白川勝彦Web「忍び寄る警察国家の影」
をぜひぜひお読みください。
現在、どこかのエセマッチョ知事が歌舞伎町や池袋を消毒しようとしたり、少年犯罪が激増している(実際にはこれは嘘で、本当のピークは今の老人が青年だったころでそのころと較べるとすずめの涙だ)から厳罰化しろとか、検挙率が大幅に下がった(これも統計の取り方の問題で、今までは犯罪に含めてこなかったものを窃盗レベルの軽犯罪としてカウントしているのが最大の要因と思われるけれど、まあ実際に検挙率が下がっているのは事実でしょう。むしろ問題なのは捜査手法が非科学的な、自白重視・聞き込み中心主義によるところ)とか「治安の維持」は国民の重大な関心事となっている。
なぜ、政治が「治安の重視」をことさらとりあげるようになったのか?それは高度経済成長が終焉し、成長したパイの分配という選挙民を分かりやすく満足させることが不可能になったことが考えられる。そのとき「治安」や「国防」という分かりやすいマッチョなテーマが浮上する。誰の既得利権も犯さず、大声でがなりたてても誰も反対しないテーマだ。そしてこれは官僚や産業界にとっても新たな権力や需要を作り出すものであり後ろ盾も得られやすい。官僚にとっては新たな法律(盗聴法、国民総背番号制法…)や予算であり、産業界にとっては新たな販路(監視カメラ、ネットワーク構築…)である。またマスコミにとっても犯罪ネタは非常に扱いやすい。これらが現在の「警察国家化」を実際に動かしている利害関心であろう。
ただ実際の利害関心とは別に、表立って語られる理念の争点は「自由」と「治安」のトレードオフについてだろう。そして実際には利害関心が争点を定めるとしても、民主主義国家においては国民の選択で争点に基づいて決定される。
「人間の行為を直接に支配するものは利害関心であって理念ではない。しかし、理念によって作り出された世界像は極めてしばしばターンテーブルとして軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。」
マックス・ヴェーバー「世界宗教の経済倫理」
だからこそ自分でよく考えて決定しなければならない。わずかばかりの安全と引き換えにあなたは根源的な自由を手放すのか?と。おそらく今、世論調査を行えば、安全があってこその自由なんだから仕方がないという答えが過半を占めるだろう。しかし「治安維持法」という痛い歴史的教訓が示すように、近代国家において過度の治安活動は国民を精神的に萎縮させるばかりではない。刑法の大原則、「たとえ99人の犯罪者を世に放とうとも一人の無辜の民を罰することなかれ」を転換させる危険が高い(現在進行形でアメリカ合衆国はそのような国になってしまいました)。あなたが被疑者となってからでは遅いんです…。
「何人も孤島ではない。何人も一人では完全ではない。人はみな大いなる陸のかけら、そのかけらが波によって奪われ欧州の土が無くなるのは、さながら岬が失せるようだ。あなたの友人やあなた自身が失せるようだ。誰が死にゆくのもこれに似て自分が死にゆくのに等しい。なぜなら私もまた人類の一部だから。だから聞かないで欲しい、誰の為に弔いの鐘は鳴らされるのか、とそれはあなたの為に鳴らされるのだから。」
ジョン・ダン
追記 人工事実さまサイト
に実際にあなたが(権力者でない一般人のあなた)どのように扱われるのか参考となる情報が集積されています。誰が為に鐘はなるとは決して問わないで下さい!