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ワイン考察記

ワインの味わい方、楽しみ方をなるべく簡単な軸で考察したい

ダークナイトライジングを見た。 
実は3部作と知らず、2作目からみはじめたのだが、おうおうそういう理屈の付け方なのね的完結作。ストーリー的には見ていて混乱はなかったが、キャラ的にはパラレル作品が多いので、若干の頭ハテナ状態。思わずウィキペディアで復習してしまった。 
ウェイン君には色々共感できる点もあるが、ところどころどうして妙な平等感に拘るか謎。ほんま執事が報われないわ。女性を見る目もないしな。 
まあその愚直なところがウェイン君なのだろうが、アホみたいに素手で殴りあって何が楽しいのか???、しかもバットスーツきてたら、すでにその時点で対等でない気が、、、 
周囲にまともなことをいう人を配置して、そんな綺麗事では解決しない悪事がと思わせたくても、いやーこの実直君では更に解決しないでしょと思ってしまうので、結局メカとスーツのパワーで振り切っとるようにしか見えない。 
まあ、そんなんでも、そこがある意味良かったりするのだが。 
こんなウェイン君でも意思さえあれば、どうにかなったと。 
執事とキャットウーマンが素敵なので、物語っぽくなって見えるが、どーみてもウェイン君アホだよなあ。 
まあそれでもウェイン君が周囲を虜にする物語に共感できるのだから、何だかんだ言っても、アホが愚直に戦う物語の力はすざまじく、そんな話に共感する自分はもっとアホということなんだろうなあ。 
何となく力技に頼らなくても済むようにマジメにコツコツ仕事しよっとと思った教育的?作品でした。

今日は歯医者の日だった。 
というか最近歯医者の日ばっかり。 

今日は銀歯の詰め物外して、その下の虫歯を処置。 
今回処置と型取りで、次回詰めるので、2週連続で予約済み。 
銀歯を外した段階で鏡を持たされ、確認させられる。 
この黒いの全部虫歯です、、、 
処置前にも外側からうっすら黒く見える部分は虫歯ですと指摘されたが、こうまざまざと見せつけられると、はいすみません、しっかり歯磨きしますという感じ。 

たしかにウィキウィキちゃんにも 
う蝕原性菌、食物残渣、唾液は結合し、歯垢(プラーク)となって歯に結合する。歯垢の付着は、臼歯の咬合面の溝や、全ての歯の歯肉縁、歯科修復材料と歯の境において最も顕著である。 
とあるので、銀歯との境目は要注意なんだろうけど、磨きにくいです。 
境目をしっかり磨けということですねと先生に聞いたら、 
身も蓋もなく、磨けてませんと断言されてしまいました。 

治療の合間に歯のチェックをされる。 
前回歯石をとったので歯茎が引き締まってますね。 
と言われた。 
先生、それは歯石除去のせいじゃなく、最近15分以上*2、歯を磨いてるからです。 
もうこれ以上は磨けませんよ、、、 

磨け具合は、1本1本、数値化され、前回と比較される。 
そんな検査なんかしなくていいよと思ったが、こう証拠を見せつけられると、はいすみません、磨けていると思っていた私が傲慢でしたと思えてしまうので不思議なものだ。 

しかし不思議といえば、歯医者の点数。 
再診料     42点 
検査     200点 
麻酔   48点 
歯冠修復   384点 
1点はすべて同じ価格なのかどうか知らないけど、検査が高いというより、歯冠修復安すぎだろう、、、まあ毎回僕の修復は手間がかかるほどやられているつうことですが、1時間弱必死で修復して、合間にちょちょいってやった検査2回分なんて、いまいち割りが合わない。 
困難で本当に歯医者儲かるのかなあ、、、だから審美歯科をするのか。 
価格は200点♩ 
ぽぴぽぴぽぴ、ぽっぴぽー♩ 

虫歯が多い集団は 
CDCでは、う蝕リスクの高い集団とは、社会経済状態が低いか両親の教育水準が低い人たち、定期的に歯科ケアを受けることのできない人たち、歯科保険に加入していないから歯科サービスを受けにくい人たち、としている。だそうです。 
あー父さん母さん♩ 
あー感謝してます♩ 
素直にすいませんという感じです。 
どういう統計分析したんだ? 
まあ、子供の虫歯リスクから両親の教育水準との相関性をチェックしたんだろうし、逆の虫歯が多い人の両親は教育水準が低いというロジックは成り立たないんだけど、あーごめんなさいという気分です。 

そんで、仮蓋状態なので、餅やガムさけるようにとのこと。 
牛タン食べても大丈夫ですか?と聞いたら、 
麻酔がきれるまでは感覚ないのでやめた方がいいです。 
舌噛んでもわかりませんよって、、、 
さすがにわかりますって、おまけにタン食べても舌までかみませんって、、、 
とはいうもののおとなしくタンは避け、スープストックでスープご飯にしたのでした。 

ヴィヴィアンウエストウッド表参道店は、見つけるのに30分以上かかってしまいヘトヘトになったのと、欲しいのは全部セール対象外だったので、もうしばらく考えることにしたのでした。

本日バテバテで上京してきたので、東京駅から有楽町までガード脇を歩く。 
目的地は、ねぎし。 
昨日かえれまてんで放送していたトラジにトラップされそうにもなるも、振り切りねぎし入り。 

麦飯にトロロにテールスープ。 
メインは悩んだ挙句、ブラッキー&白たん。 
カルビに柔らかいタンである。 
エネルギ満タンで、すっかり癒される。 

夏はねぎしに限る。 
しかし、もうこの年になるとやっぱり白たんではなく赤たんだな。 
油吸収能力が低下してる。 
赤たんに食らいつく方がいいや。 

明日の夜は表参道なので、ビビアンをひやかしてから、今度は表参道店に赤たんを食べにでもいくか? 
平日は空いていていい。 

となりの♩トロロ♩トロロ♩ 
テール♩テール♩ 
都会の中で  昔からやってる♩ 
おまけに♩赤たん♩白たん♩ 
ブラッキに♩麦飯♩ 
夏バテの時だけ   あなたに訪れる♩ 
不思議な出会い♩

見終わった直後はゲテモノを食わされてお腹一杯な感じ。 
しかし、ジリジリくるなあ。 

僕は、物語の力を信じてる方だけど、存在が物語を超えて、伝説をつくることがありうるんだと思いました。 
あの存在の光だけでも体感する意味があるかも。 
直後はもう二度と見ることはあるまいと思ったけど、もしかして何度も味わえる消費され尽くさない輝きがあるかも。 
やっぱりもう一度見てみようかな。 
DVDでたらだけど。

先週ですが、モダーンハイツ(ほぼ仮名)という気になっていたカフェバーにいきました。アトリエ併設のカフェで、1Fの入口にCDとあちこちの美術系チラシ類がおいてあり、地下がカフェとバーカウンターで奥がアトリエです。なかなか良さげなセンスが感じられたので、行ってみたかったのですが、なんとなく足が地下に伸びず行ってませんでした。 

それを先週ついに行ってみました。ドアは開けっ放しで冷房ギンギンなロックな感じで、地下に降りていくと床半分はデッキで少し上げてあり、いい感じです。ロックは常識への反発なので、いまは電気使ってやるぜはロックでしょ?実質ピークじゃなけりゃ関係ないし。壁は美術手帳な感じ。 

メニューは、**農園の野菜のなんちゃらとかヨルダンだがどっか中東の名物料理とかオリーブオイルのポテトチップスとかそんな感じ。エビカレーにしてみました。農園産はうたっていても、カウンターに並ぶ酒瓶を前に、自然食とはうたわないようです。 


さてエビカレー、、、強烈です。農園根菜が結構あく抜いてねーだろ的な味で主張してくるし、おいおい芸術家は肉体労働で塩を欲しているのか的な塩味です。まじ舌まがってんじゃないのってな感じなのですが、まずいというより個性ありすぎくえねーてな状態です。 

うーん、カレーは二度と頼まないとして、ケーキなら食えるだろ。居心地はいいカフェだしと思い、インドネシアのなんとか島のココナツクリームがけの四国のどことか産の蜜柑のケーキを頼みました。 
そしたら、お姉さんが持ってきたケーキの味が、うおー、お前の名前は、はぐみだな絶対そうだ、お前ははぐみだなな味でした。 

蜜柑どこまで入れたんだお前、この苦味はなに?しかも苦味や酸味を使うときは、少量の苦味と酸味に大量の甘みを足すんじゃー、ママレードにアンゼリカもそうやって食っとるだろーーー。糖尿になるぞぐらいの甘みに囲まれて、苦味と酸味がいきるんじゃーーー。蜜柑は苦味MAXでココナツ甘み薄の食えないケーキでした。拷問かこれは拷問だな、絶対食いきってやるぜ、ここはあの毎年大量の被害者を出しながら、客足は途だえることなく、苦情はゼロのThe☆カクテルバーなのか? 

まさに毒の味でした。 
しかし不思議なことにあまりまずいものを食べたときのがっかり感はありませんでした。ここまでされたらしょうがないよね的な感じです。毒を食らわば皿までとはいいますが、くせにはたぶんなりません。 
まあタイで昆虫のフライ食ったぜ的な怖いもの見たさなんでしょうけど、たまには行ってやってもいいかな。 
料理は少量のものにしたいけど。 

詰め物が取れました。 
歯医者にいったら、ムシ歯も結構ありますと言われました。 
詰め物が取れた歯もムシ歯にやられているそうです。 
それも結構広範囲にわたってです。 
それを今日治しました。 

問診の時の若い女性の先生は、前の患者さんで押しているので、院長先生が麻酔をしてくれました。 
情報伝達もしっかりしていて、初めて会うのに歯の状態をちゃんと理解していて、待たせないように麻酔を先にしておいてくれたのでした。ちなみにここの歯医者は個室に仕切られています。 

会社の近所でネットの説明もしっかりしていたから選んでみたのです。ビルの2階にひそやかに入っており、待ち患者が一人もいないうえに、院長先生と奥さんらしき写真が飾ってある高級そうな雰囲気ぷんぷんの歯医者で、受付の人に保険の範囲内の普通の治療受けられますかと聞いてみると、大丈夫ですよとの返事だったので、治療を頼んだのです。そう予約制で、受付も助手の人が受付を兼ねているから、待合室には誰もいないのです。 

麻酔は部分麻酔で痛みも少ないように注意を払っているようでした。 
実際、ほとんど痛みを感じませんでした。 
2度注射をしたのか、よくわからないのですが、2度目の処置で、たぶん狙った場所に正確に処置できれば、ほとんど痛みはなかったはずなのでしょう。それが、わずかに注射かなにかの感触を、本当にわずかにいまの注射なのかなあというぐらいに感じたのです。そうしたら、なんと院長先生がすいませんと謝ったのでした。 
本当ならまったく気づかれないぐらいなのに、気づかせてしまい、すいませんという意味なのでしょうが、ええー何がすいませんなのーという感じでした。 

さてさて麻酔後は、女医さんに交代です。 
しっかりと患部を鏡で確認してから治療に入ります。 
助手の人が多少手を貸すこともありますが、たぶん助手の人は院長先生の手伝いもしているのでしょう、助手の人がいないときは、先生が両手で道具を操り、ちゃかちゃか治療をすすめます。今日は、仮入れしていた詰め物をとり、ムシ歯などを削り、あいた孔と削った孔を詰め、磨きます。熱心に治療をすすめつつも、頻繁に口を休ませてくれます。さらに驚いたことに、ムシ歯が深く時間が長かったので、途中一息、休憩させてくれ、ところどころ今はこんな作業中です、もう少し頑張ってくださいねと励ましてもくれるのです。いつから歯医者はサービス業になったのでしょうか。そうして、僕の50分程度の治療は予定通りの時間で終わり、治療済みの歯とまだ残っている3か所のムシ歯を鏡で確認させられ、次回の予約を入れたのでした。 

かなり深くまで削ったので麻酔が切れると痛むかもしれないと注意事項を説明され、痛かったらすぐ電話してくださいと言われ、え、すぐってどれぐらいすぐ、真夜中にいま歯が痛い気がするんですと電話してもいいのとくだらない妄想が頭をよぎり、解放されたのでした。 

お会計は、結構削って埋めたから高いのだろうとなんでも量換算する私の感覚と異なり、1箇所は1箇所で1790円でした。保険前でも6000円弱なので、うーん50分6000円応援付き、マッサージ並みの値段だなあと思ったのでした。 

そして麻酔が弱まるにつれ、予告通り若干の歯の疼きが生じました。僕はムシ歯が痛くなったことはないので、ムシ歯治して歯が疼くという奇妙な状況です。ええい、ここはデザートで紛らわしてしまえと、ご褒美にエクレアとオレンジ―ナを買い、またムシ歯増やして、応援されに行ってやると心も疼くのでした。

僕は玉ねぎ 

僕は玉ねぎ 
なによりも玉ねぎが好き 
お昼のお弁当には、無料の味噌汁がつくけど、 
僕は自前の玉ねぎスープ 

僕は玉ねぎ 
あのコクのある甘みが好き 
偽オニオンスープはいらない 
少し高くてもとろとろの玉ねぎの入ったスープが好き 

僕は玉ねぎ 
刻んだ玉ねぎをじっくり炒め 
こげ茶色のしなしなにして 
そのコクをうつしこんだ料理が好き 
ほんとに焦がしちゃいけないよ 

僕は玉ねぎ 
玉ねぎのコクをしっかりと活かして 
キレのいいスパイスと合体した 
チキンカレーが僕は好き 

僕は玉ねぎ 
どんな料理も引立てて魅せる 
自分はすっかりしなしなになっても 
その味わいは輝き続ける 


カラオケは、次の手順を踏むことにより上達する。
1.聞く
2.大き目の声を出す
3.テンポを強調して合わせる
4.メロディライン(調)を強調して合わせる
5.テンポやメロディラインの変化を楽しむ

このような手順を踏むことにより、テンポやメロディラインが変わる難しい曲も楽しむことができるようになります(趣味としてと考えてください)。歌を歌うことの開放感は、曲や詩との同調にあるため、テンポやメロディラインが変わる曲の方が、同調を感じやすく、同調したときの開放感は大きいです。

私もこの方法で、ギザギザハートで尖がって、盗んだバイクで走り出し、リンダリンダと絶叫するしか、自分の存在を確認することができなかった永遠の思春期歌唱法の支配から卒業し、歌を楽しむことができるようになりました。

この方法の重要なポイントは、元の歌より、大きめの声、強調されたテンポ、強調されたメロディラインというところにあります。
普通、人間は、まだうまく歌えないのだから、間違いが目立たないように、小さい声であまり変化をつけずに歌おうと考えがちです。
しかしながら、小さい声であまり変化をつけずに歌った場合、なかなか歌は上達しません。
また、変化が小さく単調であるため、同調性を感じることが難しく、その結果、歌うこと自体が楽しくありません。
そのため、自分の楽しみのために自分の意思で歌うのではなく、何かのためにやむを得ず歌うことになってしまいがちです。
その結果、感情の同調や開放からは、もっとも遠い位置に立ってしまうことになります。

少々目立ちますが、大きめの声、強調されたテンポ、強調されたメロディラインに挑戦することの方が、結果的に感情の同調や開放に近くなります。
同調は、部分的でかまいません。部分的でも同調することができれば、バランスは自然にとれ始め、最終的に過度な強調は消えていきます。
これを限界超越歌唱法と呼ぶことにしましょう。

この限界超越歌唱法は、なにも歌だけでなく、人生に起こりうる全てのことに適用可能です。
おまけに、人間が限界の内側でなにかをしたほうがいいと考えがちなところまで一緒です。
カラオケという個人の趣味だけでなく、社会全体という意味では、たとえば経済原理にも適用できます。

たとえば、ゴッセンの第1法則とも呼ばれる限界効用逓減の法則(law of diminishing marginal utility)について考えて見ましょう(ミクロ経済学の消費理論です)。

財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分(限界消費分)から得られる効用は次第に小さくなる、とする考え方のことです。
分りやすい具体例をひとつ挙げれば、普通、最初の1杯目のビールはうまいが、2杯目は1杯目ほどうまくない、3杯目は2杯目ほどうまくない。このように1杯目、2杯目、3杯目となるほど、ビール(財)から得られるメリット(効用)は小さくなるということです。
このような不可避な停滞・沈滞を乗り越え、絶えず需要を喚起していくために、絶えざる「テコ入れ」「イノベーション」が必要とされる。(Wikipediaから抜粋、一部改訂)
と解釈されています。

つまり限界の内側で物事を実施していると、だんだん変化が感じられなくなるということです。
経済学というのは、もっとも効率的に成果(と呼ばれるもの)を最大化するための学問です。
そのため、このような逓減は避け、別の分野のものを試しましょうと考えます。
(これは、ゴッセンの第2法則、限界効用平均の法則が示唆する考えです。)
結果的には、これがグローバリズムを支配する競争原理の骨格になっています。
つまり、簡単に言えば、ちゃっちゃと成果が出るうまいとこだけ食い散らかそうぜということです。
食い散らかした後は?
それはリストラクチャリングして乗り換えればいいのです。

ただし、これは、いつまでも歌が下手な人の歌唱法と同じです。
別に、普遍的真理でも世界のすべてでもなんでもありません。
限界の内側で効率化を図るとこうなるよという世界の一部分を示しているのにすぎません。

さあ、ここに限界超越歌唱法を投入しましょう。
つまり、リターンがなくても、やり続けたらどうなるのという問いに似ています。
やり続け、やりすぎたらということです。
毎日カレーを食べて飽きたなあと思っても、それでもまだ食べてみたらと置き換えてもいいでしょう。
するとどうなるか、カレーがいわゆるおふくろの味とも表現されるクラスに昇格するのです。
つまり、なくてはならないソウルフードに近づきます。
それを食べることにより、満足を得ることができるようになります。
(勿論その時になにかに同調しているのかもしれません、歌と同じだとすれば。ここまでは私も考察しきれていません。つまり日本人の米とみそ汁への同調性についてです。)。

これを経済学に戻って解釈すれば、新たなニーズ・価値を生み出すということです。
結果としてはイノベーションということになります。
人は限界の内側で効率化を図りつつ、イノベーションを成し遂げようとします。
しかし、それは意味がありません。
イノベーションを本当に達成したかったら、効率を無視して、限界を超えた方がはやいのです。
いや、そうでなくては達成できないのです。
(はっきりいって、効率化を図り、イノベーションも達成しようと主張している人は、本気でイノベーションを達成するにはどうすればいいか考えたこともないなんちゃって君だと思った方がいいでしょう。)

では、どううまく限界を超えるか?
限界を超えるのは、いやなものです。
はっきりいって、後ろ指さされます。
少数派になります。往々にして最初は一人です。
しかし、試しに小さなことで一回やってみてください。
たとえばカラオケとか。

結果的に限界をへんに超えてしまって、いわゆる失敗をしたとしましょう。
それでも、最初に頭の中でイメージしたテンポとメロディラインがあれば、たとえ、頭の中でイメージしたそれらが正解と異なっていたとしても、あるいは歌われたそれらが正解とも頭の中とも異なっていたとしても、意味はあります。
頭の中でイメージしたテンポとメロディラインがありさえすれば、最終的に、なにかの意味のある(官能的な)作品になるのです。

それは正解でも頭の中のイメージとも違うかも知れません。
でも、結果的に、そこに新しいテンポとメロディラインができさえすれば、人は、そのテンポとメロディラインを知ることができます。
それは上質のいいものでないかもしれません。

しかし、上質かどうかというところに意味はありません。
テンポとメロディラインがあれば、それに同調するかどうかを他人が選ぶことができます。
そして自分自身もそれに同調するかを選ぶことができます。
また別のテンポとメロディラインに向けて調整することもできます。
ここに意味があります。

だからゴールをイメージして大げさにやってみましょう。
小さなことから少しづつ。
だんだん他人にやらされている状態から脱却できます。
そして、自分で楽しみながら取り組むことができるようになります。

さあ、カラオケ行きたくなってきたでしょう。
いいですよ、いますぐカラオケ行っても。
ああ、あの人は限界を超えようとしているんだと、みんな好意的に解釈してくれるでしょう。
誰も後ろ指さしませんよ。

最後にひとつおまけです。
何かで限界を超えるコツをつかむと、不思議なことが起きます。
今度はなぜか歌までうまくなります。
信じるか、信じないかはあなた次第。
こんなメールが届いた。
チケット売れてないのだろうか、、、
わたしは購入済みですが。


ども。鴻上です。お元気ですか?「第三舞台」の封印解除&解散公演から、初めての芝居です。
ブルーハーツの楽曲を20曲ほど使った、音楽劇です。リードボーカルだけをレコード会社に引っこ抜かれ、残されたメンバー達の物語です。2004年の初演版では、残されたメンバーは、本当のロックバンドになるために、九州にある、アザハヤ湾をせき止めた堤防を爆破しようとしました。ムツゴロウを助けるためです。
2012年の「リンダ リンダ」は、北にある立入禁止区域内に取り残された牛達を助けようと決意します。そうすることが、本当のロックバンドになることだと決意したのです。

再演ですが、第三舞台の時のように、「新作的再演」です。8年ぶりに上演することは、この8年の変化が必然的に作品に込められるということです。

ブルーハーツは、「第三舞台」の時に何度も使わせてもらいました。「天使は瞳を閉じて」では、「人にやさしく」や「ハンマー」を。「トランス」では「夕暮れ」を。それらの曲を全編に歌いながら物語を紡いでいくことができるのです。こんなに幸福なことはありません。

第三舞台の封印解除&解散公演を見てくれて、そして、「リンダ リンダ」の初演を見てない方は、ぜひ、劇場にいらしてくれませんか。鴻上の次の展開を、ぜひ、目撃して欲しいと思います。
テーマは、「夢見る時期を過ぎて、それでも夢を見ようと決意したことの苦しさと切なさと愚かさと格好よさ」です。

「第三舞台」をちゃんと終わらせて、次のことをちゃんと始めようと思っています。ぜひ、直接、目撃していただけませんか。劇場でお会いしましょう。

鴻上尚史

 

 

よしもとばななのスウィート・ヒアアフターは、「まぶい」を落とした話である。

まぶいを持っている人が、まぶいを落とす話を、彼女の繊細な感覚で描いている。

きっとまぶいを削りながら、きちんと向き合い、描きつづっていったんだろうなと思わせる。ところどころに、まぶいのかけらが落ちているから、それが口に合おうと合うまいと、自然に丁寧に味わってしまう、そんな物語。

 

 

冒頭、彼が事故で亡くなる。

「彼がいないことはもちろん考えられないくらいに悲しかった。しかしその悲しさの時期を抜けた後に突然、透明でぽかんとした感じがやってきたのは意外だった(29)」

ああ、たしかにまぶいはこのように落ちていく。

悲しさや怒り、哀しさを抜けた後とは限らないが、なにかの感情を持つのではなく、なにかがなくなる。まぶいは1つとは限らず、5つあるとも7つあるともいわれるそうだが、それを落とす。いや、落としてしまっていることに気づく。

 

 

まぶいを落してしまっている間も時間は進む。

「あのときが、自分が純粋に女だった最後のときだったような気がする。それからしばらく、ぼうっとしている私を置いて、合理的ですてきな現実は体と手を組んでただただ進んでいった。つまり体のほうに合わせて自動運転してもらうことで、自分の繊細な状態にある内面を眠らせてあげていたのだ。その分体はやたらてきぱきと動いた。そのうちに心が体に追いついたとき、私は気づいた。そうか、体ががんばってくれていたのか、だから休めたんだ。なんてことだ、体よごめん、悪く言って、雑に扱ってごめん、やはり私は生きているんだ、このすごいしくみのおかげで。(42-43)」

いくつかあるまぶいのひとつあるいはふたつみっつを落としても、あるいはまぶいの一部分をおとしても、残りがあるから、生きていられるのか?

それとも、まぶいを落としても、体があるから生きていけるのか?

小さなまぶいを落としても、きっと落としたことにすら気がつかないだろうから、自分で気がついてしまうぐらいおおきなまぶいを落としているのだろう。

そう思うとやはりその間、体があるから生きているのだろう。

もしかしてよく心ここにあらずの状態になっている私は、しょっちゅうまぶいを落としている繊細なひとってことになるの?精細でかつ尖がっているってこと?

我ながら、めんどくさい。

ああ、でも単によくまぶいを落とす人と考えることにしよう。

どのみち、精細で尖がっている自分からは逃れられないのだから、精細で尖がっている自分でいるしかないのだけれど、精細で尖がっていると思うと、自分も相手も傷つけるけど、まぶいを落としただけなら、なんとなく誰も傷つかない気がするから。

 

 

そして、事故で臨死体験をした主人公には霊が見えるようになる。

「だれなんだろう、あの人、なんであそこにいるんだろう?私はいつもの風景の中にいる、この世の人ではないその人をなんとなく気にかけるようになっていた。きっといつか消えていってしまうのだろうけれど、あんなふうに笑っていられるのなら、この人の人生は悪くなかったに違いない、そう思うと、私の心は何に接しているときよりも深く慰められたのだった。霊に傷つき、霊に癒されるおかしな日々。私がにこっとすると、彼女はこたえるでもなく私を眺め、私と街を等しく認め、そのままにこにこしてこちらを見ている感じがした。そうすると私は、自分が世界とちゃんとひとつになっているように思えて、際だって苦しんでいるように見えるわけではない、ちゃんと混じっているんだ、大気にとけていられるんだと安心できた。(53-54)」

まぶいは生きている人の落とすものである。

なくなった人の魂はタマシーというそうだ。

タマシーが旅をするなら、落ちたまぶいも、きっとどこかにあるのだろう。

ただ単に強い衝撃があれば、まぶいが落ちるのではなく、衝撃とそれを受けるまぶいがあるから、衝撃を受けきれなかったときに、そこにあったまぶいが落ちるのだろう。

まぶいがなければ、衝撃があっても、まぶいは落ちない。

いつもは誰も気づかないまぶいの存在が、衝撃によって顕らかになり、はぎとられ落ちる。

はぎとられる衝撃で、本人は気がつかないだろうが、周囲には鮮明に、はぎとられるのが見えるだろう。

まぶいがはぎとられるのを見るとき、「まぶいなど持つから痛みが生じるのだ」と思うか、「はぎとられるのを覚悟の上で受け止めようとした勇気」を見出すのかは、人によって異なるだろうが、皮肉なことに、はぎとられる瞬間に、まぶいの存在はもっとも鮮明に意識されるだろう。

世界は、まぶいとまぶいを見せるための衝撃で、できているのだ。

その衝撃は、悪意と呼ばれたり、限界や不運と呼ばれたりするけれども、この衝撃がまぶいに光をあてる。

なにかに思いを残したタマシーや、自ら削ったり、解き放ったり、譲り渡したまぶいは、活きて、植物に水を与えるように他の人のまぶいに滋養を与えるだろう。

だが、はぎとられ、砕けて飛び散ったまぶいは、死んで飛び散ったままだ。

だから、人はまぶいを拾いに行くのだろう。

飛び散ったかけらでも、それはまぶいなのだから、そのまぶいに滋養を与え、いつかは、また生きかえらせることができるのだから。

一部分は、はぎとられたが、残ったほうのまぶいが生きかえった時に、そのいつかは訪れるだろう。

だから、はぎとるのではなく、ただ分けられ、静かに置かれたまぶいによって、あなたと私の世界は混じりあう。

自ら削り取ったまぶいも、受け渡されたまぶいも、世界を混ぜ合わせるけれど、ただ静かに置かれたまぶいも、世界を混じりあわせる。

削り取られたまぶいは、かさぶたを引き裂き、世界は鋭く強く局所的に混じりあい、受け渡されたまぶいを受け取った時、人は活きかえるのだろうが、適切な場所におかれたまぶいを見つけた時に、世界は完全に混じりあい、まぶいは形を変えるのだろう。

 

 

「私はこの世界にこんなに影響を与えている。そのことを知らなった。世界は私が輝くと輝きをきっちり同じ分量で返してくれる。ときにはすばやく、ときにはゆっくりと、波みたいに、こだまみたいに。こんなちっぽけな私がどういう気持ちでいるか、そんなことが世界を確かに動かすことなのだ。(58)」

「もちろん人間だから、そんな希望はすぐに地面に落ちて、ルーチンの世界は必ずはじまる。現実の退屈がちょっとずつ宝物を侵食していく。この世界はときめきを食べて生きているのだ。だからときめきはいつもすばやく奪われるし、かといってハイでいることはときめきに最も遠い生き方になる。毎秒生みだそうとするしかないのだ。果てしない戦いだがそれだけがトータルで勝てる可能性を見いだすたったひとつの道なのだ。(58-59)」

何もしなくても、まぶいを持っていれば、世界に影響を与える可能性は持っている。

まぶいを顕らかにするだけで、たしかに世界に影響を与えることはできる。

でも、顕らかになっただけのまぶいは、ときめきであり、きらめきである。

きらめきで生きていくためには、輝きつづけなければいけない。

より美しく、より大きく、より貪欲に、そして、その輝きすら、現実によって、輝いた瞬間から消費されていく。

ただ消費されていくのではなく、持続していくためには、まぶいを切り離す必要がある。

逆説的だが、切り離して初めて、そこから生まれていく。

どんな形であれ、まぶいを切り離し、それが世界と混じりあうことにより、まぶいは成長し、輝きつづけることができる。

果てしない戦いに巻き込まれずに、輝きつづけるには、切り離す意志が必要になる。

 

 

「なにもないところから、火を起こして、それが燃えさかり、消えていくだろう。そして炭や灰になる。なににおきかえてもみんな同じ過程だ。その全部をなるべくねばれ。先を見たい気持ちでのめるな。ねばって一歩でも遅くためていくんだ。(106)」

まぶいを切り離すことは簡単ではない。

切り離してそのあと置くための形がわかっていたり、切り離す場所がわかっていたり、切り離すための手段を持っていたりする必要がある。

そして何より、切り離すという意思が必要だ。

切り離せずに燃えて、輝いているときは、なるべくしっかりねばり、味わうしかない。

ねばって、ねばって、ねばって、自分を抑え、ためて、ためて、しっかり輝かせるんだ。

それは、必ず、消費され、消え去っていくのだから。

 

 

「まだ見ぬロマンティックラブを夢見るより、今日の目の前のコーヒーとか景色が好き。今日起きることが好き。死んだ母の供養をしている毎日が好き。ここを出たとき、新しく始められる人生の準備をして力をためている感じも好き。ここがなくなったら、そのときの自分がなんとかする、その自分を信じられる感じも好き。(112)」

ロマンティックラブを夢見るのと、新しく始められる人生の準備をすることは違うのだろうか?

この文脈でのロマンティックラブは、白馬の王子様のような外からの快楽を得るために、機会を探し、時として、がつがつと生きること。

今ここにあることが好き。

今ここにある自分と混じわっている世界が好き。

世界と混じわることにより、世界が夢想から現実になる。

 

 

「ほんとうに来たよ。あたるさんはふつうに言った。そのふつうをなんと表現したらいいのだろう、もうほんとうになににも関心はなく、彼の中にだけ広々とした空間があって、私はいてもいなくてもかまわない、その楽さ。この感じを味わったことはかつて一度もない。(131)」

「だれかの心が自由だということは、他の人をも自由にするんだ、でもそれにはとてつもない無頓着さと強さが必要なのだ、彼を知ってそう思った。(132)」

なんにも関心はないが、関心を持つときには持てる。

関心がないから、関心が持てる。

自由だから、選ぶことができる。

選ぶことができない時、それは自由ではない。

それはやはりなにかに投げ込まれている。

人が自由でいることは難しい。

まぶいが人を人にするけれども、まぶいがまた人を縛るから。

だから、自分と世界に対するとてつもない無頓着さによって、その呪縛から自由になり、それでいてまぶいを持ち続け、まぶいを切り離すための強さが必要なのだ。

 

「行く手にはみんなまだ知らない、ふしぎな昼と夜とが待っているだろう(154)」

「どっちでもいいいのよ。私、こうして確かにここにいるんだもん。(154)」