時間への疎外 | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

旧時間論② の延長戦。
参考文献;真木悠介「時間の比較社会学」

>『死すべき我々人間にとってどのような道も決してどこへも連れていきはしない。道が美しい道であるかどうか、それを静かに晴れやかに歩むかどうか、心のある道ゆきであるかどうか、それだけが問題なのだ。

所有や権力、「目的」や「理想」といった行動を終えた所にあるもの、道ゆきの彼方にあるものに価値ある証はあるのではない。

今ある生が空疎である時、人はこのような「結果」のうちに行動の「意味」を求めてその生の空虚を充たす。』
                      真木悠介「気流のなる音」

時間とは人が自分の死を認識するようになった結果、その有限性を測る尺度として浮かび上がった概念だと考えている。

もともと絶対的な尺度として時間が存在するわけではない。あくまでも観測する「人間」があって初めて存在し、そしてその流れも観測する場所(速さ)によって異なるというのが相対性原理の明らかにしたところだ。

死すべき存在がその生の証、意味を担保するものを委ねる何かを考えるとき人は自分の一生よりも長く在るもの、自分の生前と死後を考える。すなわち人が想う時間とはこのとき永遠と同義になっている。

具体的に永遠を重ね合わせる対象はかつては悠久かつ荒涼とした自然であった。食の確保こそが最大の課題であり、かつその獲得は自然の恵みに頼るしかないという不安定な狩猟社会においてそれはまさに「自然」なことだったといえる。人は死ねば母なる大地に委ねられ、子孫を見守ったり、転生するということになる。

次に農耕社会が成立し(自然を加工する)、一つ所に定住可能となった時、対象は自然から神へと移行した。最大の関心事が食からその他、死後の世界、心の平安といった恒久的な社会の維持へと向かったことによる。大半の宗教において(個人ではなく民族救済を掲げるユダヤ教、瑞穂の国における天壌無窮を約束する神道では個人がどうなるか不明)永遠の生を約束することがその救済の核となったのは当然のことである。

そして現在「神」が何ものにも移行することなく危篤状態が続いている(ニーチェが確かに死亡診断書をだした筈だったのだが、昨今の世界情勢をみるとゾンビが蠢いているとでもいう方が正確か?)。

「永遠」は各人の問題となった。そもそも「永遠」が必要か否かというところから始まり、必要とすればそれは何かを見つけ出さなければいけなくなったといえる。

そのような問い自体無意味、毎日忙しいんだという意見もあろうか?これを時間からの疎外という。時間不足をどんなになげこうと、あがこうともいかんともしがたいということだ。物理的にも一日は24時間以上にはならないからね。

>『「明日は明日こそは」と人は人生を慰める。この「明日」が彼を墓場に送り込むその日まで』
                            ツルゲーネフ

中には永遠の愛、永遠の友情といった人間関係に見出すものもあろう。永遠の輝き、ダイヤモンドといった物に見出すものもあろう。永遠(不変)の真理といった知識に見出すものもあろう。それらに貴賎は一切無い、客観的に第三者が評価すればどれも永遠でないことは明らかだからだ。単純に永遠を評価してくれる人は永遠には存在しませんから。

永遠がないから永遠を必死になって探すことで時間への疎外が起きる。永遠を見つけることが目的だったはずなのにいつの間にかに時間そのものを求めることへと目的が変わること。しかし、よくよく考えると疎外というよりも不純物が取り除かれたともいえる。

永遠ってそんなに必要なのだろうか?この世に生まれてしまった(自分で選択したわけではありませんから)からには、生きている限りその快楽を最大限に充たせればそれで十分満足できると思うんですけれど、そのような生き方は「超人」にしかできないとは思えません。また、そのような生き方を選んだとしても他者に対する共感(自分の身に置き換える想像力)からほどほどの倫理は成り立ちうるというのはやっぱり甘いのかな?

とりあえず、そんなに永遠が見たかったら暁生さん にでも見せてもらってください。

>『未来もなく過去も無い。厳密な意味では過去、現在、未来という三つの時間が存在するともいわれない。おそらく厳密には過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在という三つの時間が存在するといわれる。

実際、この三つは何か魂の内にあるもので、魂以外のどこにも見出せない。過去についての現在とは記憶であり、現在についての現在とは直感であり、未来についての現在とは期待である。』
                     アウグスティヌス「告白録」