パンドラ | あざみの効用

あざみの効用

或いは共生新党残党が棲まう地

内田教授【「メトロポリス」型学校】

>「幼稚園から大学院までを収容する30階建て高層ビル」がなぜ私を恐怖させるか、その理由がここまで書いてやっとわかった。それは「時間がすみずみまで空間的な表象で語り尽くされた情景」そのものだからだ。そこで損なわれ、汚されているのは「時間の未知性」なのである。

【パンドラ】 の逸話はさまざまな寓意を含むがゆえにたびたび用いられてきた。引用させていただいた、内田教授の記事の嫌悪感は残された未来(=希望)への冒涜行為に基づくのではないだろうか?あえて奇麗ごとを書くならば、子どもは未来の象徴であり希望そのものを体現している。それがその最も可塑性に富む時分、世界に対し目を拓いていくときにその世界を閉じてしまう。

>『鳥は卵から無理に出ようとする。卵は世界だ。生まれようとする者は、ひとつの世界を破壊せねばならぬ。』
                    ヘルマン・ヘッセ「ダミアン」

まさに雛鳥を卵の中に戻す、あるいは鳥籠の中に閉じ込める行為といえる。いずれ大人になれば世界の広さがいかばかりかなどは嫌でも知らなければいけないときが来るというのに…ね。ここで記したように【教育強迫家族】 という親の事情はともかく、そのような環境で育つ子どものイメージは無菌、無色透明のプロダクツです。

もちろん、子どもの可能性が無限大というような戦後教育の幻想はあらゆる意味で打ち砕かれたことは百も承知です。それは日教組主導の悪平等論とかいうことではなくて、端的に家庭の経済事情がもろに教育環境に反映するという二極分化と子どもの学力(=あくまでも知能検査で測れるところの知能)が50%ちかくは遺伝で説明されてしまうということにある。

ただ、身も蓋もない事実もそれはそれとして、戦後の平等幻想がまた社会の連帯を支えてきたということをも見逃してはいけない。子どもの未来について希望を抱ける社会と抱けない社会のどちらがいいのかな…。


そのような考えも充分に近代に毒されているんだけどね、子どもの未来を特別視して教育を施そう、環境を整えようというのも子どもの可能性を信じていないという点では同じなのかもしれない。どのような環境にあろうと芽吹く、可能性を発露させると思えるのが真の信頼なのかもしれない。

家族を担保するのが「恋愛」という目には見えないものであり、その不確かさを担保する物象化したものが子どもというのは先に述べた。また、生の虚無に耐えるために自分が生きた証として自分の死後も残るものということもある(それだとまさに遺伝子の乗り物だけどね)。子どもを神聖なものとして特別視するのが未来を体現するからとするならばそれは…どういうことなのか?

>『パンドラは諸々の禍の詰まった箱を持ってきてそれを開いた。最後に希望が残ったが実はこれこそ禍のうちで最も悪しきものである。希望は人間の苦痛を引き延ばすからである。』
                ニーチェ「人間的なあまりに人間的な」

でも未来に希望を抱くというのはどういうときなのかな?現実に充足していれば未来なんてどうでもいいし、世界が自分を肯定するものに包まれているわけだから未来も現実の延長に過ぎないはず。するとそれは永遠の命、復活のような夢物語でもなければ耐えられない脆弱性の証?現実が厳しくて未来は報われると思わなければやっていけないということ?

前者については以前「無神論」 で記したけれど、後者に関してはさらに皮肉な感慨しか覚えない。

希望が必要なときというのは希望がないとき、でもそのようなときに希望って抱けるものなの?希望を求めるのは希望がないからでしょ?希望を持とうと願えば願うほどに遠ざかる類のものなのではないのかな?

一応、前者についても補足しとくと、

>『生きた信仰とは基本的に未来への信仰である。だから信仰を鼓舞する人々は未来を見通すことができなければならないし、彼(=教祖)の導きの下に総ての出来事が生じ、それがたとえ大惨事であろうとも予知され、予言されていたという印象を与えねばならない。』
              エリック・ホッツアー「情熱的な精神状態」

こんな感じ。当たるも八卦、外れるも八卦の占いでは不味いわけです。そのことを認めた時点で未来の手綱を手放すことを意味し宗教としての存在理由を放棄すること同じだから。

未来も現在も過去も総てを幻想とはいいません、個人のなかにあるし、社会的に存在している概念でもあるから。ただ、過度に過去や未来に縛られることはあまり健康的ではないです、もちろんあまりにも享楽的であることもまた健康的ではありませんが…。

私にとって現在を大切にすることがそのまま永遠でもあるんですけれどそれもある種の信仰といえば信仰ですからね。

>『荒れ狂う海面の荒波も大洋の底までは騒がすことはない。広大でかつ永久的な視野で現実を眺めている人にとっては個人的な絶え間のない浮沈は比較的無意味なものに見える。

従って真に宗教心のある人は動揺せず平静に満たされている。そして時がどのような義務をもたらしても静かな心構えが出来ている。』
                           W・ジェームス