2017年生まれのコティ7歳、2021年生まれのリティ3歳、
姉妹を育てるコティマムです。
40歳、
元テレビ局芸能記者の
アラフォー
ワーママライター
◎BFC公式アンバサダー1期生
(23年3月卒業)
◎wicot公式アンバサダー活動中。
ワンオペ育児のあれこれや
大好きな洋楽、歌舞伎、アニメ、
おいしいもの(外食)など、
カオスな日常と
たまの贅沢を綴ります
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父は、8月13日19時41分に、
旅立ちました。
昨日14日に通夜、
そして今日15日に葬儀・出棺を無事行い、
お見送りしました。
父は13日の夜、
ICUで私と弟、
弟の奥さんの3人に囲まれ、
最期の瞬間まで
一緒に過ごすことができました。
その間、
私の夫も会うことができ、
娘のコティ・リティは
タブレット越しに
声をかけることができました。
私と弟にとって、
スーパーヒーローのような父でした。
最期の最期まで、さすがの父でした。
すべて、すべて、
父の愛に守られていると感じました。
父が、
すべてうまくいくようにしてくれました。
本当に奇跡的なことの
連続だったので、ここに記します。
そして、最強霊感を持つ父、
最期の日、
やっぱり会いに来てくれました。
5日に手術室に入った父は、
手術は無事に終わったものの、
手術台からICUに移る際に
危険な状態になり、
翌6日になっても
意識が戻りませんでした。
そこからずっと意識が戻らず、
毎日家族で交代で
ICUに会いに行く状態が続きました。
そんな中、
8日未明に不思議なことが。
その日の夜、
私はコティと共に実家2階の
父の部屋で寝ることになりました。
弟からの連絡を受けて4日明け方に
帰省した私は、
4日の昼と5日の手術直前に
父と会えて話をしているのですが、
その時に父から
「寝る時は父さんの部屋を
使いんさいね」
と言われていました。
ただ、いろいろな都合で、
帰省してからずっと
弟と奥さんが生活している1階の居間に
寝ていたのです。
でも7日の夜にコティが
「今日はじいじの部屋で寝たい」
と言い始め、
帰省してから初めて
父の寝室で寝ることにしたのです。
私は書かなければいけない
原稿があったため、
7日夜遅くに
コティと父のベッドに入ったものの、
電気もテレビもつけた状態で
横になりました。
コティが寝たら、起きてそのまま
原稿を書こうと思っていたからです。
(なので寝落ちしないように
電気もテレビもつけていたのです)
コティがなかなか寝つかず、
日付が変わって8日に。
コティも寝て、
私もウトウトしてしまい、
気づけば8日の朝6時頃になっていました。
目が覚めて、
「しまった!原稿書かないと!」
と思ったと同時に、
「あれ?」と
異変に気付きました。
テレビと電気を
つけっぱなしにして寝落ちしたのですが、
テレビはついているのに、
電気が常夜灯になっていたのです。
私もコティもスイッチは触っていない。
センサーなどで
自動で切り替わるものでもない。
なのに、「オフ」ではなく
常夜灯のオレンジの光に
変わっていたのです。
1階に降りて、弟と奥さん、
私の夫にも
「2階に来た?
電気を常夜灯にしてくれた?」
と聞いたのですが、
誰もそんなことしていないと。
すると逆に弟から、
「姉ちゃん、昨日2階で寝たん?」
と驚かれ……。
実はその夜、
1階で夫とリティが寝ていて、
リティが夜泣きしたそうなのです。
弟は自分の部屋から
リティが泣いてるのが聞こえ、
その時に
「ママはここにいるからね」と声がして、
リティがスーッと泣き止んだと。
だから弟はてっきり、
私が1階でリティと寝ていて
夜泣きをなだめたと思ったそうです。
ちなみに隣で寝ていた夫は、
夜泣き自体にも気づいていなくて、
なだめていないと……。
同じ頃、弟と同じ介護の職場で
働いている奥さんは、
「誰もいない部屋からナースコールが鳴る」
ということが
2回続けて起きていました。
弟たちと、
「父さんかね?」
「お盆じゃけ、おばあちゃんとか
他の人とか?」
と話していました。
翌9日からも父に会いに行き、
意識のない父に
「もしかして電気消してくれた?」
とたずねたりしながら、
父に声をかけに行く日々が続きました。
4日に実家に戻って来てからの私は、
子どもの頃から
父がドライブをしてくれた場所や
遊びに行った場所をかたっぱしから周り、
娘たちにもその景色を見せて
父の話をしていました。
父が回復する奇跡を信じつつも、
なんだか、
父との思い出をめぐっておいた方がいい
気もしていたんです。
私が2歳の頃に重い病気になった時、
父が拝みに行って命を助けてくださった
神社にもお参りに行きました。
父が一緒にいると思って、
いろんな思い出の場所にいって、
心の中で父に話しかけていました。
と同時に、
とても悩んでいました。
13日にどうしてもやらなければいけない
インタビューがあったのです。
そのため10日には実家を出て
東京に戻る予定だったのですが、
父がどうなるか分からない。
後悔はしたくないので、
1日ずつ滞在を延期し始め、
13日のインタビューも
意を決して
翌週に延期していただいたのです。
でも、翌週に回してもらった以上、
そのインタビューは
もう再度リスケは出来ない状況になったため、
その準備などを考えると
「何があっても、
13日か14日には帰らないといけない」
という状況でした。
そして、
もともとインタビューが
入っていた13日のこと。
その朝にメールを見ると、
翌週にリスケしたインタビューが
バラしになったと連絡が入っていたのです。
そのインタビューの仕事以外は
すべてリモートで対応できるもの。
つまり、
13や14日に帰る必要がなくなって、
実家滞在を
さらに延長できることになったのです。
「あ、これで来週まで滞在できる」
とちょっとホッとして、
午後には病院に行こうと
1階の居間で原稿を書いていました。
結構原稿が溜まっていて、
午前中に2本書き終え、ひと段落。
その時、
居間のすりガラスの向こうの廊下から、
ギシッと床を踏む音がして、
大柄な人影がスーッと通っていったのです。
私は思わず
「あれ?誰かいる?」と声を出して
身を乗り出したのですが、
隣にいた夫は「え?」と気づかない。
すりガラスを開けて廊下に行っても、
その向こうの台所に行っても
もちろん誰もいない。
弟は仕事中で、
娘たち2人も私と夫と居間にいる。
弟の奥さんは
夜勤入り前でまだ寝ていました。
「これは…父さんが帰って来たんだな」
と確信した部分があり、
準備をして父のいるICUに行きました。
すると、
私が14時半頃に到着した時点で
血圧が20台。
そして、父の顔を見た時に、
白っぽいというか、
透明っぽいというか、
前日までとは違う、
薄い靄みたいなのが一瞬見えました。
その時、私は、
「あぁ。もう、お別れだ」
と確信しました。
その時点では
血圧は相当低いものの
脈拍は65くらいで
安定はしていたのですが、
仕事中の弟に電話。
父の様子と共に、
部屋で足音と人影を見たことも伝え
「今すぐ来た方がいいと思う」
と伝えました。
すると弟も、
「今朝からずっと、目の裏に
父さんの姿がチラチラ浮かびよった。
入居者さんの顔が父さんに見えたりして。
会いにきたんじゃね」
と教えてくれました。
弟の職場の皆さんの
優しさとご協力のおかげで、
弟は即早退して病院へ。
夜勤入りだった
奥さんの夜勤も外してくださいました。
夫もコティリティも
家族控室に入り、
弟も奥さんも15時過ぎには到着し、
家族全員で父に会うことができました。
コティリティもタブレットで声をかけ、
16時頃からは
ICUにずっと滞在させていただき、
私と弟と奥さんでずっと、
父の手や身体をさすって、声をかけて
ずーっと一緒にいました。
たくさんたくさん感謝を伝え、
寂しいことも伝え、
思い出話や霊感話をし、
とにかくたくさん話かけました。
そこから突然脈拍が0になって、
また20台も戻る、ということを
7回繰り返しました。
そのたびに心臓が飛び出そうなほど
びっくりしながらも、
涙でぐちゃくちゃになりながらも、
ひたすら感謝を伝えました。
40歳にもなって情けないですが、
いつまでも娘で、
「父さん大好き、大好き、大好き」
と何度も大声で伝えて、
抱きついて、
気持ちを伝えました。
8回目の心拍停止で
ついに眠りにつき、
13日19時41分に旅立ちました。
最期の最期の瞬間まで
父と一緒に過ごすことができました。
コティリティも
死後にようやく、
父の身体に触れることができました。
葬儀社が到着して病院の外に出ると
濃いオレンジ色のような半月が
輝いていて、
月や星を見ることが大好きだった父に
ぴったりな夜だなと思いました。
インタビューを延期しなかったら、
そしてバラしになっていなかったら、
たぶん、関東に戻っている最中に
亡くなったことを聞いていたと思います。
そして、午前中に
人影(私は父だと思っています)が
通ったことで、
なんとなく覚悟して病院に行き、
弟をすぐに呼ぶことができました。
奥さんも夜勤に入ることなく
来ることができました。
午前中に
原稿を2本終わらせられたことで、
その後の葬儀関係のバタバタがあっても
余裕をもって取り組むことができました。
全員が揃って
落ち着いてお見送りできるように、
そして最期の瞬間まで
一緒に過ごせるように、
父が調整してくれたんだと思います。
もし、
5日の術後すぐに亡くなっていたら、
突然すぎて私も弟もダメージが大きすぎて
動けなかったと思います。
でも、
5日から少しずつ少しずつ時間をかけて
現実を受け入れるゆとりを与えてもらい、
覚悟をする猶予をもらった気がします。
私も弟も奥さんも、
そして私の夫も、
みんなが仕事に支障がなく休むことができ、
ずっとそばにいることができた。
そもそも、
普段父が手術をしても
電話してこない弟が
今回は何かを感じて
「姉ちゃんだけでも戻って来てほしい」と
電話してきたこと。
そして普段関東にいて
すでにガッツリ取材の予定が入っていた私が、
普段全く休みの取れない夫と共に
家族4人で帰省できたことも奇跡です。
娘たちが夏休みだからこそ、
4人で戻る決断ができました。
家族が集まれるように
すべて父がしてくれたんだなと思います。
長くなってしまいましたが、
この不思議な流れは
記しておきたかったので、
書きました。
通夜や告別式も、
子どもの私たちがしっかりして
父を送り出さなきゃいけないのに、
父にサポートしてもらってるような節があって、
ただただ、父の愛を実感しました。
私も弟も
涙しまくった1週間でしたが、
なんとか無事に
父を送り出すことができました。
また落ち着いたら、
通夜や葬儀の時の気持ちも、
書き記させてください。
父さん、最期の最期まで
父さんの愛を感じたよ。
本当にありがとう。
父さん、大好きじゃけぇね。
父さんの娘で生まれて本当に幸せだったよ。
私がこっちで生ききったら、
またそっちで会おうね。
生まれ変わってもまた
父さんの娘になるけぇね。
最期、会いに来てくれてありがとう。
これからも
たまには、会いに来てね。
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