知人の紹介で加藤諦三氏の本を買ってみた。
といっても、指し示した本は見つけられなかったので
自分に興味がありそうなものを選んで。
それが「心の休ませ方」。
- 心の休ませ方/加藤 諦三
- ¥500
いわゆる心理学の一般書。
心理学というと、頭に浮かぶのは学問見地からする批判の声。
極論の人にいわせれば心理学は宗教で、学問ではないらしい。
一理はある。しかし、そう主張する人は概して怒っていたりして。
かつて「おばあちゃんの知恵袋」と例えたら
「違う!」と一蹴された。
そんなに怒らんでも。批判者が精神不安定だと説得力なし。
私としてはどんな学問だって仮説からほとんど出ていないのが
実情と思っているので、程度の問題かと思う。
勿論、その「程度」を突き詰めることが重要なのだけれど。
私は大学で多少心理学を学んだし(結構忘れたが)、
土井健郎氏の本などにもお世話になった。
分野が違うかもしれないが、養老孟司氏の本もガツンと来た。
とはいうものの、心理学は最近離れていたのでどんなもんかなと
思いながら読んでみたのだが、
その実、なかなか興味深い部分が多かった。
その最たるものが
「鬱の人は憎しみをエネルギーにして生きている」
というところ。
うーん、私そのままである。
この本の定義によれば、私は鬱のようだ。
多分、ごく軽度な方だと思うが、しかし、慢性的。
時々、躁の気に襲われることもある。
しかしながら、鬱の定義は難しい。
そもそも症状を見て人間が名づけたものだから、
症状の研究が進むにつれて、どこからどこまで鬱と呼ぶのか
という問題が出てくる。
名前があるということが人間にとって非常に意味を持つので、
あちこちで拡大定義される。
結局鬱とは何じゃということになる。
以前の会社で、ある方が鬱で辞めると言い出したが、
上司は「欝は自覚がないんだろ」と相手を終始疑っていた。
そもそも「鬱」というものが世間ではイメージでしかない。
具体的に出歩けないとか、コミュニケーションが困難とか、
アクション重視なのである。世間がこうであるから、
鬱の方も具体的なアピールをするしかない。
厄介な話である。
自覚があるから鬱じゃないというのはおかしいと思う。
自己分析できないほど重度であるか、もしくは知識を持ってない為に
自覚できない場合だけではないのか。
因みに私は高校時代、上記の理由で自覚はなかった。
「憎しみをエネルギーにして生きている」
私は確かにそうだし、今までに出会った精神不安定な方も
そういうきらいがあった気がする。
ちょっと前に話題になった「キレる子供」も
これに当てはまると思う。
イライラして、周りからの無理解で被害妄想的になっているのだ。
常に怒っている人は基本的に愛情に飢えている。
一言でいえば寂しいのだ。
しかし、その寂しさは幼児期に植えつけられたものなので
どうやっても埋められない。
「欝」は治るといわれる。
確かに、治療によって軽度にまで回復は可能のようだ。
しかし、幼児期のトラウマは消せるのだろうか。
重度の場合は治療と休養が不可欠だろうが、
軽度になったらその後は一生「寂しさ」との戦いである。
「軽度」と比較便宜上表現しているが、決して侮れない。
私の愛情飢餓は両親との関係にあるようだ。
私は両親と見た目も良く似ているが、どうやら欠点も
似てしまったらしい。それを親が許せなかったのである。
別にいじめられなくとも、子供は親のオーラを感じ取る。
どうもそれが人格否定としてトラウマになってしまったようなのだ。
高校時代にどうしようもなく行き詰った私は、
親へのトラウマを拭いきれず、両親を責め続けた。
親もなかなか頑固で、決して折れようとはしなかった。
そうして苦しんできたのだが、現在はもう親を責めていない。
向こうから喧嘩を売ってくることもたまにあるので
やりあうこともあるが、基本的には温厚な関係である。
というのは、親も実は愛情飢餓だったのではないかという
推測をするようになったからだ。
私の父親は頑固で偏屈である。しかし、我侭ということは
相手に甘えているともいえる。
頑固親父のほとんどは愛情飢餓の変形ではないのか。
私も愛情飢餓で見返りを無意識に求めてしまうタイプなので、
こういう感謝されない横柄な甘えには腹が立つ。
しかし、親は親で内なるものに悩んで来た。
連鎖を責めても益はなし。
そう思ったのである。
もっとも、愛情飢餓は理屈でなく感情なのでどうしようもない。
しかし、私にとって両親は体の一部のような気もするのだ。
親に悩むのは体の部分の痛みに悩むようなものである。
うまく付き合ってはいけないか。そう思えるようになったのだ。
さて、問題はここからである。
生涯続く「空しさ」と「寂しさ」とどう付き合っていくか。
この本では、それには「孤独な決断」をするしかないと
書かれている。なんだか禅問答のようだが、何となく
言いたいことは分かる。
で、自らの20年以上の思案と照らし合わせながら
私にとっての方法を考えてみた。
1、出家
2、技術屋
1は昔考えたことがあった。しかし、瀬戸内寂聴さんの
「出家は辛いから一般の方には薦めない。でも、今回の
(人を殺めてしまい後悔している)方には薦める」を聞いて、
私には覚悟が足りないと感じた。寺が近くで坊様に慣れている、
というわけでもない。モチベーションが足りない。
2は技術屋といっても工業関係の話ではなく、
自分で技術を高めていく仕事の方のことである。
テクニカルな工夫に没頭するということだ。
最上級はイチローや宮崎駿などが当てはまるが、
そこまでいかなくとも、オタクといわれる専門家も
私にとっては技術をもつ方だ。
自分の世界を具体的な形でもつということだ。
この「具体的」というのが重要で、
目に見えるものであれば社会と接点が持てるのである。
自分の世界と社会を繋ぐことで精神を安定させるのだ。
というわけで、結局2を目指すことになりそうだ。
口で言うのは安しだが、別に楽になりたいわけではないのだ。
有意義になりたいのだ。歓喜と言ってもいい。
最後に、「憎しみのエネルギー」は悪いイメージが付きまとう。
実際、このエネルギーは精神の成長を妨げるという。
確かに、私の高校時代はそうだった。
しかし、このエネルギーだってものは使いようだと思うのだ。
このエネルギーを使って社会の第一線で活躍している人も
少なくない。
安直なニヒリズムは嫌いだが、社会を斜めから見据える事も
重要なポジションだと思うのである。
勿論、勉学は怠らず。