はむはむ草 朝里庵 -15ページ目

はむはむ草 朝里庵

はむはむなるままに、ひぐらし。

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ちと前に、ネットで調べて近所の美術教室に行ってみた。
なかなか面白い場所にあったが、ピンポン押しても誰も出てこず。
ふと見ると、玄関のガラス戸からフサフサの白猫がじいっと
こちらを見ていた。庭の車はエンジンがかかったまま、
中では誰かが寝ている。人を待っているのだろうか。
失礼ながら家のたたずまいを観察してみる。
子供が作ったような工作品、オブジェがところどころに
置かれていた。
ここの先生は画家ではないのだろうか。
そんな情報はおくびにも出てない。
場違いな気がしてきてそのまま帰ってきた。


小さい頃、絵画教室に行かせてもらったことがある。
先生は田舎ながらにしてれっきとした画家。
儲かっていようがなんであろうが、きちんと描き続けていれば
それが画家なのだ。
しかし、1、2回行った後、先生はすぐ入院して
そのまま亡くなってしまった。
その後、私が絵を習う計らいは行われず、私は大人になった。


奈良に来て、一度、近所の絵画教室に通っていたことがある。
先生は画家らしかったが、最近は焼き物にはまっているとの事。
絵を見せてくれと頼んでみたが、ついに見せてもらえなかった。
結局、先生の絵も焼き物も見ることのないまま、
教室には行かなくなってしまう。
ただなんとなく、好きなものを描くだけ。
多少の添削はしてくれるが、そもそもの定義がはっきりしない。
これなら自宅で描いているのとなんら変わらない。


引越しを契機にもう一度挑戦しようと思ったが、
やはり前途は多難のようだ。


最終的には京都に習いに行こうと思う。
しかし、電車で通わなくてはならない。
時間、経費の無駄だし、人ごみは苦手。
なんとか奈良市で探せればよいのだが。



ここ数日、BSの押井守作品の一挙放送を見ていた。
攻殻2作や劇場パトレイバーは見たことがあったが、
うる星やつらやAvalonは見たことがなかったので
これを機に見てみようと思ったのだ。
今までは何となく質感や情報密度で押井氏の作品をはかっていたが、
他作品を見ることでやっと押井氏の作風が分かってきた気がする。
見れば見るほど分かることが増えてくるこの「創り」は
見事だと思う。皆がハッピーとはまさにこの事だ(笑)。


押井氏と宮崎駿氏の論差は対立的に演出されることが多いが、
アニメーションスキルの探求はどちらにも共通している。
ただの伝達手段に使ってない。
アニメそのものをテクニカルに愛している。
作品の面白さを上げればきりがないが、安心して見れる
一番の原因はここにあると思う。
作品自体が「体感レジャーランド」みたいなものだからだ。

知人の紹介で加藤諦三氏の本を買ってみた。
といっても、指し示した本は見つけられなかったので
自分に興味がありそうなものを選んで。


それが「心の休ませ方」。

心の休ませ方/加藤 諦三
¥500

いわゆる心理学の一般書。
心理学というと、頭に浮かぶのは学問見地からする批判の声。
極論の人にいわせれば心理学は宗教で、学問ではないらしい。
一理はある。しかし、そう主張する人は概して怒っていたりして。
かつて「おばあちゃんの知恵袋」と例えたら
「違う!」と一蹴された。
そんなに怒らんでも。批判者が精神不安定だと説得力なし。

私としてはどんな学問だって仮説からほとんど出ていないのが
実情と思っているので、程度の問題かと思う。
勿論、その「程度」を突き詰めることが重要なのだけれど。



私は大学で多少心理学を学んだし(結構忘れたが)、
土井健郎氏の本などにもお世話になった。
分野が違うかもしれないが、養老孟司氏の本もガツンと来た。


とはいうものの、心理学は最近離れていたのでどんなもんかなと
思いながら読んでみたのだが、
その実、なかなか興味深い部分が多かった。


その最たるものが
「鬱の人は憎しみをエネルギーにして生きている」
というところ。


うーん、私そのままである。
この本の定義によれば、私は鬱のようだ。
多分、ごく軽度な方だと思うが、しかし、慢性的。
時々、躁の気に襲われることもある。


しかしながら、鬱の定義は難しい。
そもそも症状を見て人間が名づけたものだから、
症状の研究が進むにつれて、どこからどこまで鬱と呼ぶのか
という問題が出てくる。
名前があるということが人間にとって非常に意味を持つので、
あちこちで拡大定義される。
結局鬱とは何じゃということになる。


以前の会社で、ある方が鬱で辞めると言い出したが、
上司は「欝は自覚がないんだろ」と相手を終始疑っていた。
そもそも「鬱」というものが世間ではイメージでしかない。
具体的に出歩けないとか、コミュニケーションが困難とか、
アクション重視なのである。世間がこうであるから、
鬱の方も具体的なアピールをするしかない。
厄介な話である。
自覚があるから鬱じゃないというのはおかしいと思う。
自己分析できないほど重度であるか、もしくは知識を持ってない為に
自覚できない場合だけではないのか。
因みに私は高校時代、上記の理由で自覚はなかった。



「憎しみをエネルギーにして生きている」
私は確かにそうだし、今までに出会った精神不安定な方も
そういうきらいがあった気がする。
ちょっと前に話題になった「キレる子供」も
これに当てはまると思う。
イライラして、周りからの無理解で被害妄想的になっているのだ。


常に怒っている人は基本的に愛情に飢えている。
一言でいえば寂しいのだ。
しかし、その寂しさは幼児期に植えつけられたものなので
どうやっても埋められない。
「欝」は治るといわれる。
確かに、治療によって軽度にまで回復は可能のようだ。
しかし、幼児期のトラウマは消せるのだろうか。
重度の場合は治療と休養が不可欠だろうが、
軽度になったらその後は一生「寂しさ」との戦いである。
「軽度」と比較便宜上表現しているが、決して侮れない。


私の愛情飢餓は両親との関係にあるようだ。
私は両親と見た目も良く似ているが、どうやら欠点も
似てしまったらしい。それを親が許せなかったのである。
別にいじめられなくとも、子供は親のオーラを感じ取る。
どうもそれが人格否定としてトラウマになってしまったようなのだ。
高校時代にどうしようもなく行き詰った私は、
親へのトラウマを拭いきれず、両親を責め続けた。
親もなかなか頑固で、決して折れようとはしなかった。


そうして苦しんできたのだが、現在はもう親を責めていない。
向こうから喧嘩を売ってくることもたまにあるので
やりあうこともあるが、基本的には温厚な関係である。
というのは、親も実は愛情飢餓だったのではないかという
推測をするようになったからだ。
私の父親は頑固で偏屈である。しかし、我侭ということは
相手に甘えているともいえる。
頑固親父のほとんどは愛情飢餓の変形ではないのか。
私も愛情飢餓で見返りを無意識に求めてしまうタイプなので、
こういう感謝されない横柄な甘えには腹が立つ。
しかし、親は親で内なるものに悩んで来た。
連鎖を責めても益はなし。
そう思ったのである。
もっとも、愛情飢餓は理屈でなく感情なのでどうしようもない。
しかし、私にとって両親は体の一部のような気もするのだ。
親に悩むのは体の部分の痛みに悩むようなものである。
うまく付き合ってはいけないか。そう思えるようになったのだ。



さて、問題はここからである。
生涯続く「空しさ」と「寂しさ」とどう付き合っていくか。
この本では、それには「孤独な決断」をするしかないと
書かれている。なんだか禅問答のようだが、何となく
言いたいことは分かる。

で、自らの20年以上の思案と照らし合わせながら
私にとっての方法を考えてみた。


1、出家
2、技術屋


1は昔考えたことがあった。しかし、瀬戸内寂聴さんの
「出家は辛いから一般の方には薦めない。でも、今回の
(人を殺めてしまい後悔している)方には薦める」を聞いて、
私には覚悟が足りないと感じた。寺が近くで坊様に慣れている、
というわけでもない。モチベーションが足りない。


2は技術屋といっても工業関係の話ではなく、
自分で技術を高めていく仕事の方のことである。
テクニカルな工夫に没頭するということだ。
最上級はイチローや宮崎駿などが当てはまるが、
そこまでいかなくとも、オタクといわれる専門家も
私にとっては技術をもつ方だ。
自分の世界を具体的な形でもつということだ。
この「具体的」というのが重要で、
目に見えるものであれば社会と接点が持てるのである。
自分の世界と社会を繋ぐことで精神を安定させるのだ。



というわけで、結局2を目指すことになりそうだ。
口で言うのは安しだが、別に楽になりたいわけではないのだ。
有意義になりたいのだ。歓喜と言ってもいい。



最後に、「憎しみのエネルギー」は悪いイメージが付きまとう。
実際、このエネルギーは精神の成長を妨げるという。
確かに、私の高校時代はそうだった。
しかし、このエネルギーだってものは使いようだと思うのだ。
このエネルギーを使って社会の第一線で活躍している人も
少なくない。
安直なニヒリズムは嫌いだが、社会を斜めから見据える事も
重要なポジションだと思うのである。
勿論、勉学は怠らず。

たまたま同番組のオフィシャルサイトを覗いたら
「原付西日本」編、今後放送お蔵入りと
謝罪文が載っていて驚いた。
確かに、鳥取砂丘の場面では「エーッ」と思ったことを
憶えている。私の場合は砂を持ち出したことよりも
道端に捨てた方が気になっていたのだが。

自然物だから問題なしと判断したのかもしれないが、
私には道にゴミをポイ捨てする不届き物と重なってしまった。
こういう行為は場所によっては誰かが掃除をするわけだ。
掃除する人は捨てた人の顔を知らない。
だから、捨てる人は平気。
そこが気に入らない。
誰が捨てたか分かる間柄なら、まだ文句は言えるし、
場合によっては殴ることもできる。
だから、家族や知人への迷惑はまだいいのだ。
迷惑のない人生など、もともとありえないし、それが人間。
でも、知りようのない第三者にわざわざ迷惑をかける行為は
どうかと思う。私はこれを「スネ夫的卑怯」と呼ぶ。
顔の知れた身内にはいい顔して、第三者には冷徹。
モラルうんぬんではなく、心意気として好かない。
ちなみに、家族等に迷惑をかける行為は「のび太的卑怯」だ。
こちらのほうが好きである。コミュニケーションが取れる。


(後の報道によると、問題点は砂丘への「ラクガキ」だったそうです。ふ~ん…)

話がそれた。
上記番組は残念ながら今回の件で法にふれたようなので、
これに対処しなければならないようだ。
もともと悪ガキのゲリラ番組のような地方放送だったので、
少々のおいたをしてもブラックユーモアとして
流されるものだったのであろう。
しかし、これほど有名になって露出が増えてしまえば
影響力を恐れ叩かれてしまう。
法うんぬんを除けば、
ドラえもんが有名になるほどブラックユーモアが許されなくなって、
作者が亡くなっているにも関わらず台詞をどんどん骨抜きに
していく行為にさも似たり。

法としてダメなものはだめ。
それは分かる。
ただ、それはそれとして、ユーモアとは何か、表現の自由とは
何か、もう少し考えてほしい。
大事なことは、同じ言葉、行為でも前後や背景によって
意味合いが全く変わってくるということ。
それを汲み取らずに禁止ばかりしていても
それは抑圧でしかない。「自由」は汲み取って吟味してこその
「自由」だと思うのである。



紙粘土をペタペタつけて、顔が出来ました。
まだ乾いてません。
乾いたら、修正のしようもあるけど…



つーか、怖い…


デスマスクか…

白川義員 愛蔵版 世界百名山/白川 義員
¥12,600


白川義員氏の写真集を初めて生で見た。
「世界百名山」以前から出版されていたようだが、
別の形で最近再販されたらしい。

究極に美しく、そして壮大な姿。
まるで宇宙の顔のようにそびえ立つ山々。
これを見るために生まれてきたような、
宗教観を揺さぶる現実。

実際に本物をみれば、きっと人生観が変わるであろう。
しかしながら、麓まで行って見上げるだけでも大変なのに、
この写真のような姿を見るなど、不可能に近い。
実際、白川氏もこの写真群を撮る為、命を張っている。

その神々しいまでの姿、その一瞬の色をさらう。
自然とはここまで美しいものか。大きいものか。

そういう写真集。
すごく欲しい。
が。
高い。
12000円(税抜き)。
それで、保留した。

値段とは、相対的なものであり、特に本などは、
中の情報の価値による。
つまり、1万だろうが100万だろうが、中身に価値があれば
それは妥当だといえる。
そういう意味ではこの本の値段は決して高くない。
それだけのエネルギーを秘めている。
そう思う。そう思うが、問題はむしろ「読む方」に
あったりするのだ。

本を買うということは、その本の情報を買うという意味である。
たまにそうではない買い方もあるが、それは置いておく。
古本屋で本を買うと、値段は安く買える。
それと同時に、「本屋」と「古本」の付加情報が付いてくる。
本屋の匂い、空気、そしてその他の本のイメージ情報である。
それに、本自体の染み、汚れ、年季など、いわゆる
本の「歴史」情報がもれなく付いてくるのだ。

骨董品などは、その「歴史」情報を楽しむのが醍醐味であろう。
古本にもそういう楽しみがあると思う。
しかし、逆にその情報が鬱陶しいこともあるのだ。
あんまり染みの多い本だと、読むたびに過去の持ち主が
想像されて中々中身に入れなかったりするわけだ。

というわけで、自分色に染めていく「新品」が好まれたりもする。
「歴史」は生産過程を除けば自分から始まるので気持ちがいい。

そして、その本を「活用」する段階に入る。
買った値段分の「活用」をその本に求めることになる。
古本で200円で買ったのであれば、200円分以上楽しめれば
「お得」となる。
別に具体的な金勘定があるわけではない。
200円のお菓子よりも楽しめる、そんな程度のことだ。

なんだか馬鹿馬鹿しい話に聞こえるかもしれないが、
これが何百冊となってくると笑えなくなってくるのだ。
人生の選択で、これに大きな予算を割いていることになる。
別の使い方もあったはずなのに、あえてこの使い方を選び、
知識を得たのだ。
未来の方向性に多少ながら影響しているに違いないのである。

さて、コスト感覚が「お得」になればそれでいいのだが、
そうなりそうもないのに欲しいものがある。
いや、きっと「活用」の方法はあるのに、
自分の技術や感性が足りなくて、コストがとても合わない。
私にとってはそれが今回の本なのである。
コストは勿論、自分の稼ぎの大きさにも大きく影響される。
私にとっては現在の1万は非常に価値が高いのだ。

それに、本というものは、使用者に対し高度な技術と
時間、そして忍耐を要する。
じっくり時間をかけて取り組んで反芻するほど、
その効果は現れるのだ。
これほどアグレッシブな姿勢を求められる物は少ない。


短くまとめるつもりだったのに、また長々書いてしまった(笑)。
言い訳は後付けであるが、心を安ぐ。
ところで、NHKの白川氏の「世界百名山」ドキュメントDVD、
120分で3675円。
安い!
こっちを買おうか(笑)。


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¥3,307