>『大人になってゆくということは恐ろしいことだ。もはや信じるものもなく実りもない時、そんな時を持つのではないか
(中略)
様々な経験で偏ってゆく人生の終りで一体無傷の何が人に残りうるだろうか?人は何よりも自分の罪科ですりへっていくのだ。けれども人間は弱いのだ。』
笠原嘉「ユキの日記」
憶えているだろうか?幼い頃の自分の回りを流れる時の流れを。それは恐ろしくゆっくりとしたものではなかっただろうか?一日、一日が長く、四季の移り、そして誕生日を迎えるということが一大イベントではなかっただろうか?
それは3年しか生きていない人間にとって1日と、30年生きている人間にとっての1日では、その全生涯における一日の長さとして10倍違うというように考えることもできる。確かに歳をとるごとに時間は早く流れるように感じられるが、それは一定の割合だっただろうか?あるときを境に急激に早くなったのではないだろうか?
心理学における時間の研究では、物理的時間(クロノス)と心理的時間(カイロス)の差がどのようにして生じるのか検討している。例えば、退屈な授業の1時間は気絶するほどに長く感じるのに、趣味に没頭している(恋を語らうでもいいですよ~)1時間のなんと早く感じることか、双方の間に同じ時間が流れているとは到底承服できない。それは基本的に情報量によるものと考えられている(ただその結論は相反しているというのが面白いところ)。
脳が多数の情報を処理するとき、その時間は長く感じるというもの。つまり脳が多く働くことによって、働き量を時間に換算して感じるというもの。例えば会議での発表で目いっぱい周囲に注意を払い、発表内容を脳内でリハーサルするといった緊張しているときなど、その時間は非常に長く感じるだろう。
ただ、一方で多数の情報を処理しているにもかかわらずその時間が短く感じられるということもある。それはさきにあげた趣味や恋愛にかけている時間だ、このときも脳内はフルに活動しているだろう。とするとその差は?現時点ではそれは情報の質によるとしか推測できない。それははっきり言うと本人がその情報を好きか、嫌いかということ。
更に矛盾する実験もあって、それは情報処理がほとんど行われないときほどその時間は長く感じられるというもの。先の例で言うならば退屈な授業というやつです。ただしこの点は他に脳内で処理することもなく、時間の経過にのみ意識が集中しているからではないかと考えられてもいる。
時間の流れが情報量とともにその情報の質に左右されるとするならば、原点に戻ると大人になるということ、時間の流れが速く感じられるようになるということは、あまりにも情報過多にそれも自分が不快に感じられるような類のものに囲まれていないませんか?ということです。
子どもの頃は覚えなければいけないこと、知らないことが山ほどあったけれどそれらを知ることはより世界が広がるワクワクすることばかりではなかったでしょうか?私はその境界は自我が目覚める(自分について悩む)、遅くとも思春期にあるのではないかと想像している。世界に流れる情報が決して自分を祝福するものではないどころか、むしろ嫌悪感を覚えさせるもののほうが多いのではないかと。
それはいつまでも天使ではいられないということ、たびたびフレーズとして使用していますが「無垢は無知に由来する」ということ。それは一時いやに潔癖になって回りの大人が皆、汚れてみえるということにも関係あるのではないでしょうか?自分もやがてその汚れた大人にならざるをえないということをその心の襞で受け入れていく…。
>『時間とは一言で言えば、ゆりかごから墓場までの心の旅である。』
H・G・ウエルズ