WEBアニメスタイル 第4回 「美しき夢」を見る人
に触発されて…夢を見るということについて
>『友よ、目下の苦難と欲求不満はどうであれ私は今でも夢を持っている。それはアメリカンドリームに深く根ざす夢だ。』
(中略)
>『私はいつの日かジョージアの赤い岡の上で以前奴隷だった者の息子たちや以前奴隷の持ち主だった者の息子たちが兄弟愛のテーブルに共に腰を下ろすことができるようになるという夢をもっている。』
マーチン・ルーサー・キング
小さい頃の「大きくなったら何になる?」という問いはとっても普遍的だ。その問いを発する側にとっても答える側にとっても幸せな問いだから…。子どもがなんて答えようとその夢は否定することがない(さすがに猟奇的殺人者になりたいとか答えたら別だけど)。その夢が現実味があるとかないとかではなく子どもが将来の夢をもっているということが重要なんだ。
(そして逆に親は子どもに自分の果たせなかった何か、現状の自己の不満を託す、しばしばその過剰な期待が子どもを押しつぶすことになろうとも)
時間論のこの記事
でも記したけれど、夢をもつ、夢を見ることの意味は未来を信じることと同意となっている。ただ、成人(青年は架橋)が夢見ることと、子どもが夢見ることの意味は全く違う。それは夢が実現することに対する全幅の信頼だ(疑うことをしらない)、成長するに伴い夢は現実の前に戦線を縮小していく、そしていつしか夢とは呼ばれず将来像となっていく。
冒頭に紹介した小黒氏のコラムから抜粋
>「無限に繰り返される学園祭の前日」と「モラトリアムなサバイバル生活」。この映画は、そのふたつの理想を描いているわけだが、僕は後者に惹かれた。それは、当時大学生だった僕らの理想でもあったのだろう。
>僕らは大学生になっても、アニメを見続けていた。そういった僕らのモラトリアム気分と、夢の中でのサバイバル生活はマッチしていた。『ビューティフル・ドリーマー』は、モラトリアムが無限に続くという夢を描いていた。『うる星』がいつまでも続くという幻想も重ねている。その甘美なイメージのために、僕らは『ビューティフル・ドリーマー』に熱中したのかもしれない。タイトルになっているビューティフル・ドリームが、『うる星』の事であり、そこに始まった享楽的なアニメーションを指すのなら、美しき夢を見る人とは、ラムの事であるのと同時に、僕ら自身だったのだ。
私がこのコラムを読んでふと思い起こしたのは、宮台氏が一時盛んに提唱していた「終わらない日常」をやりすごすための戦略とかなんとかというやつです。私にはとっても既視のことだったんだけどオタクにとって「終わらない日常」は苛立ちを呼ぶものではなくて、理想郷の一つであるということ(宮台氏はそれも分かっていての戦略的振る舞いなんでしょうけど)。
成熟拒否を選択する青年(かつて一世を風靡した【モラトリアム】
ってやつですね)の夢とは大人にならないこと。それはいつまでも現状維持を続けること。自分もやがて歳をとることや、家族を作らなければいけないというプレッシャー…もろもろの責任を担わないこと。
と書くとオタク批判めいているけれど私自身これまでのエセーで明らかと思うけれど社会が自明のものとして押し付ける責任などどんどん相対化してどうでもいいことと思っています。子どもの夢との違いは周囲が祝福するかしないかということ、現実との距離の問題。
「いい歳をした大人がいつまでも夢を見ているんじゃないよ」のような文句も定型としてよくある(最近だとフリーター批判の文脈でね)。歳をとるということは夢の選択肢が乏しくなり、実現に対する裏づけが必要とされていく。でもそれは夢を見ることがいけないわけでは決してない。それは街で辺りを見回してみれば一目瞭然、その輝きを失って死んだような目でくたびれはて、かつ忙しそうな群蓄をいくらでも観察できるでしょう。
>『夢見ることを忘れてはならない、夢を失っても存在することは可能だが、人生はそこで終わりである。』
マーク・トゥエイン
そして現実の前に妥協を重ね、夢をあまりにも無難に選択して叶ってしまうと、次の夢を見つけるために悪戦苦闘の日々の始まり。
>『人生で一番危険なことは叶えられる筈の無い夢が叶ってしまうことなんだよ。(中略)僕にはもう夢が残っていない(中略)今、僕に出来るたった一つのことはそれは口を閉ざすこと、もう何も物語らないこと。』
ミヒャエル・エンデ「モモ」
未来偏重主義は現実の上にひたすら無味乾燥とした虚無を振り撒いていくが、現実偏重もまた同じ。その架け橋として「夢」があると私は思う。
>『人間は見ることをやめないためにのみ夢見るのだと私は思う。いつか内部の光が我々の中から輝き出て、それでもう他の光はいらなくなるようなことがあるかもしれない。』
ゲーテ「親和力」