伊藤旭海軍大尉
多摩霊園にある、大好きなイケメン零戦パイロットの笹井醇一中尉のお墓参りをした時に、気になるお墓を見つけました。

 

 

お目当ての海軍軍人さんのお墓は迷いに迷って見つけられなかったのだけど。迷っているうちに偶然発見したお墓です。
伊藤旭海軍大尉のお墓。

 


碑によると、日本大学工学部出身。(大学生から海軍に入った海軍飛行予備学生と思われます。)土浦海軍航空隊をへて昭和18年海軍少尉に任官。(この時期だから、海軍飛行予備学生第十二期か十三期かと推察。)昭和19年10月12日台湾沖海戦にて戦死。享年27歳と書かれています。あの台湾沖航空戦で戦死されたのですね。戦死の日付からしてT攻撃部隊かなあ。
 

で。ん?と驚いたのがこの碑の文字を書いた人が、海軍中将福留繁になっていたこと。
福留繁といえば、アノ、海軍乙事件の人ですよ。(福留氏については、い~ろいろ言いたいことが鬱積しているけれど。今回はそれがテーマではないので・・・いつか、ぶちまけたい・・・)
この伊藤旭大尉はどのような方で、どういう縁で、福留中将がこの碑の文を書くことになったのだろう?と思い、いろいろ調べてみたのですが。


伊藤旭大尉(台湾沖航空戦当時は中尉だったと思われる)は、七六二空の攻撃七〇八隊に属していたと思われ、一式陸攻機を操縦して台湾沖のアメリカ艦隊攻撃に参加、未帰還となったことがわかりました。
ただ、伊藤大尉と福留中将の繋がりはよくわからなかったです。
福留中将は、台湾沖航空戦が行われた時、第二航空艦隊司令長官として司令官の立場にありましたので、その関係かなと推察。
しかし、福留中将が伊藤大尉の碑を書いた経緯についてはわからず。
伊藤大尉が台湾沖航空戦で目覚ましい戦果を挙げたか、伊藤大尉と福留中将、あるいは伊藤家の間には何か関係があったのかなあ。

T攻撃部隊
T攻撃部隊とは、日本軍が相当詰んでいる状態に追い込まれていた昭和19年(1944年)の夏、日本海軍が考えた「台風を利用した攻撃を本旨とし、機会がなければ夜間攻撃を行う」という作戦の部隊。TはTyphoon(台風)のことらしいです。専属の気象班をつけて、台風の悪天候に乗じて、敵のレーダーに捕捉されないようにして、アメリカ艦隊を攻撃する・・・って、いや、マジかっ!?ってびっくりしますけど、マジなんですよね・・・。

悪天候は航空隊の大敵ですよ・・・。悪天候で未帰還になった搭乗員もたくさんいたのに・・・。いくらアメリカ軍のレーダーに捕捉されないためだからといっても・・・こんなのアリなんですか!?

昭和19年(1944年)8月に連合艦隊長官豊田副武大将が「T攻撃部隊編成並びに作戦要領」を発令。実戦部隊である第二航空艦隊にT部隊指導部が発足させます。(第二航空艦隊って「艦隊」が入っていますけど、「戦艦」なんてもうありませんでしたから、実質的には航空部隊です)
 

でも、第二航空艦隊司令長官であった福留繁中将は、T攻撃の効果について疑問視していて(いや、ここは福留さん、まともでしたな)、T攻撃部隊は夜間攻撃をメインで、台風の悪天候に乗じるのは最後の切り札にすると主張。豊田連合艦隊司令長官も、現場がそういうならそれでいいよと同意。

T攻撃部隊の戦力は、偵察隊(主に彩雲と瑞雲)、戦闘機隊(主に紫電と、台湾の航空隊にいる零戦)、艦上爆撃機隊(主に彗星と天山)、陸上爆撃機隊(主に一式陸攻と銀河)、それに陸軍陸軍飛行第七戦隊と陸軍飛行第九八戦隊(主に飛龍)が、海軍指揮下に加わりました。

福留中将は、昭和19年(1944年)10月10日のアメリカ軍による那覇空襲(10・10空襲。那覇の90%が空襲で焼けた・・・)を受けて、T攻撃部隊による作戦決行を決意。

10月11日早朝に索敵を行い、アメリカ機動部隊を発見し、その日の夕刻、T攻撃部隊に対し台湾方面に進出し、アメリカ艦隊に対し薄暮攻撃及び夜間攻撃をかけると発令。沖縄から、鹿屋から、宮崎から、出水から、続々と攻撃隊が出撃しました。
ここに台湾沖航空戦が始まりました。
不運にも、ちょうど台風がフィリピン東海上にあって、天候が不良で、福留中将としては決して望んだわけではなかったけれども、T攻撃の名前のとおり、台風の接近と共にいろいろ天候不良の中、敵艦隊を攻撃するということになってしまいました・・・。

台湾沖航空戦
台湾沖航空戦の初日、10月12日、T攻撃部隊出撃。

一式陸攻と銀河がアメリカ艦隊を薄暮攻撃と夜間攻撃。(ここに伊藤大尉の操縦する一式陸攻が含まれていたのではないかと。)

次に、陸軍の九八戦隊の飛龍が夜間攻撃(25機が未帰還)。

10月12日だけで日本は90機~100機のT攻撃部隊が出撃。夜間攻撃に合わせて照明隊も連れていったのだけど、厚い雲のために照明弾の照明効果が効かず・・・。アメリカ軍の対空射撃を受けて、多くの未帰還機を出してしまいました。
 

アメリカの空母フランクリンに一式陸攻が体当たりして損壊(しかし、フランクリンは修理によりそのまま参戦続行)、重巡洋艦キャンベラに一式陸攻の魚雷が命中して大破(キャンベラは航行不能になり戦線離脱)がありましたが。
もしかして、キャンベラに魚雷を命中させた一式陸攻は、伊藤大尉が操縦していた機だったのだろうか??
 

10月12日の台湾沖航空戦では、たくさんの一式陸攻が出撃し、そしてほとんどの機が未帰還になっているので、詳細がわらかず・・・。『戦史叢書』の台湾沖航空戦のページを調べてみたのですが、一式陸攻の攻撃については「資料に欠け明らかでない」「効果不明」って書かれていました・・・。ううう。命をかけて戦ったのにお気の毒です・・・(涙)。

台湾沖航空戦は10月12日から16日まで続きますが、日本は312機の航空機を失います。それだけの航空機を失ったということは、それ以上の搭乗員を失ったということです。零戦や紫電は搭乗員は1人ですが、彗星は2人乗り、銀河は3人乗り、天山も3人乗り、一式陸攻は7名が搭乗していますから。

ただ、アメリカも89機の航空機を失っていますから、T攻撃部隊は奮闘したとはいえると思いますが。

問題なのは、この台湾沖航空戦の結果を正確に把握できず、「世紀の誤報」として、日本軍の大勝利と誤認し報道してしまったこと。
台湾沖航空戦で日本が大勝利してアメリカ空母をたくさん沈めて大打撃を与えたと大本営が思ったことで、その後の作戦立案が砂上の楼閣になります・・・。いや。でも、「世紀の誤報」がなくても、既に日本軍はぼろぼろの砂上の楼閣だったかもしれないけれど。

今回、『戦史叢書』を読んでいて気付いたのですが。

台湾沖航空戦の10月12日の戦訓速報で、わりと正確にアメリカ航空兵力の強さを理解しているのですよねえ。

この時はグラマンF6Fヘルキャットという最強戦闘機がアメリカ戦闘機隊のメイン機になっているのですが、ヘルキャットについて「上昇力ハ格段に大ナリ」「搭乗員技術キワメテ優秀」と書いてあって、爆撃機についても「爆撃精度良好ナリ」と、アメリカ航空隊の凄さをきちんと把握しているのです。
だけど、アメリカ艦隊については、たくさん轟沈、大破したぞ!と急に、超甘めの過大戦果評価になっているのが不思議だ・・・。
まあ、これは、夜間攻撃で、火柱がばんばん海上に上がれば、空母を沈めたと思った、あるいは思いたい、という心理だったかもしれませんが。実際には味方機の自爆の火柱だったかもしれないのだけれども・・・。切ないですのう・・・。


この台湾沖航空戦の「世紀の誤報」については「台湾で神様になった杉浦茂峰少尉」で書いていますので、ご参照ください。

 

 


伊藤旭大尉についての調査は継続中。
他にも、ん?この人は・・・!?というお墓も見つけたり。
多磨霊園をさ迷っていると、思わぬ海軍・陸軍の方のお墓に巡り合います。
偶然巡り合った方のストーリーを調べることも、お墓めぐりの醍醐味。
山本五十六さんや宇垣纒さんだけが海軍を動かしていたわけじゃないのよ。たくさんの若者だって戦っていたのよ。
しかし~。多磨霊園が広すぎて、迷いすぎて、なかなかお目当ての方のお墓に辿りつけないのが難です・・・。

 

 

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