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はむはむ草 朝里庵

はむはむなるままに、ひぐらし。

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 昨日夜中にやってた映画「脱走特急」。
似たり寄ったりの名前が多いのでどれがどれか混乱するが、
これは65年、主演フランク・シナトラの戦争映画。


脱走特急
今回、初めて見たわけであるが、何気に眺めているうちに
はまってしまった。面白い。
冒頭は捕虜収容所の何となく見慣れたようなシーンから始まるが、
気づけば列車で護送されるところから急展開となっていく。
スティーブ・マックィーンの「大脱走」にかけているらしい。
その辺から目が離せなくなってきたのであるが、
思えばこれほどドキドキして映画を観たのも久しぶりな気がする。

娯楽映画である。大スター、シナトラを眺めながら
息もつかせぬアクションシーンを楽しみ、
追われる者達の次の展開にハラハラし、
ヨーロッパの美しい風景を満喫する。
少しだが、奥ゆかしいお色気シーンまである。


実は、私はハリウッドの娯楽一点張り映画が
好きではない。間口が広くて出口も広い映画は間延びする。
特に、演出が大雑把な映画は苦手だ。


誰にでも分かるようにするのはいいが、奥行きを捨てないで欲しい。
見た後全てを忘れている、というより、妙な不快感だけ残る。


しかし、この映画は違った。
よく出来た作品である。演出のメリハリが利いていて、
見せたいところがきっちりしている。
かといってやたら大げさに煽ってはいない。
あくまで繊細に、そして確実に演出されている。


そして、その上に重要なのが視点の本質だ。
監督の世界観とでも言おうか。
イタリアでの連合軍捕虜が、イタリア降伏により次は
ドイツ軍に追われるはめになる。移送列車を乗っ取り、
スイス国境を目指すが、執拗にドイツ軍が迫る。
主人公の一行は捕虜である。
つまり、戦地に送られ戦っているわけではなく、
祖国の土を踏む為に逃走し、戦うのである。
いわば何より「生きろ」の世界だ。
そこに事情の知らないイギリス軍が空爆してきたり、
降伏済みのイタリア国民が板ばさみになって各々で
すったもんだしたり、戦場と化した国での混乱ぶりが
描かれる。その中を一心不乱に駆け抜ける捕虜達の姿は
痛快だし、ついつい感情移入してしまうが、同時に
敵味方入り乱れ、命のやり取りの中、情報が錯綜し
すれちがっていくさまは、どこか虚無的な空気が漂う。


戦争映画と一口に言っても、監督の思いというか、本音は
それぞれ違うはずだ。
連合軍は大儀があったとか、ナチ嫌いとか、はたまた殉死への

英雄史観、国威発揚など。
一見戦争は良くないというスタンスを取っていても、
やっぱり監督の本音は空気に込められていると思う。


娯楽に隠されたこの映画の空気は「虚無」である。
私はそう思った。他の人がどう思うかは分からない。


シナトラ演じるライアン大佐は最後に銃弾に倒れる。
他にも多くの者が死んだが、その犠牲の上にいくらかは生き残った。
これは美談に見える。しかし、大佐は序盤に判断ミスをした。
温情をかけたイタリア将校にあっさり裏切られ、仲間の多くを
失うこととなったのだ。ヒューマニズムに徹した結果、
さらに残酷な結果を招いてしまった。
大佐は既に十字架を背負っていたのだ。
ここは本当にいろんな解釈が出来ると思う。
そして、そうなるようにわざと作られているはずだ。
ヒューマニズムがあっさり裏切られる戦場で、
価値観はどうなるのか。


紅一点のイタリア女性が関わるシーンもそうである。
他の方の意見に、このシーンはよろしくないというものがあった。
娯楽性の為に、又は殺される為に登場した女性なのだと。
露骨であるという趣旨である。
確かにそうとも取れるが、同時に彼女は大きな意味での
「虚無」を表しているとも思うのである。
イタリア人である彼女は、捕まった時点で国としては直接敵でない。
しかし、脱走者を知った彼女は開放されない。
彼女はあの手この手で脱出を試みようとする。
大人しくしておけば殺されなかった可能性が高かった。
しかし、彼女は脱出しようといたのである。
無理もない。彼女の目の前で脱走兵の一人が自分達の始末の
話をし出したり、大佐も彼女には多くを語らない。
語れないのである。既に敵でなくとも済んだはずが、
お互い心を閉ざしたまま、やがて悲劇を迎える。
お互いに「生き延びたい」だけだったのに。
ライアン大佐には、おそらくそれが分かっていた。
だから、やむを得ず彼女を撃った時、自分を見失ってしまった。
その光景を上から見ていたイタリア人の子供。
あの子供に、一部始終を知る由もない子供に
自分達はどのように見えたのか。
決して分かり合えず暴力に帰結する虚無感が否応なく漂う。


そういう意味では大佐には既に「死相」が出ていた。
しかし、大佐はあくまで「生」を望んだ。
乗り込もうと必死に列車を追うライアン大佐。
しかし、もう少しのところで追っ手の銃弾に止まる。
スイス国境付近。美しき山岳地帯。
大佐はここに果てた。仲間を乗せた列車は去る。
見る見るうちに小さくなる大佐の横たえた背中。
決してカメラは画面に心情を訴え誇張したりしない。
一人の人間が、母国の土を踏むことなく、異国の山で最後を
迎えた。おそらく、亡骸もそのままそこに残るであろう。


戦争という枠を超える、「生」と「死」がそこでは
謳われていた。


この映画は多重構造を持っている。
物語としては捕虜、脱走兵としての世界。
生死を分かつ戦場という世界。
戦場に住む人々の日常の世界。
情報のやりくりで戦う上級将校の世界。
そして、美しき自然の世界。


テーマからみれば、
政治、現場、人間個々の人生、そして情報とイデオロギーの

錯綜が生む矛盾、虚無であろうか。
そして、それを包むエンターテインメント性。



こういう見たことない作品って、まだまだあるんだろうな。
個人的には、映像的にもかなり高度に作りこまれているのでお勧めです。
あと、少々の史実や物理的矛盾は目をつぶってください。
私は許せました。



京都駅ビルは美術館の
「みんなのドラえもん展」に行って来た。





空は快晴、入道雲、もくもく。
まさにドラ日和。

今回の作品展は近く完成の
「藤子・F・不二雄ミュージアム」
開館プレ・イベントでもあるらしい。

内容的には確かに、以前観覧した
「藤子・F・不二雄の世界展」
「THE ドラえもん展」
を足して割ったような感じ。

私はとにかく原画が見たかったので、
ここに来たのだ。

劣化が進み変色した原稿を近視であるかのように
まじまじと見つめる。
時代を感じる鉛筆のすすけに、生々しいホワイト。
今だ活力を失わない、インクの発色。

原稿の縁には「藤子スタジオ」の印刷文字。
胸が熱くなる。

私にとって藤子不二雄という名前は神に等しかった。
「藤子・F・不二雄」や「藤子不二雄Ⓐ(A)」にはそれほど
反応しない。
「藤子不二雄」という単行本背表紙の
あの太い五文字に心打たれるのである。
幼児期の幸せな思い出と表裏一体となっているのであろう。


以前の「藤子・F・不二雄の世界展」では
まだ藤本先生が亡くなられて間がなかったので、
追悼的な意味合いがあったように思う。

その後の「THE ドラえもん展」では
活躍するアーティスト30人に
「あなたのドラえもんを作ってください」
といって作品を集めたなかなか意欲的な展覧会だった。
過去から長らく付き合ってきたドラえもんを
現在の芸術感覚で再構築するというのは
非常に面白かった。ただの子供だましじゃない、
しかし子供が楽しめる本来のドラえもんが再び顔を出したりした。

「THE ドラえもん展」での作品が今回、いくらか
出品されていた。ここに、再び出会ったわけだ。
中でも気に入ったのがHIROMIXのTシャツ作品。
当時はそれほど印象に残らなかったけど、今見ると、
過去からドラえもんへの愛情が蘇ってきた。
いや、それはむしろドラえもんではなく、
ドラえもんを愛していた自分への愛情。
写真はなかったけど、HIROMIXの力をここに感じる。

それにしても、こういう展覧会でいつも気になるのは
レイアウトのセンスである。
壁に所狭しとドラえもんのスナップが印刷されているが、
その選択、配列が素晴らしい。
概要は同じデザインでも、漫画からドラえもんの
どの表情を切り取るかで印象は全く異なる。

例えば、猫の写真集があるとする。
私は猫が好きだ。遠くで見ているだけで幸せな気持ちになる。
しかし、その猫の写真集を無条件で気に入るかといえば、
そうではない。
むしろ、二度と見たくないと思う写真集もある。
私にとって表情の乏しい、人間社会に媚びたような
撮り方をする人もいるからである。
「どう、かわいいでしょ~」なんて露骨な感じがしたら、
もう見れない。私とセンスが違う、ということだ。

そういうことは、ドラえもんでも当然、起こりうる。
特にこういう、有名になりすぎて「大儀」を押し付けられた
作品は、ブラックユーモアが理解されなくなる。
その影響下、キャラの表情1つとっても描き手の価値観が出る。
だから私は、原作のドラえもんしか愛していない。
いや、方倉陽二作品は例外だが。

展覧会で、レイアウト考案したスタッフの名前も
明かして欲しいものである。
たかが背景でも、いい作品であれば名を誰かが記憶するはずだ。


最後に土産品の話。
ミニタオル、クリアファイルのデザインが気に入ったので
購入しようと思っていたが、これらは全て完売。
自分にとっていいものと思える物がちゃんと売れていたのは
良かったが、残念ではあった。

とある日。
店で自転車のリム、ブレーキシュー、タイヤ等を

ついに交換した私は
軽快になった愛車に機嫌を良くして、そのままとある公園を
走っていた。
その時。

前方が明るい。それが火だということはすぐに気が付いた。
草が燃えている。
焼いているのだろうか。
周りを見回したが、人影は全く見当たらない。
風に煽られた火は二手に分かれて焔を上げている。
一瞬どうしようか迷う。
風下はコンクリートなので、おそらく大きく燃え広がりは
しないだろう。もうすぐ勝手に鎮火する、はず。
しかし、後で戻ったら焼け野原なんていうのはごめんなので通報。
やはり、正規の草焼きでは無かった。

消防を待つ数分の間に、火はみるみる小さくなる。
よけいなことをしたか。
そう思う矢先に消防車がむこうの道に登場。
ここが分からないらしい。無理もない。火はもうほとんど見えない。
署から電話が来て、誘導することとなる。
2台登場。冷や汗が出る。ボヤだってちゃんと言ったのに…

隊員を誘導した時には、火は消えていた。
ところどころ残る赤い光を隊員たちが踏んでいく。
帰んでくれと言われたので、仕方なくたたずむ。

警察が登場。
いよいよ大事である。まあ、手続き上、当然の事であるが…
警察、消防共に事情聴取を受ける。
通報者である私以外、目撃者なし。
ということは、私以外、具体的な関係者なし。
なんだか馬鹿馬鹿しくなる。

火の元として、花火が見つかった。
初めは放火だと言っていたが、どうやら火の不始末らしい。
ここではよくあることとか。
そういう矢先で花火が上がる。警察がバイクで向かう。

花火をするなとか、私は言う気はない。
どこも禁止。じゃあ、どこでやるんだと、私自身思う。
しかし、火の後始末は最低限のマナーであろう。
バケツに水を汲んでくるくらいは当然の行動だ。
そんな事も出来ない適当な人間には当然、

花火をする資格はない。


通報から解散まで30分程の事だったが、随分長く感じた。
とりあえず、自分にアリバイがあるのでほっとした。
だって無職だもんね。嫌でもイメージ悪いがな。
通報するたびこれでは見て見ぬふりもしたくなるが、
向こうさんも仕方ないのであろう。
いや、丁重な扱いはされたのであるが。
とりあえず、夜にわざわざご苦労様でしたと言いたい。



すごい雷でした。
こんなに走る稲光をたっぷり見たのは初めてです。


空を横切る太い稲妻を撮りたかったのですが、
残念ながらタイミングが合いませんでした。


ペルセウス座流星群が13日に見られたとか。
実はその日に外に出てみたのだが、明け方に近かった為か
全然見れなかった。
それより暗闇に風が強くて怖かった。
迫り来るような見えない何かは、畏怖的なものを想起させる。

14日である今日、夜2:30頃、外に出てみる。
空をしばらく見上げていると、怪しいのもあわせれば
6個ほどの流れ星が見えた。
怪しいというのはあまりに一瞬なので
焦点に入ってないと錯覚か判別出来ないから。
あと、鳥と見間違うこともある。
でも、多分流れ星。少なくとも、数個は絶対。

流星群というとなんだかファンタジックに連続で流れる
光を想像するけど、そういうことではないらしい。
多くて15分30個程。
一度は花火のように連続した流れ星の群れを見てみたいものだ。

奈良に来て思ったことは、星座が良く見えるということ。
実家の和歌山では星が多すぎて星座が判別できない。
天の川も良く見える。
役立たずの星座版にキレたこともある。
こっちに来てやっと星座を憶える。

その和歌山でも、離島はさらに星が綺麗だ。
現在は橋で繋がっているが、本州最南端の所にある大島は
周りに光も少ないので、ものすごい星の数だ。
おそらく船乗りの見る星とはこういうものなのだろう。

13日に実家にいればたくさんの流星を見れたかも。
ちょっと残念な気持ちになった。

そういや大学の頃、高校の同窓会で地元の夜の浜辺へ行って
星を見たっけ。
流れ星が結構流れて、じっと見てれば流れ星って見れるもの
なんだなと思ったりしたことを憶えている。

ああ、首が痛い。さっき、上を見すぎたせいだ。
ああ、少年は皆、明日の勇者。オーイエー。