>「親が子に寄せる愛、ときには親自身のエゴイズムから生まれる所有欲であり、子にとって重荷である場合もあるのです。人間の思慮分別など、いつの時代だって自分勝手だったり自己中心だったりする。それは儚いものです。風にそよぐ葦のようなものです。」
寺山修司
現在では家政学というと女性の家庭での営みを教えるものというイメージがあるが、近代以前(17世紀以前)においては、男(家長)がその家の財産(妻、子ども、奴隷、家畜など)を経営する統治学とでもいうべきものだった。
参考文献としてよくあがるのは、クセノフォン「オイコノミトス」、にせアリストテレス「オイコノミカ」
しかし、近代に入り経営合理性は市場合理性という家族の外部に確立していく。家政学から経済学が独立していき、残ったものが現在の家政学というわけだ。つまり男は外に労働に出ざるを得ない立場に追い込まれた結果として女性が家政学を担うこととなったというわけである。経済的合理性を経済学として失ったとき、家政学に残されていたものは情緒的非合理性だったということである。このころから家政学関連の書物(ミセス・ヴィートンとか)には料理のレシピ、しつけ、教育法などが溢れるようになっていく。
家族が情緒的非合理性の共同体として確立せざるをえなかったということは、次のようにも言える。家族(親族を含めて血縁共同体としてもいいかな)は自明の存在としてその存在根拠を改めて問われることのないものであったのだが、理性、合理的精神を核とする近代に入り改めてその存在根拠を問われたことである。
エマニュエル=カント「人倫の形而上学」では、婚約とは男と女の性器の相互使用契約であるとまで言い切るが、穏当なところでもヘーゲル「法の哲学」で要は両性の選択(夫と妻の情愛を核)により新たに作り出すものに変わったということだ。しかし、現在の成熟社会における離婚率の上昇をみても分かるように、恋愛などというヒトの一時の発作的感情を基礎とする家族の脆弱性は言を待たない。
愛という目にはさやかに見えないものを担保するにはどうするか苦悩していくこととなる。「愛しているなら愛していると言って」くらいならば可愛いものだが、「愛しているなら~できるでしょ、してくれるはず」などの言葉遣いは使った瞬間に依頼を義務に変換する恐ろしい呪文だ。まあ、要は眼に見えるものを愛情のバロメーターとすることなんだけどね。
料理のレシピが家政学の書物の一部を占めるようになったのは、手料理=愛情の証となったからだ。そしてなにより愛を物体化(「愛情の結晶」)たる子どもを巡る教育やしつけなどがクローズアップされていく。この分野でいまや古典ともいえるアリエス「子どもの誕生」でイコン分析等を通じた文章はよく読めば、「近代的子ども像は近代の産物にすぎない」というようなトートロジーの類だが、言いたいことは家族が子どもを中心に再編されてきたということだろう。
つまり家族の存在意義は自らの存在の基盤たる子どもを育てること、教育に集約されていく。子どもの受験のために離婚を我慢するとか、子どもの成績を良い家族の評価とするという一見歪んだ認知も家族を営むという意味では正しいとも言える。
でも子どもという実在を基盤としたとしてもこの家族は泡沫であることにかわりはない。だって子どもを一生懸命教育して成人させると別の家族を作ることになる(この辺、現在の非婚化、パラサイトシングルなどの現象は近代家族と少し変わるけれど)のだから。近代家族とは当該近代家族を必然的に解体することを目的とするという泡沫の連鎖システムだ。
>「子どもたちはあなた自身から出たのだから可愛がらねばならないというのなら、唾だって私からでたものだ。虱や蛆だって我々から湧くではないか。」
モンテーニュ「エセー」ホラティウスよりの引用