病むということは、それが器質的であれ精神的であれ、己の自己同一性を少なからず失うということだ。
寄る辺の喪失を実感すれば、すなわち不安となる。
安らぎがないのだ。
病による機会逸失も少なくない。
だから、例えば優先席であったり、たとえばライブ会場で最前列に通されたりといった配慮は、あってしかるべきで、健常者にこれを奪ったり非難したりする権利はない。
幸福を得る権利だけは、すくなくとも、万人に平等に与えられるものなのだから。
日頃逸している幸せを享受するのは当然である。
ところで、幸せとは、いかに定量化すべきなのだろう。
機会を逸した幸福を補おうとすれど、目安がなければ行きすぎることもある。
たとえば、老人ホーム入居者の、語弊を恐れずに言えば、我儘をどこまで聞き入れるか、というのが最も身近な例だろうか。
不自由な弱者に対する優しさは必要だ。
だが、行き過ぎた配慮は健常者に対する差別だ。
弱者の立場が逆転してしまう。
幸福という観点から万人が平等であるための重心を探るには、幸福が定量化されるべきだ。
最大多数の最大幸福、とはいえど、集合をいかにとるかに依存して最大多数は千変万化する。
ゴールデンスタンダードたる標準的幸福人生というものを、まずは国を挙げて設定したほうがいいのかもしれない。