こんにちは。行政書士もできる往年の映画ファンgonzalezです。
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70年代では、北欧の映画監督と言ったらイングマール・ベルイマンが筆頭だった。
他に知られた人物と言えば、カール・Th・ドライヤーやボー・ウィーデルベルイ、ヤン・トロエル程度だったように記憶する。
これは、自分にとって北欧の巨星ベルイマンの初体験映画だ。
『沈黙』 Tystnaden (‘63) 96分
梗概
列車内の蒸し暑いコンパートメント内。姉エスター(イングリッド・チューリン)と妹アナ(グンネル・リンドブロム)、そしてアナの息子ヨハンが物憂げに揺られている。姉の体調が悪化し、見知らぬ異国の町中途下車。由緒ありげなホテルに投宿す。だが、英語・独逸語・仏蘭西語も通じない。翻訳家の姉も困惑。しかもその町は戦車が移動し、軍人の姿も見えて騒がしく非常事態にも思える。一休みしたところで妹は外出しカフェに入る。夜になるとカフェのウェイターと情事を交わす。姉の具合は良くならない。翌日、姉を置き去りにするように妹は息子を連れて発つ。姉は甥っ子のためにこの国の言葉を幾つか訳した紙片を渡す。車中にてそれを読むヨハン。
ベルイマン初体験がこれだった。40年以上前のこと。
ビギナーにとってハードルの高い映画である。しかも、巷ではベルイマンの“神の沈黙三部作”とか喧伝されているというではないか。十代の若輩者には手に余るのも無理なきこと。と、同時にベルイマン監督に激烈な興味を抱かせるに足る映画でもあった。
さて、梗概に記した通り、物語は簡潔。行間を読み込むかのような作業が鑑賞者に委ねられる。
実際、こんな作品が商業ベースに乗るのか疑問。TVドラマとしても成立しえないようなシロモノだし。マジで“鑑る”という行為が求められる類の映画だ。
そんなことで、年月の経過とともにことあるごとに物語を思い返し、場面を反芻し、会話を呼び起こしてきた。大袈裟ではなく毎年毎年頭の中でリピートし、“観た”を“鑑た”へと変換する作業を積み上げてきた。
こう書くと、いかにもさぞや理解を深めたように思われるだろうが、実際のところ悪戦苦闘して進捗状況は芳しくないのであった。
というか一年間で三歩進んで二歩下がり、十回休んでやっともう一歩。みたいな有様でここに至って正味お手上げである。
そんなことも手伝って中々文章化できずに懊悩していたが一念発起。とにかく書き散らしてみた。
舞台演出を得意とする監督だけあって、極めて演劇的な構成である。
▶登場人物。主演女優二名、脇役男性三名、印象的脇役の小人たち。
▶姉妹の確執を露わにする会話劇。
▶大道具、小道具に相当するシンボリックな物。
▶閉鎖的空間で進行するドラマ。
▶メインには二人の女優を据えた。いずれもベルイマン印。
I・チューリン(『野いちご』『魔術師』『冬の光』『叫びとささやき』等)、G・リンドブロム(『野いちご』『処女の泉』『冬の光』等)。
知性派の姉と肉体派の妹。病身と健康体。理性と本能。抑圧と解放。
『処女の泉』(60)のような二項対立を分かりやすく提示する。
この二人の対決は『仮面/ペルソナ』(66)を連想させる。リヴ・ウルマンが失語症の女優に扮するなど、言語にまつわる設定も興味深いではないか。
彼女らを取り巻く男性が三人。
妹の息子ヨハン、老ホテルマン、妹の情事相手のウェイター。
息子は男性未満。ホテルマンは男性引退。よって俄然男性としての力強さを発揮するのはウェイターだ。
そして、小人の芸人一座が登場。ヨハンと交流を持つ。でも彼らは見た目はヨハンのような子供サイズだが成熟した男性でもある。だが、彼らが健常者の女性と交合することはほぼないだろう。息子ともホテルマンとも違う宙ぶらりんのポジションだ。
両者は合わせ鏡のように似た者同士であるが、決して同じ境遇・立場ではない。あくまでも片や大人、片や子供。よってヨハンが部屋から出されるのは当然。仲間にはなれない。
▶人物の会話と言えば、姉妹二人の会話くらいしか思い当たらないほどに意思疎通が成立する話し合いは存在しない。何故か?
それは、言葉が一切通じない異国の地が選定されているため、旅行者三名の間でしか共通言語による有効な会話が成り立たないからだ。
ということは、現地の人間との会話と言えばカタコトの単語とパントマイムのようになり、まるでサイレント映画(=沈黙)をなぞるかのようである。
結果、それがために主役二人の会話が強調されてくるしかないのである。
▶配置される物。例えばラヂヲ。ここからはJ.S.バッハのなんとやらが流れる。ホテルマンも良く知る音楽で一瞬、言語障壁を溶解させる。
あるいは姉が携行するタイプライター。翻訳家の彼女は言語を扱う仕事をする。英・独・仏三か国語でホテルマンに話しかけもする。
ヨハンが姉に「パンチとジュディ」の人形劇を披露する。パンチには、ウルー、ブルーと意味不明の言葉をしゃべらせる。まるで動物や外国人のように。
冒頭でヨハンは車内の張り紙を読み上げるが意味が分からずエスターに訊ねる。
これらシンボリックな物から本作が“言葉”を扱う作品であることが知れる。それはタイトルの“沈黙”からして自明なのだが。
余談だが、地響きを立てて市街を走行する戦車やその砲台を男根的象徴と見做すフロイト的解釈もできるかもしれないが、これはさすがに深読みし過ぎだろう。
▶冒頭から列車のコンパートメント内という二重の閉鎖空間からスタート。編集の妙で、いきなりホテルの一室という閉鎖空間へとジャンプする。
ヨハンはホテル内を巡回し、いわば探検する。まるで『シャイニング』(80)のように人気が無い大きな閉ざされたシンメトリックな空間を。
余談だが、もしやキューブリックは本作からインスパイアされていたのでは?との疑問がモーレツに沸き上がってくるではないか。
ベルイマンへ宛てたキューブリックからのファンレターが残されていた。1960年。よほど熱烈にリスペクトしていたのだろう。何らかのカタチで影響を受けていたことは確かだ。
妹は劇場に入る。こことて三密バリバリの閉鎖性。姉は一室に閉じこもって静養。
最後に、室内から再度ジャンプし列車のコンパートメントへと場面が移る。
どこを切ってもある意味息詰まる限定的な空間内で神経症的ドラマが進行。舞台劇そのものだ。
しきりに暑がる妹の汗は『十二人の怒れる男』(54)のあの熱気のこもる暑苦しい一室を連想させるだろう。
以上、まとまらないままにここまで書き綴ってきたが、どうにも“神の沈黙”と結びつかないのは自分だけか。
これはむしろ、人間間におけるコミュニケーションの機能不全を扱っているように思えるのだが。和製英語の所謂ディスコミュニケーションというやつだ。
そう言えば、どこか夏目漱石の『彼岸過迄』や『道草』や『明暗』と似通っている気もする。今後の研究が望まれよう。
ただ、ベルイマン自身が“「沈黙」という題名は、神の沈黙であり、否定の徴を意味する”と『世界の映画作家[9]イングマル・ベルイマン編』内の記事「ベルイマン全自作を語る」で明言していることは確かである。
ところで、劇中にてヨハンの探検が子供らしくて懐かしい。
言葉が通じないながらも老ホテルマンとの交流も面白い。
チョコレートに釣られて休憩中の彼の部屋へと入っていく。そこで見せてもらった写真を廊下のカーペットの下にそっと差し込んでしまうのだ。おい、ちょっとそれはないだろう(笑)
叔母さんとの仲も良い。
さて、エンディングでエスターが書き出してくれた現地語の単語リストを読むヨハン。その一つを発話する。“ハジェク”。これは“精神”と訳された。が、この場面の意味も分からないままだ。
監督・脚本:イングマール・ベルイマン
『第七の封印』『叫びとささやき』『ファニーとアレクサンデル』
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
『処女の泉』『サクリファイス』『ギルバート・グレイプ』
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