、確たるものとしておかなければ、つまるところ、後悔と焦燥に苦しむのは自分なのだから。

自信がある人というのはすごい。

なかでも、自分に自信がある人というのはすごいと思う。

自分のどこに自信を持っていて、それはどのような根拠によるものなのだろうか。

もっとも幸せなのは、頭がいいことを自身の根拠としている人だろう。

彼らはもしその能力を失っても、そのときには既に、失ったことを自覚できないのだから。

たとえば、自分の容姿に自信がある人はどうだろうか。

自信とは、時としてアイデンティティそのものである。

ならば、たとえばきれいな人が、ある日突然トラックに突っ込まれ、もてはやされた美貌の一切を思い出させない顔かたちになってしまったら、どうだろうか。

それは命綱が切れる瞬間ではないだろうか。

たとえそのような不幸に見舞われなくとも、老いは来る。

結局のところ、自分という存在は、定常ではない、いつでも変化しうる不確かなものなのだ。

不確かなものを拠り所として生きているというのは、命綱は付いているけれど、ひとりで宇宙を散歩しているようなものではないだろうか。

気づいてないのか、気づいたうえで諦めているのか。

自分という存在に寄りかかっている人は、見ていて息苦しくなる。
最近の若者は出向を嫌うという。

「どこどこに赴任しろ」に対して「嫌です」という答えが普通に出るとか。
むろん、僕自身、きっと嫌ですと答える。

なぜ嫌なのか。

それはそこに、自分の意志を挟む余地がないからではないだろうか。

例えば「釧路の支店に行ってこい」ではなく「出向してほしい。釧路、宮古、盛岡の3択だが、どこがいい?」と聞けば、もしかすると「じゃあ盛岡で」となるかもしれない。

人間、選択肢を与えられると選んでしまうし、選ぶという一見能動的な行為に満足してしまうのではないだろうか。同時に、3つも選択肢を用意してもらったのに「行きたくありません」はわがままであるような気がして、これによる罪悪感もまた、選択を動機付けると思う。

これより転じて、なにかやりたくないことに直面したとき「これかあれをやるなら、どっちをやろうか?」と自身に問いかけるというのはどうだろうか。

どちらかといえば、という心理は、普遍的に人を選択、決断させるのかもしれない。
僕は不確かなものが嫌いだ。

不確かなものを、あたかも確かであるように振る舞うことは、自分に一切の利をもたらさない。むしろ不利益を呼ぶ。

あいにく、望んで不利益を被りたいという特殊な価値観を僕は持ち合わせていない。従って不利益のリスクでしかない不確実性を僕は厭うのだ。

他の人がなにを考えているか、なんていうことは、これはもう不確実性の極みである。

長時間一緒に面と向かって話し合っていれば、ある程度は推し測れよう。

だが、メールやライン、手紙などといったものによるコミュニケーションでは、相手の精神的、肉体的、社会的コンディションを全く考慮できない。

これらのツールをもって相手の気持ちを推測し(あるいは横暴にもなにも考えることなく)これらの干渉するコメントを投げかけるその精神性が僕にはとうてい理解し難いし、ある種こちらの気持ちを束縛されるようで非常に不快である。

まったく、そういうことをして平気な輩とは、付き合ってられない。

極力関わり合いたくないものである。