彼女からは、多彩な面を、この僅かな時間内に感じた。医者として、常識ある淑女、頑として警察を手こずらす、前科を重ねたような女、実際秀でている部分を隠す才女、そして娼婦のように化粧を気に掛け、ふて腐れて、タバコを吸う、阿婆擦れ女、どれが本当の白峰なのか、犬節のようなベテラン刑事でも、難解な問題だった。

国道から信号を左折し、県道の枝線の市道に入って少し行くと、煙突の立つ工場が立ち並び、そこを通過して運河を渡り、街道沿いにはカーショップやら家具などのショウルームが犇き、ガススタンドを右折した。海の沿線上に高層ビル群が近づいてきた。神奈川県のK市A署の裏手の職員駐車場に六時過ぎに着いた。まだ、辺りは薄暮の状態で、署の駐車にダークグレーの背広を着た、オールバック髪の長身の男が佇んでいた。香西警部である。県警から、山本たちと分散して、ここに集合した。察まわりの新聞記者たちの姿はない。まさか、ここで誘拐事件が発生していようとは捜査本部を県警の会議室に置いているから、いまだ感づかせていない。

犬節は、古川署長に、いま到着したことを携帯で知らせて、白峰に手錠を填め、腰縄を引き、ワゴン車から降りた。白峰は、軽く香西に会釈した。香西は、白峰の凛とした目と合って、二人は眩しそうに視線を逸らした。署庁の一階は、静かだった。白峰が完全自供すれば、いままで非公開捜査だったのを、マスコミに発表をしなければならないだろう。そのとき、人質の命の確保の最優先は、解ってもらえても、警察の不手際を詰られる。神奈川県警の幹部は、気が重い状態で、警察の信用回復の機会を睨んでいた。そこに、犯人が観念して、自首してきたのだから、汚名は一応免れるだろうと、一安堵した。

若菜は、ブラッシングルームに入り、洗面台で手と腕を洗った。左腕には、傷テープが貼ってある。歯形だから、それも犬ではなく人間の歯形と分かるものだから、うかつに人に見せられない。滅菌タオルでふき取り、滅菌ガウンの術衣を着た。キヤップと手袋を装置し、エアーシャワーを通って、若菜は手術室に入った。

「おはようございます、山口さん。顔色いいですね。学君といま握手してきましたよ。お父さんを任すよって、あれは大物の器だね」

「ありがとう、あいつのために、頑張ります。先生頼みます」 

「こちらこそ、お願いします」

 若菜は、患者の不安や緊張をとぎほぐすように、声を掛けた。原ナースが若菜の後ろに回り、マスクを結んだ。

 今日の手術のスタッフは、執刀者と助手一名、看護婦二名、麻酔医一名である。患者の頭部側に設置された、血圧や心電図そして、パルスオキシンメーターのモニターを藤岡ナースは、点検していた。藤岡は、年令38歳の手術専属のナースーチーフである。一方、麻酔の準備が、麻酔科医の石原と原看護婦によって進められていた。石原から指示を受けた薬を原は、注射器に投入していた。原は、この秋、飲食業を営む男と結婚する。多分、寿退社になると、マー坊から若菜は、聞いたことがある。

「導入してくれ」と、石原が、告げた。

 原は、山口患者の左上腕部をアルコールで拭き、静脈路に注射の針を浅く刺した。スタッフの間の動きが、化石のようになった。緊張の一瞬だ。

「筋弛緩薬とバルドーを導入しました」




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「どうです、夕べのご馳走はどうでしたか」

「おいしかったよ、楽しかったよ、でも痛かった」

その返信に、なぜ痛かったのですか、と早打ちしたのか、メールがリタンしてきた。

友子の通学仲間が、電車に乗ってきた。みんな携帯をいじくっている。回りの乗車客の視線が、破廉恥な中年男、と突き刺さるように、きつい。若菜は、適当に笑顔で会釈して、携帯を折り畳んで鞄に仕舞った。

「姉たちは、陰謀を企てているわよ、気をつけてね」と、友子は忠告して次の駅で降りていった。陰謀って何だ、若菜は考えをめぐらした。もしかして二人に強姦されるのかしら、と妄想していた。

 手術室の受付で、病棟のナースから、手術専ナースが、必要な申し送りを受ける、カルテや、薬品、X線のフイルムなど引継が行われた。手術室専用のストレッチャーに患者を移し、手術室に入っていく。

室は、中から外に向かって、空気が流れていた。 摂氏二十四度、湿度五十%にほぼ保たれている。天井には、無影灯が広がっている。影をつくらず、熱を出さない照明灯だ。

 若菜は、手術の日は、軽食にしていた。食堂で、熱いコーヒーにモーニングのセットで、済ませた。

「今から、会議です、緊張しますが、がんばります。昼には、また連絡できるでしょう」と、若菜は、メールを送り、晴れ渡った遠景に目を向けた。里山は、濃い紫に浮かび上がり、馬の背のような濃紺の山脈の一部は、厚い雲が掛かっていた。院庭のプロムナードの立木の梢は、この一週間、冷烈な北風に曝され、病葉が縁石に吹き溜まっている。今朝は初冬の柔らかい陽光が裸木の並木を包んでいる。

「がんばって、下さい。私も、いまから、子供を幼稚園まで送っていきます。またお昼に」 毎回手術前は、緊張が襲う。誰かに、怖いと告げたい。ささいなことだが、顔の見えない相手だが、メールのやりとりだけでも、若菜にほほえみが生まれた。

 医局に携帯電話を置き、手術室に向かった。婦長が、南病棟から戻ってきて、鉢合わせをする。鶏冠から声をだす、鶏のような独身女で、若菜は、苦手な相手だ。

「あらまあ、そのおでこの傷、どうなされたのですか?」

 酒飲んで、転んだと言えば、これまた不謹慎になる。

「にきびが、つぶれたんですよ」

「あら、お若い、適当にお遊びください。カラオケならおつきあいしますよ」

 美空ひばりが十八番だと、マー坊から情報が届いている。歌うときは、度のきつい眼鏡を外すそうだ。それで、アイシャドーの濃いウインクが、炸裂する。悪酔いしそうだ。

「また、ご教授願います」

「いまから、山口さんの手術ですか、ご苦労様です」 

若菜は、ブラッシングルームに入り、洗面台で手と腕を洗った。左腕には、傷テープが貼ってある。歯形だから、それも犬ではなく人間の歯形と分かるものだから、うかつに人に見せられない。滅菌タオルでふき取り、滅菌ガウンの術衣を着た。キヤップと手袋を装置し、エアーシャワーを通って、若菜は手術室に入った。