12月25日放送 最後のレッスン~キューブラー・ロス 死のまぎわの真実~
を見てから釈然としないというか、喉骨に何かが刺さったようにずっとひっかかっているような思いがしていた。
その内容、キューブラー・ロスの生い立ちの詳細については考える脳髄+αさま
を参照ください。
番組内容の過半を占めたキューブラー・ロス氏の生い立ちと、それについて柳田と山崎氏がエセ科学たる精神分析を繰り広げる姿はともかくとして、死の専門家であった彼女の最期の姿が目に焼きついて離れない。
彼女はそれこそ死の専門家として数え切れない患者に面会し、どのようにして自分の死を受け入れるかをその過程を詳細に見つめ続けてきた。そして実際に彼女自身が自己の死に直面したときには、当然のもととして従容と認容するものと期待してきた。
脳卒中に倒れてから何年も不自由を強いられ、ある種プライドを傷つけられるような日々を過ごしてきたならばなおさら死を喜んで受け入れるのではないかと。
しかし、彼女はインタビューの前だけでも聖女として振舞うこともできたにも関わらずそれを拒否する。生への執着を示し神への恨みごとや死を認容できないことを赤裸々に語る。それもまたメッセージだとしてそのように振舞ったのはどうしてだろうか?
それまでのキャリアのみならず、夫との離婚の原因ともなった死後の世界を信じての霊媒師との交流もいざというときには頼りにならなかったということであるとするならば、死を従容と受け入れられるか否かは何によって定まるのか?
死を間際にして名誉など不要なものと考えたとしても、死を受容することの困難さを身をもって示そうとしたとしても、何かが釈然としない。おそらくそれは私の解釈であって見たいように見ているに過ぎないのだろう。
最期に彼女を支えたのは、それまでのキャリアでも信仰でもなく、子どもたちという家族の愛情であったかどうかは彼女自身の証言がない以上なんともいえない。ただ、映像の残酷な点は孫の写真や子どもたちに囲まれた姿は死を従容と受け入れているように見える。家族(=子ども)の存在は彼女が生きたことの証、彼女がたとえこの世からいなくなっても続く生の証だったのだろうか?
その綿々と自分の血(遺伝子)が続いていくという思想が、永遠の宇宙の前には生という現象さえも瞬きに過ぎないとしても…?それは余計なお世話なのだろう。死の間際に有効な幻想を紡ぐことが総てなんだ。
おそらく私は家族に見守られることなく孤独のうちに死を迎えることになるだろう。そしてそのことを今から覚悟している。しかし彼女の例はいくら事前に覚悟を決めていたとしても、いざ迎えたときにうろたえる可能性があることを示す私にとっては見たくないものだったからだ。
他者の死を受け入れるという経験は積める。しかし、自分の死は一回限りでそれまでの経験なんだ。
>「死は既に過ぎてしまったか、これから来るかのいずれかである。死の中には現にあるものは何も無い。」
(ラ・ボエシー)
>「楽しみを摘み集めよう。今生きている時だけが我々のものだ。やがてお前は灰となり、死霊となって人の語り草となる。」
(ペルシウス)
モンテーニュ「エセー」