【収穫逓減】
;投入量を増やしたときに追加的に得られる産出量が投入量の増分が次第に減少すること。
>『私の好む言葉遣いとは単純で自然そのままの、口に出しても紙に書いても同じような言葉遣いであり、肉ののった生気のある短くてひきしまった、きゃしゃで取り繕われたというよりは烈しくて素っ気無い~奔放な言葉遣いなのだ。各々の断片がそこで個体を成していて学者風でも道士風でも弁護士風でもなく、むしろ兵士風なものだ。』
モンテーニュ「エセー」
「現代思想の遭難者たち 増補版」(著)いしい ひさいち
を平積みで見つけてとても懐かしい気持ちになりました(増補版ということで巻末に新作が足されていて、もしまだ読んだことがない人にはちょっぴりお徳かも。ただ新作は時事ネタに頼りすぎていて哲学的射程に欠ける気もしますが、最後にデリダのネタをもってくるのは哲学に対する愛を感じました)。あくまで私にとってですけれど、古典的な哲学に関する「収穫逓減」を感じて哲学本(科学哲学は除きます)を読まなくなったきっかけとなった本です。
世に数多く西洋哲学(史)を一通り一冊で学べると豪語する類の本はあれど、ただ単に用語説明を並べ立てたり、年表と大差ない代物が跋扈する中でこの本は明確に一線を画しています。
きちんと各遭難者(人生の指針たる哲学者を遭難者と言ってしまうセンスが最高です、そして事実正しいのでしょう!)の思想内容、その核ともいえる部分を著者が、わかりやすい笑えるネタに咀嚼して惜しげもなく開陳してくれています。哲学は本来、眉間に皺を寄せて懊悩するためのものではなくて、人生を楽しく生きるための知恵を、哲学「する」ということを授けてくれるもの(その哲学がたとえ悲観的なものだとしても)ということを教えてくれます。
「収穫逓減」と記したのは、別に哲学に限られず感じることが多いから(人はそれをただ単に飽きっぽいともいうw)。知らない未知の学問領域に知的好奇心から足を踏み入れた際、最初は総てが知らないことばかりで夢中に貪り、やがてそれらの知が結びつき自分の中である程度体系だった理解ができるようになると知の「収穫逓増」が起こり、その一番楽しい時期が過ぎると…という話です。その後は次第に既知の知のちょっとした延長上という感覚(あくまで感覚であってその些細な一歩が蓄積されてやがてはパラダイムを変えるようなものに繋がるとしても)が支配することが往々にしてあるんです。
こう堂々巡りを繰り返しているというか、隘路、閉塞感が湧き上がってくる感覚…その場合は完全に撤収、あるいは浮気、放置をしておいて新鮮さを取り戻した頃合を見計らってつまみ食いを繰り返すというサイクルでやりすごす、「収穫逓減」なのかなーと感じるということです。
もちろんあらゆる事柄に関してその域に達するわけでもないし、同じことは決して学問に限られた話ではないですけれど…。そして決して「収穫逓減」しない何かについて考えを巡らすとそれは密接に哲学(皮肉ではなくてね)に結びついていることが分かります。
例えば、あなたが落とした・落とされた一言@恋愛サロン
なんて、それが正であろうが負であろうが恋愛に関する「収穫逓増」へのターニングポイントといえるだろうし、逆に彼女の経験人数
なんて個体の質の「収穫逓減」を量でもって補おうとするなにかと読むことが可能だと思います。
これまでさんざん「恋愛」だってそんな神聖視しなければならないような(しても勝手です)類のものではないと書き散らしてきたわけですけれど、その効能についてはこのような見方もできるということです。「愛」とはコストとメリットの天秤(そして左にぶれたり右にぶれたりする)ものとしてイメージしてきたわけですが、その際に支点そのものが徐々に右に寄ったり、左寄るその際にこの概念を盗用するとよりビジュアル的なイメージが掴めるような気がしません?最近だと弁償するとき目が光るさま「愛を知る者は愛を説かない」
の話なんてとっても説得的でした。
「収穫逓減」を避けるためにどうするか?そのためには新奇性、ハレの儀式を定期的に取り入れるのが一番、そのために色々とイベントが用意されているんです。金婚、銀婚式みたいな古いものから、クリスマスとかバレンタインとかね…。もちろんそのイベントも資本主義とごっちゃになることでこれまたさんざん書き散らしてきたように愛の量が換算されてしまう以上、そのプレゼントにかかる費用と効果などで「収穫逓減」の射程に落ちるんですけれどね。最初は言葉だけで満ち足りていたのに、せめて花一輪いずれは宝飾品、服飾へと…イベントが日常へと転化する、それが当然なものとなったとき、賦役となる。
もう一つは、最初から沸点を低くしておくことだと思います。それを愛というか友愛というかは別として逓増させたから逓減するんです、最初から一定量を保てばいい、そう思うんですけどね。
>『私達は書物と親しんで生きればそれに応じて生の全体験像を体験できるのである。けだし書物の愛好者は世界を驚くほど多元的に、ただ自分自身の眼でのみならず、無数の人の魂の目で見、その人達のこの上ない助けをかりて世界の隅々まで生き渡ることができるのである。』
ツヴァイク「書物の役割について」