中ザワ氏が1989年に製作した全編手書きの近代美術史テキスト(全42ページ)であり、非常によくできている。
以下内容を要約してみよう。

印象的にヘタクソだと評されたのがきっかけで印象派と呼ばれるようになった印象派は、ほとばしる色彩・情熱のタッチを身上とするゴッホの子孫にあたる「野獣主義(フォーヴィズム)」、意図された形態・必然による構成を身上とするセザンヌの子孫にあたる「立体主義(キュビズム)」に引き継がれていく。
セザンヌの言葉である「自然を球、円錐、円柱にみたてて絵を描く」をついに本当にやってしまったのがキュビズムのブラックであり、ピカソ。
本当にやってしまったから、「これは、絵ではない」との非難を受けた。
近代(モダニズム)とは、過去を乗り越え、前へ前へと進むベクトルのことを指すが、印象派以来顕わになってきたモダニズムは過去を乗り越え、乗り越え、ついに「これは絵ではない」と言われてまでも前進していく。
そしてその行先は、自ら「芸術に死を!」と叫んだダダに向かう。

ダダの代表人物と言えば、当時(1919)神聖な犯すべからぬ「美」の象徴であったモナリザの絵の複写写真に鉛筆で髭を書き込み、既成の男子用小便器に製作会社社長名をサインして作品とした「クソマジメだけは許せない」とのたまわったマルセル=デュシャン。
それまでクソマジメであった芸術に対し、「反芸術」「芸術に死を」という立場を明確にし、最終的に「芸術をやめること」までも実際に作品としたデュシャンに「モダニズム」の縮図を見るなら、前へ前へと進み続け死に至るのが近代だということになる。
ドリッピングで知られるポロック、ばかでかいキャンバスに茫洋とした色面を残すロスコが破壊(死)に所属するのか、新生に所属するのかわからないが、「人類共通の悲劇的物語をかかなければならない」とロスコが言ったように抽象表現主義者はとても真面目だったことを考えると、僕は不真面目さをもって既成芸術を破壊したデュシャンに対し、まじめに既成芸術を破壊したと考えると、抽象表現もまた破壊に属するのだと思う。
そしてジャスパージョーンズに代表されるネオダダ。
中ザワは、ジョーンズの代表作「星条旗」の意味を5つのポイントに分類している。
① 星条旗というきわめて大衆的なイメージ
② キャンバス自体がそのまま星条旗になっているというトリック性
③ 画面の平面性・支持体としてのキャンバスの認識
④ 星条旗の赤と白による単純なストライプ
⑤ 筆跡が明瞭であり、そこに「芸術行為」がみてとれること
①は抽象表現主義という極めて禁欲的な表現から、大衆的なイメージの連打への移行をさし、②は反芸術とコンセプチュアルアートの先駆けを、③④はミニマルアートのはじまりを意味している。そして、⑤の筆跡はレッキとした「ゲージュツ」である抽象表現主義の名残であると指摘する。
デュシャンは、「私はあらゆる芸術にクソをぶちまけてきた。しかし今ネオダダと呼ばれる連中は反芸術の中にむしろ美学をノスタルジーしておりケシカラン」旨の発言をしており、結局ネオダダも“反芸術⇒死”に向かう「モダニズム」にすぎないことになる。
このネオダダつまり後期モダニズムがコンセプチュアルアートあるいはミニマルアートという形で“完結し、閉じられた状況”または自己充足するという意味で“シアワセ”な状況に結局いきつくことを考えると、本質的にはネオダダもまた「死なない“死”」という死に行きついている。




この閉塞状態が世界各国で“異所的同時多発的”に打ち砕かれていったのが「ポスト・モダン」であり、アメリカではニューペインティング、ドイツではネオ・エクスプレッショニズム、イタリアではトランス・アヴァンギャルディア、そして日本ではヘタうま主義として表れている。
このポストモダンの意味を、中ザワは進歩の夢は打ち砕かれ、人間は自らの進化に終止符をうち、“過去”はもはや乗り越えるべき存在でなく、“過去”は逆戻りすることも引用することも可能な存在となったと説明している。
そのため、これらのポストモダンの流れは、過去を「既視感」をもって対応するシミュレーションアートに集約されていき、過去を「未視感」をもって対応してきたモダニズムからテーゼの変換がなされた。
そして、ポストモダンの枠組みの中での「既視感」の変貌が始まり、やはり前へ前へと進んでいく。
短期間の作家の内面を吐露する表現主義による発火時期⇒理性と幾何学(法則)、抽象化への移行⇒そのテーゼからの逸脱という死を経て、新しいテーゼの発火へと向かう。
このように考えると、多くの引用、オマージュを従えながら、新しい組み合わせとして発火しながら無限に新生していくため、遠慮なく既成概念を死へ追いやっていいし、絶対性による変化の否定(中世)に戻るという選択肢を選ばない限りは、やはり残念ながら人間は前に進む衝動を持つ生物ということになるのだろう。
人は現在と過去の連続性・同一感の中で生きているが、幸か不幸か、やはり本質的には、明日はまた新しい一日として人に訪れるようだ。
