父像~ふぞう~ -2ページ目

父像~ふぞう~

著者 立華夢取(たちばな・むしゅ)

 和貴と二人で、公園までの道のりを歩いた。

手を繋ぐことには抵抗があったが、目の前に続く歩道がバージンロードのように、父と息子の軽い足取りを祝福した。

 閑静な住宅地の中にある公園は、近代的な辺りの風景とはまるで正反対だ。

住宅地のほぼ真ん中に位置しているものの、何故かその公園だけがタイムスリップでもしているかのように寂れていた。

 同じ地域にある幾つかの公園の中で、人気のないその公園を選んだのは、子供の開校記念日で公園に出てくる他の親子に遭遇しないためだった。

 

 下手な劣等感を抱きたくなかったのだ。


 思いもよらぬ形で出来たこの時間を、丁寧に、丁寧に扱い何かを掴むことが出来れば、俺の中にあるDVサイクルの優しい時間に留まっていられるかもしれない。


 真貴子と冷静に話をするためにも、この時間は重要だったのだ。


「パパ、何でこっちの公園なの?遊ぶもの、すべり台しかないよ・・・?」


「んっ、まあ・・・、いいじゃないか。ちょっと待ってろよ。」


 少し不満そうな和貴ではあったが、何故かいつもの緊張感が沸いてこなかった。

小学校2年生でも、公園の遊具で遊びたがるのだということを学んだ。


「ほらっ、これ、飛ばしてみろよ。」


 俺は真貴子が読んでいた広告で、紙飛行機を作った。


「すっご~~いっ!パパっ、これ、すっごいよく飛ぶよぉ~!」

「そうだろぉ。パパ、紙飛行機作るの上手いんだぞ。」


 狛江市のマンションに引っ越した後の数ヶ月間、和貴と二人で遊んだ時と同じ公園で、カラフルな色の紙飛行機は、和貴の手から何度も離陸を繰り返していた。


 真貴子に話し始めたのは、結局は和貴と真理が眠った後になってしまった。

どうしても今話さないと、和貴と過ごした時間を無駄にしそうな気がしたのだ。

 

 残してあった食器を洗っている真貴子に声を掛けた。


「なあ、真貴子。」




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 せっかくの開校記念日だというのに、いつものように何もしてやれない自分への焦りもあった。

 俺の思わぬ言葉に、眺めていた新聞の折り込み広告の向こうから、真貴子の顔が出てきた。


「どうしたの?最近。やけに優しいじゃない。あぁ~、何かやましい事でもあるんじゃないのぉ~!?」


 真貴子は、俺をからかうような目をして笑っている。


 何というストレートな奴だ・・・。


 もっと変化球を使えないのか・・・。


真貴子の言うような、やましい事など何もないし、コソコソと、あんなアンダーラインを引いていた真貴子の方がやましいじゃないか・・・。

 



 いつものように反論を考えてしまったが、不思議と苛立ちが起こらなかった。

和貴を誘ったことが、自分への自信に繋がったのかもしれない。


「やましい事なんかないよ。素直に和貴と遊ぼうと思っただけだよ。」


 本当は悟られまいと吐いた言葉だったが、せっかく吐いたその言葉を大切に扱おうと思い、「素直」という言葉を付け足した。


「真理も連れて行く?」


 真貴子自身は、一緒について来る気はないようだ。

俺の言葉を大切に扱いたいのは、真貴子も同じなのだろう。

父と子だけの時間を作ろうとしているのだ。


「いやっ。外は寒いし、真理はいいよ。」


「そうっ、わかった。和くんに、ちゃんと上着を着せてあげてね。」


 真理も連れて行きたい気持ちはあったのだが、和貴と二人だけの時間を優先すべきだと思った。


 外は師走の冷たい風が吹いている。


「それっ、その広告。1枚いいか?」


「うんっ、もう読んだからいいよ。」



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「少し仕事も落ち着いてきたし、明日は久しぶりに休めるよ。」


 明日は火曜日。

営業所の定休日だ。

仕事が落ち着いたのではなく、俺の心が少し落ち着いたというのが本当のところだ。

 

 和貴が寝る時間を見計らって営業所を出た。

玄関のドアを開けるなり、真貴子に一声を発した。

一つ何かを思い立つと、頭の中がそればかりになってしまう、俺の悪い癖だ。


 万一、自分が苛立っては不味いと思っていた俺は、和貴が小学校に行っているうちに真貴子に話すつもりでいた。


「そうっ、ちょうど良かったわよ。明日は和くんも開校記念日でお休みなの。久しぶりにみんなで何処か行く?」


「えっ、休みなの・・・?明日・・・・?何処かって・・・、何処へ?」


 息子の小学校の開校記念日など、知っている訳がなかった。


 やはり、この程度の父親なのだ・・・。

本来ならば、自分の休みと子供の休みが重なれば、喜ぶべき話ではないのか・・・。そのな気持ちが複雑に絡み合い、いきなり出鼻を挫かれた気分だった。


「まあ、無理しなくてもいいけどね・・・。あなたも疲れてるでしょ?久しぶりの休みだもんね。」


 俺の心理状態をわかった上で、何かを教え諭すような、真貴子特有の口調だ。


「あっ、あぁ・・・、そっ、そうだよな。」


 結局、真貴子の提案には応えることなく、その日は布団に入った。

翌朝、開校記念日で休みだという和貴は、俺が目を覚ました時にはリビングにいた。


「朝ごはん、どうする?食べる?」


「あぁ、いいやっ・・・。いっ、いやっ、食べるよ。食べる。」


「どっちなのよ?」


「食べる。食べるよ。お願いします。」


 寝起きとはいえ、真貴子にあの書類の事をどう切り出すか、頭の中がいっぱいで食欲がない。

いつも休日の朝は、俺に確認することなく朝食を用意する真貴子だが、今日に限って聞いてくるのは何故だろう・・・。

特に意味がないとわかっていても、真貴子の気持ちの裏側を探ってしまう。

父と同じになることが嫌で、朝食を摂ることにした。


「私たちは、もう食べちゃったから。和くんはねぇ、今日は遊べるお友達がいないらしいわよ。」


「えっ、そうっ、わかった。」


 なんだよ・・・。


 休みの日って、こんな会話してたっけ・・・。


 なんの事ない、ごく普通の会話でも、真貴子の一言一言に敏感になっているようだ。

この様子だと、和貴は絵でも描きながら一日中家に居るだろう。


 どう切り出そうか・・・。


 出来れば夜は避けたいと思っていた。

全社トップの座を、後輩に明け渡した俺は、夜になれば翌日の仕事のことを考え始めてしまうだろう。
気持ちの入らない会話をすることを、真貴子は普段から嫌がっているのだ。

ましてや、今回は俺からの話し。

言ってみれば、これからの自分への挑戦なのだ。


 優しいままの自分で話をしたい・・・。


 軽度な苛立ちを表に出し始め、怒りをコントロール出来なくなると暴れだし、そして手のひらを返したように優しくなるというDVのサイクルの中に俺がいるならば、優しくなっている時間の中に自分を長く置いておきたい。

どれかを選ぶしかないのなら、優しい自分が良いに決まっているのだ。

 

 朝食が遅い時間だったこともあり、気がつけば午後2時を回っていた。

1歳7ヶ月になった真理とも、久しぶりに遊んだ。

和貴は思った通り、テレビを横目に絵を描き、家から出る様子はない。

 時間が気になりだしていたが、和貴の前で話す訳にはいかない。

「俺って、DV加害者なのだろうか?」

そんなことは、口が裂けても息子の前では言えないのだ。


 そわそわしている自分を悟られまいとする気持ちが、俺自身に思わぬ言葉を吐かせた。


「和貴。公園にでも行こうか?」


「うんっ、行くっ!」




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「なあ、片岡。・・・お前、DVって知ってる?」


 俺は不安な思いに駆られると、片岡にダイレクトな質問を投げかけることが多い。

キッズむらおかの一件の時もそうだった。

少々横柄な性格の片岡は、俺の質問に深入りしてくることはない。

こちらの期待するような返答がくる可能性は、ほぼゼロに等しいが、ユーモアを交えて話す片岡との会話が、気持ちを楽にしてくれることは多い。


「おうっ、知ってるよ。ドンとこい・バケーションだろっ。」


「そうじゃないよ・・・。」


「じゃあ、ドウする・バケーション?・・・っか?」


「だからぁ、バケーションじゃないって・・・。」


「うぅ~ん・・・、ドンマイ・バケーション!」


「・・・・。」


 ちょっとユーモアを交えすぎだ。


「わかってるよ。悪りぃ、悪りぃ。ドメスティック・バイオレンスだよな?」


「そうそうっ。そうだよっ、知ってるのか?」


 まるで片岡マジックにでもかかったのか、既にこの時点で気持ちが楽になっている。


 俺は深く考えすぎなのだろうか・・・。


「詳しくは知らねぇけど、セクシャル・ハラスメント!?お前、知ってる?」


「そりゃ知ってるよ。でも、どこまでがセクハラになるとか、あれは境目が難しいよな。特に男は・・・。」


 片岡の質問に、俺が応えてどうするのだ・・・。

最初に質問したのは俺だというのに・・・。


「だろっ、DVだって多分、それと同じだよ。あんなの一々気にしてたら、日本中の男は殆どだろっ。」


 父の脅威に苦しめられ、今となってはDVの被害事例を散々調べていた俺にとって、片岡の言葉を正論として受け止めることは出来なかった。

仮に、日本中の男性の殆どがDVだとしても、それを容認していいのだろうか。

周りがそうならば、自分もそうでいいのか。

片岡に反論したい気持ちが芽生えていた。

ただ、いつものようにユーモアを交えた会話が、張り詰めていた気持ちを楽にさせたのも事実だった。


 次の休みには、真貴子に話してみよう。


 真貴子と会っている時間が少なくなってるとはいえ、突如として優しくなった俺の行動も、DVのサイクルとして見ているかもしれない。

俺が居ないマンションのリビングで、あの上目遣いで何かを考えているのかもしれない。

この書類が存在した意味を、真貴子に聞いてみようと思った。


 ここ2ヶ月の間、自分の事ばかりに気をとられ、また和貴を蔑ろにしているのではないか。

真理をあやすことが出来ない今の状態にも、限界を感じているのだ。


 この書類を発見した時に込み上げた、今までに経験したことがない強烈な怒りは、2ケ月と3日間を要して、ようやく静まったのだった。




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 ある時、父の姉である伯母が、俺の前で口を滑らせ慌てたことがあった。


 母は、俺と弟の間に、もう一人の子供を宿したと言うのだ。

俺自身が出産をすることのない男であったこと。

性行為の経験がない子供であったが故、その時の記憶は薄く、伯母が口を滑らせた内容も定かではないが、記述を読んで改めて計算した俺は、背筋がゾッとする感覚を覚えた。


 弟は俺より2歳年下で、誕生日は俺が6月、弟が4月だ。

帝王切開で俺を産んだ母は、普通分娩とは異なり、術後の性行為を一定期間控えなければならなかった筈だ。

 弟を出産する為には、10ヶ月と10日を妊婦として過ごさなければならない。

俺を出産してから弟をお腹に宿すまで、母のお腹が空いている期間は10ヶ月しかないのだ。


 この世を見ることがなかった弟妹がいたという伯母の話は、明らかに父の異常な性行為の強要を証明し得る事実だった。


 何ということだろう・・・。


 真貴子が言う通り、俺が父と同じならば・・・、俺もそうなのだろうか。


 帰宅を遅くしていることで、真貴子とは、ここ2ヶ月は何もない。

普段だって月一か、月二がいいところだ。

異常な体位を強要した覚えもないし、避妊をしているからこそ和貴と真理は7つの歳の差があるのだ。

 

 もしかすると、異常だと思っていないのは俺だけで、真貴子は何らかの苦痛を感じているのだろうか・・・。

 

 そんな事はない筈だ。

真貴子との関係は、至って正常な筈。


 DVに関する多くの記述は、殆どが、ある項目ごとに大きく分けられていた。


 身体的な暴力、経済的な暴力、言葉による暴力、心理的な暴力、そして性的な暴力だ。

その度合いこそ、まちまちではあるが、各項目とも俺にあてはまる何らかの事例が記載されていた。

その中で、全く身に覚えがない項目、それが性的な暴力だった。

身体的な暴力も、そう思いたいところではあったが、和貴に与えてしまった過剰な体罰を無視することは出来ない。


 真貴子がこの書類にアンダーラインを引いたのは、俺の日々の言動や行動に心当たりがあるからだろう。

俺をDV加害者だと思っているならば、この性的な暴力だけは何としても行ってはならない。


 俺がDV加害者か否か・・・。


 この項目が、俺にとっての岐路となるのかもしれない。

薄暗い営業所で、来る日も来る日も時間の経過を待つ状態も、そろそろ限界が近づいて来るだろう。




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 DVは犯罪にまで及んでしまうケースもあるが、その度合いはまちまちで、範囲を限定することが難しいらしい。

 多くの場合は、被害を受ける側の女性が、自分自身の経済的な弱さなどを理由にDVを放置してしまうため、表に出てくるケースが少ない。

夫や彼氏がDV加害者でも、いつか治るのではないかという思い込みや、暴力や暴言は一時的なもので、本当は優しい人だとする願いが背景にあり、それを続けさせてしまうという事だった。


”本当は気が小さくて弱い人”という母の身勝手な定義は、この記述にあてはまる。


 もし俺がDV加害者だとしたら、母とは違う真貴子は俺を放置しないだろう。

この記述の通りにはならない筈だ。


 全てを失う現実が、俺を待っているのだ


 記述は他にもあった。

DVには一定のサイクルが現れるケースが多く、怒りをコントロール出来なくなると暴れたり、過度の暴言を吐く。

そして、突然異常なまでの優しい一面をみせることがあり、やがて緊張感を漂わせる軽度の苛立ちをみせ始めると、また怒りをコントロール出来なくなるといったサイクルがあるようなのだ。

 結婚した当時、真貴子の前で破壊行為を行ってしまった俺は、それ以来暴れたことはないが、一定のサイクルが現れるという記述には頷けるものがあった。

 

 実際の例をみると、過度なものとして身体への直接的な暴力の記述が多く、その内容に限っては、俺にあてはまるものは少なかった。

相手の身体に与える直接的暴力は、父も行っていない。

 ただこれは、あくまで記述上の問題だ。

直接的暴力ではなくても、自分の母親や妻に刃物を突きつける行為に比べれば、平手打ち程度の暴力の方がまだマシだ。

 俺は和貴が見積書に落書きをした時に、自制が出来ない自分を経験していた。

DVは徐々にエスカレートしていくという記述もある。


 俺は破壊行為をしない代わりに、父にはなかった直接的暴力を行ってしまうのだろうか・・・。


 もう一つ、俺にはない・・・、と思われる記述を読んだ。

それは、性的な暴力だ。


 妻が望まない性行為の強要や、性行為における特殊な体位の強要。

そして、避妊をしないといった行為がそれにあたるという内容だった。


 当然、父にそのような行為があったのか、直接確認することは出来ない。

ただ、この記述を読んで、気になることを思い出したのだ。




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 弟は、高校卒業と同時に、関西で一人暮らしを始めていた。

幼い頃、父の表情に注意を払い、行動に警戒したことに、俺との違いはない。

ただ、父の脅威によって抑えつけられた心の反動は、俺とは違う方向に現れたようだ。


 弟は非行に走った。


 高校生の時には、先生の目を盗み喫煙をした。

原付バイクの無免許運転をして、警察に補導されたこともあった。

万引きもした。


 当然、父には知られることがないよう、全てを母が取り繕ったのだが、これらは脅威だった父から身を隠す術を身につけたが故の、弟の行動だったのだ。

目立たず、隠れずに幼い頃を過ごしていた俺と違い、弟は父の表情の変化をいち早く察知すると、二階の部屋に身を隠した。

 次男の特権とも言うべきか、何かと話のネタにされた長男の陰に隠れ、父の脅威をかわした。

 目を盗むという行為を、知らず知らずのうちに覚えていったのだろう。

抑えつけられた心の反動だけが残り、先生の目を盗み、警察の取り締まりを上手くかわしては盗んだバイクを乗り回し、非行を繰り返していたのだ。


 父の前では最強の盾として使われるその能力は、社会人となった今でも発揮されるだろう。

関西という遠方から、時と場合を上手く捉え、父や母との交流をしていくに違いないのだ。

 

 そんな弟は、今も独身のままでいる。

 非行に走っていたものの、人を直接的に傷つけることはなかったようだ。

弟の中にある何らかの思いが、それを抑制していたのだろうが、やはり脅威だった父の影響ではないかと思っている。

 父と同じように自制を失いかねない自分自身に、気づいていたのかもしれない。

社会人になった弟とは、深い話をしたことはないが、独身のままでいることも弟なりの考えがあるのだろう。

 子を持たないと言った野口氏以上に、妻を持たないという思いがあるのではないだろうか。

 いずれは弟とも、じっくり話をする必要があると思っているが、今は気持ちに余裕がない。


 父や母のことを、冷静に話し合う自信がないのだ・・・。


 優しくならなければいけない・・・。


 不自然な苛立ちが、全てをさらっていくかもしれない・・・。


 この書類を発見して以来、俺は真貴子の前では大人しくなっていた。

もっとも、真貴子と会っている時間は、この2ヶ月、限りなく短いものだった。

 苛立ちという奴は不思議なもので、ぶつける相手がいないと、めっきり姿を見せなくなる。

遅い時間に帰宅して、翌朝早くに家を出る。

そんな生活を繰り返していると、不自然な苛立ちは、俺の元から去って行ったのではないかと思わせるくらい静かだった。


 俺は営業所が休みの日も、廻る客先があると言っては外に出ていた。

有り余る時間を利用し、会社のパソコンでドメスティック・バイオレンス(=DV)という言葉を検索してみた。




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「桐生。お前、最近、遅くまで頑張ってるみたいだなぁ。まあ、そう焦るなって。」


「まあな、焦ってるのは確かかもしれないよ。最近、どうも調子が出なくてな・・・。」


「モウマンタイ、モウマンタイ。やる時にはやる!やらねぇ時には、何もしねぇのが一番だぜっ。やるなら、ここじゃなくて、早く帰って嫁さんとやれっ。」


 深夜の営業所で、片岡が俺の肩を叩く。

今日もまた、俺は最後まで営業所に残っている。

 

 幼稚園からの”お知らせ”に紛れたこの書類を発見してから、2ヶ月が経っていた。

こんな時に限って、夜遅くの商談がないのだ。

今まで、あれだけ忙しかったのが嘘のようにやる事がないのは、その日に処理すべき書類を、全て仕上げてしまうだけの時間があるからだろう。


・・・そう思うようにしていた。


 先月末、定期的に車を買い替えてくれていた法人格の会社が2件、ほぼ同時に倒産したのだ。

片岡に同行してもらっていた頃に、訳もわからないまま飛び込んだ豪邸が、たまたまその会社の社長宅だった。


「今どき、こんな古臭い営業をする君なら、任せてもいいかなと思ってな。」


 当時、その社長はそう言って、俺に連絡をよこしてきた。

個人宅を廻る薬品関係の会社らしいのだが、社長が紹介してくれた関連会社を含めると、50台以上の営業車の買い替えが、全て俺に任されていたのだ。

インターネット時代に乗り遅れたことで、社長の会社は倒産に追い込まれた。

紹介してくれた関連会社も、共倒れといったとこだろう。


 何故、こうも上手く回らないものだろうか・・・。


 早く帰宅しようと思えば忙しくなり、煩いほどに鳴っていた携帯電話も、時間がたっぷりある時に限って大人しくなっている。

 大口法人客の相次ぐ倒産によって、俺は先月から中古車販売部門全社トップの座を失っていた。


 考えてみれば、俺が失うものは父以上かもしれない・・・。

母とは違う真貴子は、俺を選ぶだろうか・・・。

父と同じように破壊行為を繰り返し、子供との関りを強く拒み、真貴子に刃物を突きつけても、離婚ではなく俺を選ぶのだろうか。


 答えは自ずとわかっている。


 取り繕うことなく父に抵抗した真貴子は、間違えなく俺を選ぶことはないだろう。


俺は、父と同じDV加害者・・・。


 このままでは、全てを失うのだ。


 母によって選ばれた父には、もう一人の家族だっている。

次男である俺の弟だ。

弟は父や母との距離を、上手く保ってやっていくに違いないだろう。




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 父・昌洋、母・志津子との別離によって、俺の前に立ちはだかっていた脅威は、今はもうない筈。

何も心配する事などない筈だった。


恐れることはない・・・。


 自分に言い聞かせながら踏ん張る俺を、強力に引き寄せ、磁気機雷を浴びせようとしている。


俺は、和貴の父親だ・・・。


 俺に微笑んでくれた和貴の父親であり、これからは二人の子を持つ父親になるんだ。


父・昌洋のようにはならない・・・。

 

 強く想えば想うほど、ぎこちなく、不器用になっていったのかもしれない。

俺はいつのまにか、俺自身の気持ちに注意を払い、俺自身の行動に警戒する日々を過ごすようになった。

 狛江市のマンションに越してきてから数ヶ月間、良き父親になったつもりでいたのかもしれない。

錯覚だったのだ・・・。

 気がつけば、会社が差し出した、栄誉という文字の刺繍が施された椅子に座っていた。

夢想の中で掴んだ、皮肉な栄誉の椅子にだ。

 真理が産まれ、和貴は小学生になり、俺は息子である和貴との距離を広げていった。

冷夏だったあの夏、和貴の描いた絵が、それを何より物語っている。

 娘である真理にだけ沸き起こる、愛おしい気持ちの陰に隠れ、何をしてあげればいいのか・・・、全くわからなくなっていた。

和貴と、どう接していけばいいのか・・・、何も思いつかない。

 無意識のうちに、和貴に接れることを恐れていた。

 分厚い壁で断ち切った桐生家の当たり前の環境は、父親として存在する術を俺に与えていなかった。

思い通りにならない苛立ちを、妻にぶつける日々。

理不尽な論説を吐き、真貴子の外出を拒む俺は、あいつと同じだ。

大切な答えが消されてしまった教科書しか与えられなかった。


俺が見てきた父親は、ただ一人・・・、桐生昌洋だけなのだ。


 仕事に明け暮れ、破壊行為を繰り返し、何より息子との関りの全てを拒絶した父。

それが俺の中にある、たった一つの父親像。

DV加害者の父親像だったのだ。




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 息子として父を見続けた日々は、父として息子を見続ける日々に変わっていった。

和貴も真貴子に買ってもらった新しいクレヨンで、再び絵を描くようになった。

そして、俺にはまた、忙しい日々が訪れていた。

 あの日以来、遅れがちだった仕事の流れを、取り戻さなければならなかったのだ。

各地を転々としながらも、会社へは出勤していた俺の販売台数は、減ることはなかった。

 調布市にあった営業所へは、以前のアパートに住んでいた時に比べると、通勤時間は短縮された。

少々忙しいときでも、ある程度の時間には帰宅することが出来る。

会社へ泊り込む必要もなくなっていた。


 俺、真貴子、そして新しい幼稚園に通い始めた和貴。

家族3人、あの日の出来事への想いを、それぞれの胸に秘めながらの日々の暮らし。

 少しずつ笑顔を取り戻していった和貴の様子とは裏腹に、忙しくなる日々の仕事に飲み込まれていった俺は、自分の中にある潜在的な心の影を再び甦らせようとしていた。

 自分を抑えることで精一杯の日々、息子とどう接していけば良いのかがわからなくなってくる。

そんな俺を、真貴子はいつも励ました。

そして、時折、厳しい言葉を投げ掛けては正しい方向へと導こうとしてくれていた。

不自然に沸き起こる苛立ちに、一緒になって向き合ってくれたのだ。

 

 家族で始めて動物園に行った日から暫くして、出勤の仕度をしている俺に、真貴子が唐突に切り出した。


「私ね、色々な事があって、落ち着いて考えることが出来なかったんだけどね。・・・やっぱり思ったのよ。」


「んっ、何を?」


「和貴にね、弟妹がいた方がいいと思うの。」


「えっ?えぇ・・・?」


 頭の中は既に、その日の商談のことに切り替わっていた俺は、真貴子の言葉に驚き、聞き返すような返答をしてしまった。


「子供よ。二人目の・・・。和貴にとってもその方がいいっ。私・・・、自分たちの家族をつくりたいの。」


 真貴子の脳裏には、父・昌洋、そして母・志津子の顔が浮かんでいたのだろう。

あの日を知らない新しい家族をもつことで、前向きに生きて行きたいという想いがあったのだ。


 それから数ヶ月が過ぎ、新たな命が3人の家族の元に降り立っていた。

真貴子のお腹が徐々に大きくなるに連れ、和貴も兄となるその日を心待ちするようになった。


「和くん、お兄ちゃんになるんだよぉ~。」


 行く先々で、そう言っては喜んでいる様子を、真貴子も嬉しそうに俺に伝えてきた。


 そんな折、桐生家の当たり前の環境から離脱し、過去との間に分厚い壁を築いた筈の俺は、壁の向こうにある強力な磁気に引き寄せられそうになる自分を感じることがあった。

真貴子のお腹に宿った新しい命が、和貴の時と同じように不安を抱かせていたのだろうか・・・。




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