木曾義仲を巡る旅! 遂に岐阜、滋賀、石川、富山へ! 金沢 尾山神社 編 | ふじを日記

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生きがいは旅行。海外、国内を問わず。初めて見る景色、
初めて食べる美味しいものが大好き。

木曽義仲を巡る旅をしていますが、一旦お休みして金沢を

楽しんでいます音譜

 

何度か訪れている金沢ですが、ずっと気になっていた

尾山神社に初お参りですキラキラ

 

 

 

 

 

なぜずっと気になっていたかというと、門のこのデザインですキラキラ

”いわゆる神社”とは一線を画すオリエンタルデザインでびっくりですビックリマーク

 

建てられたのが明治6年(1873年)というのも理由のひとつ

なのでしょうか。

 

骨組みは日本建築の技法を使った木造で、外側は加賀藩を象徴する

戸室石が使われています。1番上には4色のギアマン(!)が

はめられていて、より一層オリエンタルな雰囲気に音譜 なんというか、

長崎とかの古い和洋折衷か建築の雰囲気がありますキラキラ

 

 

 

 

 

 

軒下の木像部分は奥行きのある透かし彫りがものすごく

見事でしたキラキラ 色がない事で、逆に技術のすごさが際立って

いると感じますびっくりビックリマーク

 

 

 

 

現在は大手を振って「前田利家を祀っている神社」と

明言出来ていますが、かつてはそうでなかったようで・・・。

 

慶長4年(1599年)利家が死去します。二代目の利長は

利家を祀ろうとしましたが当時、前田家は外様大名の立場。

徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできませんでした。

 

そこで利長は守護神としていた物部八幡宮と榊葉神明宮を移す名目で、

卯辰山麓に社殿を建立し利家の神霊を合わせて祀ることに!

それが卯辰八幡宮です。もちろん藩あげて厚く祭儀を行いましたニヤニヤ音譜

表向きは移築だもんね~ニヤニヤ音譜

 

そして、時代は巡り大政奉還。明治へ。徳川幕府に遠慮が

要らなくなったので明治6年、加賀藩主別邸 金谷御殿の跡地に

遂に!大手を振って!前田利家を祀った神社建立となったそうです。

長かったですね~滝汗あせる

 

 

 

 

 

かつてここは加賀藩別邸 金谷御殿だったそうですが、

こちらの庭は加賀藩 前田家として築いた最後の庭だ

そうです。楽器や舞の時のかぶり物をかたどった3つの

島があって、それらを様々な趣向を凝らした橋で繋いで

あります。とても斬新な造りなんだそうです。

 

 

 

 

 

 

前田利家の立派な銅像がありましたキラキラ

 

背中に大きな風船のようなものを背負っています。

これは母衣(ほろ)といって、騎馬戦の際に後ろからの

攻撃を防御する竹などの骨組みに布をかけた装備だそうです。

 

一方で、敵味方に自分の存在を示すアイコンの役割であり

一部の大将側近だけが着用を許される名誉の装飾具だったんですってキラキラ

 

織田信長には赤母衣衆、黒母衣衆というそれぞれ選りすぐりの

10人で構成された総大将直轄エリート部隊がありました。

前田利家はその赤母衣衆の筆頭だったそうですキラキラ

 

 

利家は幼い頃から信長に寵愛された小姓さんでしたから、容姿は端麗キラキラ 

青年期には当時の男性の平均身長が157cm程の時代に6尺(約182cm)を

誇る恵まれた体格だった事が、遺された着物から推定されているそうですびっくりビックリマーク

 

三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの赤い槍の名手であり、

”槍の又左衞門(若い頃の利家のこと)”の異名があったそうですキラキラ

 

・・・容姿端麗で、ずば抜けた高身長から繰り出す6メートル越えの槍で

大活躍の赤母衣衆筆頭キラキラ ヤバいっすね・・・ニヤニヤラブラブ

 

 

ところで、見た目がイケてるだけでなく?見た目がイケてるのに?

豪傑なエピソードが面白いのですポーンビックリマーク

 

永禄2年(1559年)、利家は信長の寵愛を受けていた同朋衆(信長直轄の

芸能集団)の拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔してしまい、

死罪は避けられないところを、柴田勝家らが信長へ取り成してくれ、

なんとか出仕停止処分に減罰されましたが、浪人暮らしに滝汗あせる

 

しかし!利家、桶狭間の戦いに勝手に参戦滝汗あせる しかも、首3つ挙げるポーンビックリマーク

武功を立てるも、信長には許してもらえませんでしたショボーンあせる

 

めげない利家は、翌年の森部の戦いにも勝手に参戦! 

「頸取足立」の異名を持つ豪傑を討ち取り、合計2つの首を挙げ、遂に

信長に許されますキラキラ


 

さて。最近、有名武将と我らが群馬との関わりにロマンを感じてしまうのですが、

なんと、前田利家にも群馬エピソードがニヤリキラキラ

 

天正18年(1590年)北条氏制圧のための小田原征伐では北国勢の総指揮として

上杉景勝、真田昌幸と共に上野国に入り、北条氏の北端要所の松井田城を攻略。

 

慶長3年(1598年)、秀吉も利家も健康に衰えを見せ始めます。そんな中、

利家が草津に訪れたのは3月下旬。よっぽど気に入ったのか、一旦伏見に戻り、

4月20日に家督を利長に譲り、今度は一族を引き連れて曲師や楽師なども

連れて再度草津温泉へキラキラ そんな急に家督をゆずってまでニヤニヤ音譜

 

 

 

 

利家の正妻まつの石碑もありました。

 

利家といえば、まつ。2002年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」ですねキラキラ

って、観てないんですけどね滝汗あせる 歴史にロマンを感じるようになったの、

まだここ2、3年でしてガーン

 

尾山神社では平成10年(1998年)におまつの方も合わせて祀られたそうです。

調べてみたら、その年に大河ドラマ誘致推進委員会が発足してるんですね滝汗あせる

 

堂々としていて、交渉事がうまく、実子、庶子の分け隔てなく、御家の為に

生涯尽くした女性だったようですねぇニヤリキラキラ エピソードが色々あるようです。

 

 

父が亡くなり母が再婚すると、まつは母方の叔母の嫁ぎ先である前田利昌に

養育されることになりました。そして11歳の時に、利昌の子の利家と結婚。

つまり、一緒に育った従兄弟と結婚したんですね~。

 

その後、生涯で2男9女を産みます。女性1人が産む子供の数が多かった

戦国時代とはいえ、11人の実子がいる女性は稀で、記録が残る限りでは、

伊達晴宗の正室久保姫と並んで最も数が多いそうです。

 

天正11年(1583年)、親爺様と慕った柴田勝家と、家族ぐるみで近所

付き合いが長い羽柴秀吉。利家にとってどちらも大切な二人が、よりによって

激突した賊ヶ岳の戦い滝汗あせる さすがに柴田勝家に付いた利家が結果敗走した際、

まつは越前府中城で羽柴秀吉に会って和議交渉をして利家の危機を救ったと

伝わっているそうですポーンビックリマーク

 

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が晩年に開いた女性だけ1500人も招いた

醍醐の花見で1番目に北政所、2番目に淀殿、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、

5番目に加賀殿、その後に客人であるまつが続きました。

宴の席では、秀吉から正室である北政所がまず杯を受けますが、次に受ける順を

淀殿と松の丸殿が争いモメたのです滝汗あせる そこを、まつが「年齢の順で言えば

私が先。」と申し出て、暗に「家臣筋だけど、この席では私は客人。客人を放って

身内で順番争いはダメじゃない?」とその場をうまく収めた話が伝わっているのです。

 

 

慶長5年(1600年)、利家の死後、前田家に徳川家康から謀反の疑いを

かけられた際には、戦を決意する利長をなだめ、自ら人質になることで

戦を回避しました。その後、14年間も江戸で人質として過ごしましたが、

なんとその間にも、関ヶ原の戦いで石田三成側についた次男 前田利政の

赦免や娘婿の宇喜多秀家の助命、養育していた側室の子 利孝の大名取り立てを

江戸幕府に直訴するなど前田家のために奔走したそうです。

 

 

 

 

 

夜にはことの外、ギアマンがきれいですキラキラ

かつてはここに火を灯して金石近海を通る船のための

灯台の役目をしていたそうです。

 

ちなみに、てっぺんの避雷針は現存する日本最古のものと

されているそうです。