ガラスの仮面と時の流れについて | あざみの効用

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或いは共生新党残党が棲まう地

この記事は漫画放談 @ BLOCKBLOG さま第1回テーマに投稿するためのものです。

出版科学研究所 によると

>2004年のコミックス(単行本)の推定販売額は前年比2.0%減、コミック誌は同2.4%減となった。コミックスは廉価軽装版のリバイバル作品がさらに需要を伸ばしたが、テレビ化作品に大ヒットがなく前年割れ。コミック誌も週刊誌の落ち込みが激しく、長期低落に歯止めをかけられなかった。雑誌離れが進む一方で、コミックスは既刊が振るわず、新刊のウェイトが高まるばかり。また子どもの読者が育たず、大人読者の需要喚起のため廉価版などで名作を再刊行してきたが、それが雑誌離れにつながっている側面もある。

「ガラスの仮面」の新刊について諦めモードが漂う中、突如6年ぶりに新刊を出し、この春からはアニメ化 も決まっている。月刊「ガラスの仮面」、文庫版と色々手をかえ品をかえその信仰心の踏み絵を踏まされ続けていたファンにとっては夢のような日々なのだろうなーと想像します。ただ、これを機会に新たな読者の開拓が望めるかどうかというと期待薄であろうなと思います。それは「ガラスの仮面」という作品の質が落ちたということではなくて、今の子ども(少女)の漫画の読み方、漫画による影響力、漫画の旬(流行期間)の短縮化もろもろ変化したということ。

それは心理描写ひとつとっても個人の内面深くまで潜るような、あるいはわざと複雑にぼかした描きかたが端的に分かりにくいと倦厭されてしまうことや、主人公の設定も努力に努力を重ねて成功を掴み取っていくような能動的、行動的なキャラよりも、恋愛を中心に今の自分をそのまま全面的に受け入れてくれる誰かが現れて~というようなものが主流となっている。

超人的な努力がそのまま報われると素朴に信じられていた時代が終わったことや、「今日よりも明日の方が豊かな生活が…」という輝かしい未来の喪失といったこと、単に充分に豊かになって現状に満足しているだけなのか、背景についていろいろと推測はできるが(それらのどれもが正しいことも)確かなことはわからない。ただ、少なくともいい年をした漫画好きにとっては「スラムダンク」も含めて思い出の一ページを飾る共通の(ある程度の年齢、性差を超えて)話題とすることができたことは確かだ。今の子にとっては「ワンピース」がかろうじて共通の話題となるかもしれないが、そのような同時代的な作品が少ないのではないかと思う(それをかわいそうと思うかどうかは全く別の問題で)。

ただ世代意識というのはかつては社会的事件やイベントにより養われ、やがてそれが何が流行していた時代に過ごしていたかに置き換わった。今流行のスパンが限りなく短期化していくなかで世代意識もまた自然と解体していくことになるのかもしれない。

なんだか思考が拡散しすぎですね_| ̄|○


Comments
紺屋さま本当にお疲れ様です。なにはともあれ第一回までこぎつけられたその行動力にただただ頭が下がります。

投稿記事「スラムダンク」「ガラスの仮面」どちらにしようかと迷った末「友情・努力・勝利」という少年ジャンプ三大要素の「努力」に基づいた記事を寄せさせていただきました。結果的に作品自体の感想からは遙か遠くに行き着いてしまいましたが…。紺屋さま指摘の現状の少女漫画については以前 http://newmoon1.bblog.jp/entry/87175/ でも書きました(2chにカキコしていたのかという点については触れないで下さい)が、安野モヨコ氏に関しては正直食わず嫌い(岡崎氏の劣化コピーというイメージ)でよく分かりません。
commented by 遊鬱
posted at 2005/03/16 01:25
どうも紺屋です。

中間部のところを大変興味深く読ませていただきました。
確かに新條まゆ以降のベツコミ系には首をひねりたくなることが多いですね(性別が違うから理解できないせいもありますが)。

少女漫画の歴史というものは、戦後の女性の意識の拡大、権利の拡大の歴史とパラレルに捉えられると思います。

「いつか王子様がやってくる」というだけだったものが、24年組により自意識の表現となる。そして、その自意識の表現は形を変えながら発展していき、80年代後半から90年代前半に岡崎京子まで行き着く。
自意識の表現という意味では、ここで少女漫画はある程度完成をしてしまったんじゃないかと。

で、今思うと岡崎の後を継いだのが、安野モヨコだったということが一つのターニングポイントだったのではないでしょうか。
初期へ先祖帰りを果たしたのかのような新條まゆ以降のベツコミ系少女漫画の流行は、自身の欲望に忠実な主人公が活躍する(これは表層的であって、本質ではないのですが)安野作品の一人勝ちとも言える受容のされ方と表裏一体の気がしてなりません。
たとえ一緒くたにしては安野に失礼だとわかっていても。
commented by 紺屋
posted at 2005/03/16 00:28