暖かくて柔らかな雪が降りてくる「ちっちゃな雪使いシュガー」 | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

「ちっちゃな雪使いシュガー」
監督 木村真一郎 構成 やまだやすのり 美術 小林七郎 監修 桜井弘明

昨年は大晦日に東京に雪が降った。深々と降り積もる「雪」は見る者を幻想の世界へと誘ってくれる。純白に生まれ変わる新世界、空から舞い降りてくる妖精たち…、「ちっちゃな雪使いシュガー」は今から5年ほど前の作品です。

「ほんとうに大切なものは目には見えないんだよ」
                  サンテグジュペリ「星の王子さま」

幼かりしとき、世界は不思議に満ちていなかっただろうか?一日は長く、ゆったりと時間は流れていなかっただろうか?夢と現の境は曖昧模糊とし、闇の中のみならず白昼においてさえも見えないものが見えてはいなかっただろうか?そのような本当は大人になっても忘れてはいけない子どもだった時の自分の気持ちを思い起こさせてくれる世界名作劇場のような作品です(深夜ではなく「デ・ジ・キャラット」の日曜午前というかたちで放映時間帯さえ間違えなければきっと小さい子どもたちにも受け入れられただろうに…)。

子どもの時には子どもを存分に楽しまなくてはいけない。子どもであるという無力を自覚し背伸びすることも成長のためには必要かもしれない。でも度を越えてはいけない、やがて子どものときの自分に復讐されることになる。主人公のサガは母を失ったことをバネに一日を無駄にしないようスケジュールとにらめっこしながら時間を管理しようとする。一見、即断即決テキパキと物事をこなしているように見えるが、シュガーという想定外の存在との出会いをきっかけに、むしろ時間に支配されていたことに気付かされていく。小林七郎氏の力が存分に発揮されているミューレンブルクという美しい地方都市を舞台に、サガ、シュガーの時には反発し支えあいながら成長し、別れを迎えるまでの過程を全24話でもって描いていく。萌えポイントはほぼ毎回ある二人の入浴シーンよりも寂しがり屋さんのグレタ!

♯1「サガ、シュガーと出会う」、♯2「ちっちゃなルームメイト」
サガとシュガーが出会い、一緒に住む過程を通して二人の性格設定とともに街と住人たちの紹介をしていく。サガは30分単位でスケジュールを組むと同時に、「1分でも1時間でも遅刻」という信念の下それを守っていく。遊びにおいても即断即決で計画を立ててくれるので友人たちにも頼りにされている。シュガーについては、最初はその存在を無視→コレ→シュガーと名前で呼ぶに至りルームメイトとなる。雨の中、躊躇なくカバンを投げ出してシュガーを両手で受け止めるサガ、サガの優しさを表すこのパターンは今後も頻出することになる。
ちなみに1話と2話の間でいつの間にかにサガがパジャマに着替えていることは謎。

♯3「きらきら、ぽかぽか、ふわふわ」♯4「きらめきはどこ?」♯5「長老さま現る」
見習いから立派な季節使いになるための試練であり、この作品のテーマでもある「きらめき」探しが始まる。ちなみにきらめきが何であるかは最後まで明確には定義されない。ただ長老さまが時々こぼす呟きは視聴者にとって答えをイメージするヒントになる。「きらめきは自分の力で探してこそ価値あるもの」「きらめきはたくさん集めるもの」である。またこの後、重要なキーとなるサガがピアノを弾くシーンが入る。

「音楽の楽しみとは言語化の助けと視覚イメージを使った論理の助けを借りないで、音の世界に直面することのできる能力のことにほかならない。」
                              コフート

♯6「ゴメンねがいえなくて」♯7「心をつなぐメロディー」
サガとシュガーが正面からぶつかり合うお話。この作品においては俗に言うところの「悪人」は一人(一匹)たりとも登場しない。すべて好意や善意が空回りしたり、無垢(=無知)に由来する無神経な言行動が他者を傷付ける要因となっている。そしてそれだからこそ見ている者にとっては安心であると同時に胸を掻き毟りたくなるもどかしさを覚えさせることになる。二人とも共に母親が大好きであり、自慢できる存在である。ただ大きな違いは一方は喪失しており一方は健在であるということ、その違いに由来する鈍感さがサガを傷付ける。一方シュガーにとっても悪意はないだけに「シュガー悪くないもん」という子どもの正義を振りかざすことになる。ただその衝突を通してサガも子どもであることが明らかになる。

♯8「夢のカタチ」
ソルトが主役のお話。シュガー以外の見習い季節使いのお話は、翻ってきらめきが一種類ではないこと、色々な形のきらめきがあるということを明らかにする。フィルという実験好きの少年と共に「オーロラ」というレアな自然現象を再現しようとする男の子のロマンを気持ちよく描く。オーロラは子どもたちの将来という無限の可能性を秘めた光でもある。でも馬鹿にしている傍観者ほど一端参加するとのめり込むってこと結構あるよね。

♯9「クマのピアニスト」♯10「バックステージハプニング」♯11「あたしの大好きなピアノ」♯12「さよなら、クマさん」
街に来た劇団とお芝居を通して、サガにとってのピアノの占める大きさとそしてその大きさゆえの制約を描くお話。サガにとってピアノとは音「楽」であるよりも母親との絆という意味合いが強い。理想の母親(多分に美化された)を体現する存在としてのピアノはサガにとって神聖なものである。だからこそヴィンセントというサガにとって初恋(憧れ程度にしか本人は意識していない)を抱かせた存在が音「楽」としてピアノと触れ合う姿は複雑な感情を呼び起こす(どうでもよければ適当に受け流します、極端から極端というのは愛憎半ばすというやつです)。それをヴィンセントがコーヒーの味を評して「窮屈な味」と言わしめている意味です。ちなみにヴィンセントに季節使いたちが見えているのかどうかは特別編で明らかになります。
もちろんグレタがお芝居に感動して、必死に否定しながらも「クマ・ピアノ・天国」のキーワードで耐え切れず大泣きするところは悶えます!

♯13「『きらめき』みつけた?」
実質的なきらめき探し最終話、きらめきは物理的な物質Ⅹではないのでいくら探してもどこにも落ちてなんかいないのです。ただ、この段階に至ってシュガーたちにもそのことがおぼろげながら分かっているようです。だからきらめき探しに必死になるというよりもピクニックとして景色や遊びを楽しむゆとりが生じています。そして「楽しかったからいいの」というシュガーの科白の通り、シュガーだけ(2個目)でなくソルト、ペッパーにも蕾が付くのでした。

♯14「ペッパーとかめさんの夢」
ペッパーが主役の風が吹けば桶屋が儲かるというお話(一部嘘)。風はそよそよと吹くことで他者の疲れを癒したり、あるいは後押しすることができる他者を慈しむ存在なんですね。イソップ童話「北風と太陽」について北風は強く吹くことで胸に抱いているプレゼントを落とさないように気遣ったという逸話も語られていました。

♯15「ちっちゃなお客さま」
実質的な折り返しとなる重要なお話。第1話冒頭にもあり所々で挟まれる、雪に横たわる幼いサガ、上空に浮かぶピアノ、飛び回る雪使いという構図をカノンちゃんを通して描く。誰にも子どものときがあってやっぱりそのときは親(大人)にいっぱい迷惑をかけるんだけれどそれは客観的なことに過ぎなくて、むしろいっぱい贈り物をもらうんだということ。何気ない仕草や可愛い言葉、それは世界が自分を肯定してくれるくらいの意味をもつ。サガお姉ちゃん→サガママに最後呼び方が変わったとき、涙がこぼれました。シュガーも意識したように面倒を見られる側から見る側へと、そうやって世界は紡がれていくんだね。

♯16「遠いまちの初雪」♯17「シュガーを待ちながら」♯18「おまつり、ワッホー!」♯19「ふたりだけの思い出」
終局に向けての総集編であると同時に、サガとシュガーの繋がりの深さが描かれるお話。サガが芝居でピアノを弾く際シュガーが励ましたが、シュガーが初めて雪を降らす際に心の支えとなったのはサガだった。お互いの存在を当然のように思っているとき、その不在の期間は普段実際どれだけ支えあっているか、大切に思っているかを思い起こさせる。また、「一日ってこんなに長かったっけ」というサガの呟きから、シュガーと出会う前のサガは一分はいつでも同じ長さの一分というクロノス的時間を生きていたのに、時間の流れは感じ方によって異なるというカイロス的時間を生きるようになったことが窺える。お祭りが済んで後片付けがあって…以下怒涛の展開が待っている。

♯20「消えちゃった約束」♯21「ひとりぼっちのふたり」♯22「ゴメンね、シュガー」♯23「ミューレンブルクの小さな奇跡」
サガが「きらめき」を見つけるお話。母親の象徴(形見)であったピアノが他人(グレタ)の手に渡ってしまう。どういう理由かはともかく(おそらく、初めは母親を思い出させるからであったとしても買い戻すとすれば、祖母一人である以上経済的負担を考えてサガが遠慮していたというところかな?)手放して楽器屋に渡った以上いつかは他人の手に渡る可能性はあり、単にこれまでが買い手が現れず、楽器屋の主人、店員含めサガに理解を示していたという運が良かったに過ぎなかったということにサガは気付く。「どうして売っちゃったの?」と子どもとして泣いたうえで大人として買い戻そうと決意する。ここでサガの時間の使い方は激変する。物語冒頭の単に信条として一日を大事にするために時間管理する→お金を貯めるために時間管理する、まさに「時は金なり」を地でいくことになる。現代社会において時間=金であり、直接金を生み出さない行為(非生産的行為)に対する優先順位は極端なまでに下がっていく。それは初めは直接的に放課後の遊びの時間を削ることから始まるわけだが、やがてその他仕事中を含め、サガ、知人、友人との会話も生産とは直接関係のない無駄なものとして削られていくことになる。

「時計というものはね、人間一人一人の胸の中にあるものを極めて不完全ながらもまねて象ったものだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのと同じに、人間には時間を感じとるためには心というものがある。そしてその心が時間を感じとらないような時は、その時間はないも同じだ。
(中略)
でも悲しいことに心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、何も感じとれない心をもった人がいるのだ。」
                     ミヒャエル・エンデ「モモ」

しかし、シュガーが倒れたことをきっかけにサガは心を取り戻す。大切なものをこれ以上失くさないためにお金を欲し、その過程で大切なものを失いかけたことに気付いたのです。それはシュガーだけではなくて、サガのことを本当に心配してくれる友人たち…。特にグレタはサガのピアノを本当に大切に扱うばかりではなくって(最初に暴走するピアノを止めようと飛び出した)、自分も気に入っているのに関わらず何とか返そうと機会を作って「逃げないで、そうやっていつまで逃げるつもり(中略)ライバルならいつも胸をお張りなさい!」とまで言う。本当に愛しい、愛しいよグレタ~!

♯24「あたしはここにいるよ」
ピアノ大暴走というアクションシーンを収めるのは大きな奇跡(ここにサガの幼時のエピソードが再現される)、そして大団円の後に待つのは悲しい別れ。出会いがあれば別れがあるのは世の定めだとしても、その別れが悲しいからといって出会いを呪ったり、逃げ出してはいけない。別れを受けとめることで人は優しく成長していく。それがシュガーの最後の「きらめき」探し、二人がともに成長したとき、見えないものが見える特別な子どもの時間もまた終わる。「季節使いって知ってる?」から始まりそして終わる素敵な思い出に彩られた物語。


番外編

「その胸にあるもの」(♯前編・♯後編)
本編の放映終了後に作られた特別編。
16歳に成長したサガがシュガー居りし時(時間軸としては「クマのピアニスト」編後、♯13後)を回想する。観客の立場から、今度は演者としてお芝居をする側に立ったときのお話となっている。
まあとりあえず、16歳の可愛いグレタが見れただけで満足満足。

「きらめき」って結局なんだったんだろう?お金や宝石のような物理的なものでないことだけは確かだ。それはハモンズ劇団が「心のきらめき」お届けしますと広告をしていたように、まさに心の成長に関わる何かとしか言い様がない。人がどのような経験を経て成長していくか、何に影響を受けるかということに関して特定の答えなどはありえない。それは誰かに憧れて夢を追うことだったり、誰かを慈しむことだったり、誰かと大切な思い出をつくることだったり…それらの「きらめき」の中で一番価値のある「きらめき」はどれかというように比較することも出来ない。それはまさに偶然以外の何者でもない。
現在、行動遺伝学等の知見によれば、人の性格を方向付けるものとしておよそ40~50%は遺伝に因るもの、およそ0~10%は家庭環境(極端に低いのは家庭に関するものはほとんど遺伝として受け渡されていると考えられているから)に因るもの、そして残りは不明(友人等との付き合いのポジション関係とか諸説あるけれど)となっている。きっとそれが「きらめき」なのかなーと思います。私自身を含め、あなたの「きらめき」は何なんでしょうね?

「幸福を外に求めるのは、知恵を他の人の頭に求めるよりももっと無駄だ。本当の幸福は自分の心にあるのだ。日が昇っても目を閉じれば暗夜と同じ、空は晴れても濡れた着物を身につけていれば雨天よりも気持ち悪い。」
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