よしもとばななのスウィート・ヒアアフターは、「まぶい」を落とした話である。
まぶいを持っている人が、まぶいを落とす話を、彼女の繊細な感覚で描いている。
きっとまぶいを削りながら、きちんと向き合い、描きつづっていったんだろうなと思わせる。ところどころに、まぶいのかけらが落ちているから、それが口に合おうと合うまいと、自然に丁寧に味わってしまう、そんな物語。
冒頭、彼が事故で亡くなる。
「彼がいないことはもちろん考えられないくらいに悲しかった。しかしその悲しさの時期を抜けた後に突然、透明でぽかんとした感じがやってきたのは意外だった(29)」
ああ、たしかにまぶいはこのように落ちていく。
悲しさや怒り、哀しさを抜けた後とは限らないが、なにかの感情を持つのではなく、なにかがなくなる。まぶいは1つとは限らず、5つあるとも7つあるともいわれるそうだが、それを落とす。いや、落としてしまっていることに気づく。
まぶいを落してしまっている間も時間は進む。
「あのときが、自分が純粋に女だった最後のときだったような気がする。それからしばらく、ぼうっとしている私を置いて、合理的ですてきな現実は体と手を組んでただただ進んでいった。つまり体のほうに合わせて自動運転してもらうことで、自分の繊細な状態にある内面を眠らせてあげていたのだ。その分体はやたらてきぱきと動いた。そのうちに心が体に追いついたとき、私は気づいた。そうか、体ががんばってくれていたのか、だから休めたんだ。なんてことだ、体よごめん、悪く言って、雑に扱ってごめん、やはり私は生きているんだ、このすごいしくみのおかげで。(42-43)」
いくつかあるまぶいのひとつあるいはふたつみっつを落としても、あるいはまぶいの一部分をおとしても、残りがあるから、生きていられるのか?
それとも、まぶいを落としても、体があるから生きていけるのか?
小さなまぶいを落としても、きっと落としたことにすら気がつかないだろうから、自分で気がついてしまうぐらいおおきなまぶいを落としているのだろう。
そう思うとやはりその間、体があるから生きているのだろう。
もしかしてよく心ここにあらずの状態になっている私は、しょっちゅうまぶいを落としている繊細なひとってことになるの?精細でかつ尖がっているってこと?
我ながら、めんどくさい。
ああ、でも単によくまぶいを落とす人と考えることにしよう。
どのみち、精細で尖がっている自分からは逃れられないのだから、精細で尖がっている自分でいるしかないのだけれど、精細で尖がっていると思うと、自分も相手も傷つけるけど、まぶいを落としただけなら、なんとなく誰も傷つかない気がするから。
そして、事故で臨死体験をした主人公には霊が見えるようになる。
「だれなんだろう、あの人、なんであそこにいるんだろう?私はいつもの風景の中にいる、この世の人ではないその人をなんとなく気にかけるようになっていた。きっといつか消えていってしまうのだろうけれど、あんなふうに笑っていられるのなら、この人の人生は悪くなかったに違いない、そう思うと、私の心は何に接しているときよりも深く慰められたのだった。霊に傷つき、霊に癒されるおかしな日々。私がにこっとすると、彼女はこたえるでもなく私を眺め、私と街を等しく認め、そのままにこにこしてこちらを見ている感じがした。そうすると私は、自分が世界とちゃんとひとつになっているように思えて、際だって苦しんでいるように見えるわけではない、ちゃんと混じっているんだ、大気にとけていられるんだと安心できた。(53-54)」
まぶいは生きている人の落とすものである。
なくなった人の魂はタマシーというそうだ。
タマシーが旅をするなら、落ちたまぶいも、きっとどこかにあるのだろう。
ただ単に強い衝撃があれば、まぶいが落ちるのではなく、衝撃とそれを受けるまぶいがあるから、衝撃を受けきれなかったときに、そこにあったまぶいが落ちるのだろう。
まぶいがなければ、衝撃があっても、まぶいは落ちない。
いつもは誰も気づかないまぶいの存在が、衝撃によって顕らかになり、はぎとられ落ちる。
はぎとられる衝撃で、本人は気がつかないだろうが、周囲には鮮明に、はぎとられるのが見えるだろう。
まぶいがはぎとられるのを見るとき、「まぶいなど持つから痛みが生じるのだ」と思うか、「はぎとられるのを覚悟の上で受け止めようとした勇気」を見出すのかは、人によって異なるだろうが、皮肉なことに、はぎとられる瞬間に、まぶいの存在はもっとも鮮明に意識されるだろう。
世界は、まぶいとまぶいを見せるための衝撃で、できているのだ。
その衝撃は、悪意と呼ばれたり、限界や不運と呼ばれたりするけれども、この衝撃がまぶいに光をあてる。
なにかに思いを残したタマシーや、自ら削ったり、解き放ったり、譲り渡したまぶいは、活きて、植物に水を与えるように他の人のまぶいに滋養を与えるだろう。
だが、はぎとられ、砕けて飛び散ったまぶいは、死んで飛び散ったままだ。
だから、人はまぶいを拾いに行くのだろう。
飛び散ったかけらでも、それはまぶいなのだから、そのまぶいに滋養を与え、いつかは、また生きかえらせることができるのだから。
一部分は、はぎとられたが、残ったほうのまぶいが生きかえった時に、そのいつかは訪れるだろう。
だから、はぎとるのではなく、ただ分けられ、静かに置かれたまぶいによって、あなたと私の世界は混じりあう。
自ら削り取ったまぶいも、受け渡されたまぶいも、世界を混ぜ合わせるけれど、ただ静かに置かれたまぶいも、世界を混じりあわせる。
削り取られたまぶいは、かさぶたを引き裂き、世界は鋭く強く局所的に混じりあい、受け渡されたまぶいを受け取った時、人は活きかえるのだろうが、適切な場所におかれたまぶいを見つけた時に、世界は完全に混じりあい、まぶいは形を変えるのだろう。
「私はこの世界にこんなに影響を与えている。そのことを知らなった。世界は私が輝くと輝きをきっちり同じ分量で返してくれる。ときにはすばやく、ときにはゆっくりと、波みたいに、こだまみたいに。こんなちっぽけな私がどういう気持ちでいるか、そんなことが世界を確かに動かすことなのだ。(58)」
「もちろん人間だから、そんな希望はすぐに地面に落ちて、ルーチンの世界は必ずはじまる。現実の退屈がちょっとずつ宝物を侵食していく。この世界はときめきを食べて生きているのだ。だからときめきはいつもすばやく奪われるし、かといってハイでいることはときめきに最も遠い生き方になる。毎秒生みだそうとするしかないのだ。果てしない戦いだがそれだけがトータルで勝てる可能性を見いだすたったひとつの道なのだ。(58-59)」
何もしなくても、まぶいを持っていれば、世界に影響を与える可能性は持っている。
まぶいを顕らかにするだけで、たしかに世界に影響を与えることはできる。
でも、顕らかになっただけのまぶいは、ときめきであり、きらめきである。
きらめきで生きていくためには、輝きつづけなければいけない。
より美しく、より大きく、より貪欲に、そして、その輝きすら、現実によって、輝いた瞬間から消費されていく。
ただ消費されていくのではなく、持続していくためには、まぶいを切り離す必要がある。
逆説的だが、切り離して初めて、そこから生まれていく。
どんな形であれ、まぶいを切り離し、それが世界と混じりあうことにより、まぶいは成長し、輝きつづけることができる。
果てしない戦いに巻き込まれずに、輝きつづけるには、切り離す意志が必要になる。
「なにもないところから、火を起こして、それが燃えさかり、消えていくだろう。そして炭や灰になる。なににおきかえてもみんな同じ過程だ。その全部をなるべくねばれ。先を見たい気持ちでのめるな。ねばって一歩でも遅くためていくんだ。(106)」
まぶいを切り離すことは簡単ではない。
切り離してそのあと置くための形がわかっていたり、切り離す場所がわかっていたり、切り離すための手段を持っていたりする必要がある。
そして何より、切り離すという意思が必要だ。
切り離せずに燃えて、輝いているときは、なるべくしっかりねばり、味わうしかない。
ねばって、ねばって、ねばって、自分を抑え、ためて、ためて、しっかり輝かせるんだ。
それは、必ず、消費され、消え去っていくのだから。
「まだ見ぬロマンティックラブを夢見るより、今日の目の前のコーヒーとか景色が好き。今日起きることが好き。死んだ母の供養をしている毎日が好き。ここを出たとき、新しく始められる人生の準備をして力をためている感じも好き。ここがなくなったら、そのときの自分がなんとかする、その自分を信じられる感じも好き。(112)」
ロマンティックラブを夢見るのと、新しく始められる人生の準備をすることは違うのだろうか?
この文脈でのロマンティックラブは、白馬の王子様のような外からの快楽を得るために、機会を探し、時として、がつがつと生きること。
今ここにあることが好き。
今ここにある自分と混じわっている世界が好き。
世界と混じわることにより、世界が夢想から現実になる。
「ほんとうに来たよ。あたるさんはふつうに言った。そのふつうをなんと表現したらいいのだろう、もうほんとうになににも関心はなく、彼の中にだけ広々とした空間があって、私はいてもいなくてもかまわない、その楽さ。この感じを味わったことはかつて一度もない。(131)」
「だれかの心が自由だということは、他の人をも自由にするんだ、でもそれにはとてつもない無頓着さと強さが必要なのだ、彼を知ってそう思った。(132)」
なんにも関心はないが、関心を持つときには持てる。
関心がないから、関心が持てる。
自由だから、選ぶことができる。
選ぶことができない時、それは自由ではない。
それはやはりなにかに投げ込まれている。
人が自由でいることは難しい。
まぶいが人を人にするけれども、まぶいがまた人を縛るから。
だから、自分と世界に対するとてつもない無頓着さによって、その呪縛から自由になり、それでいてまぶいを持ち続け、まぶいを切り離すための強さが必要なのだ。
「行く手にはみんなまだ知らない、ふしぎな昼と夜とが待っているだろう(154)」
「どっちでもいいいのよ。私、こうして確かにここにいるんだもん。(154)」