昨日は本当は勝利宣言(笑)をしようと思っていたところに、突然の訃報。そのままただただ泣き暮れていました。おかげで今日は泣き疲れたせいか身体がだるくてだるくて…。昨日は目の前が真っ暗になりつつも、鞭打って記事だけメモしましたが自ら文字を起こす気力はありませんでした。なので改めて・・・。
ただただ空気、世論、論調に同調するのは嫌、だからといってただただそれらに反ずることをもって片意地、陰謀論で悦るのも嫌…と、それらを俯瞰しているかのごとく空中楼閣でメタメタしているのも嫌としているうちに結局、百科全書派
道化和えに落ち着いたのかな…。でもね、いくら自嘲を籠めてプロフィール欄に『皮肉屋は人の良い特性を決して見ないが、悪い特性は決して見落とさない。梟のような人間で暗闇の中では油断なく見張って害虫を密かに狙うが光には目を閉じて立派な獲物には見向きもしない。』(H・ピッチャー) なんて書いて見せたりもしましたけれど、真実の輝き、太陽を前にしたとき感じざるをえない、己の卑小さ…を感じたとき世界が変わります。
それは、決して不快なものではなくて、世界がまるでモノクロから鮮やかに色づくのを感じるような感覚。「希望」がないないといわれるこの世界で具体的に「希望」を設計できるということ、そのこと自体が「希望」であって、また希望ある人間はどこまでも強くあれるということを示すこと、そして関わる人を希望に普通に巻き込めること…。
…貴方は私の太陽だった。
貴方のおかげで都市そのものに興味を持つようになりました。
貴方のおかげで建物そのものに興味を持つようになりました。
街を歩くだけで景色がまったく異なって見えるようになりました。
貴方のおかげで社会福祉とは環構造のものだとしりました。
貴方のおかげでノブレスオブリージを信じられるようになりました。
貴方のおかげで愛の存在を信じたくなりました。
貴方のおかげで…胸を張って支持できる政党ができました。わずか半年ちょっとの期間でしたがとても幸せな幸せな時間でした…。
本当にありがとうございました。
各紙、各マスコミがこぞってとりあげる破格の扱いに、黒川党首に接触したマスコミの人たちに少しでも感ずるところがあったのかととても誇らしい気持ちになると同時に、愛ばかりをクローズアップしてもっとも肝心な希望が埋もれてしまうことに歯がゆさを覚えてしまいました。まあ、圧倒的な悲しみの前には些細なことですが…。本来、黒川党首を送るにこんな湿っぽい言葉よりも
→http://ja.uncyclopedia.info/wiki/
黒川紀章
くらいなほうがふさわしいこともわかっています。泣くのは今日で終わりです。共生新党という理念、即ち実現できる希望を設計するということは共生新党という枠を超えて共生新党に感銘を受けた人間の心に受け継がれていくと信じます。
本日のスポーツ報知 25面より(黒川党首を知るには、スポーツ紙の記者の愛情のこもった記事群を読むが一番です)
言葉がそのまま建築に 理論家というよりも形態の詩人だった
ドクター中松氏
>「テレビで知った。非常に残念です」と声を落とした。最後に話したのは、約一ヵ月半前。中松氏から電話をかけて、今後の共闘を誓い合ったという。「『一緒に天才党を作りましょう』と持ちかけた。向こうもいい反応をしてくれて、今後じっくり話し合う約束もしていたのに…」
>「自民党も民主党もダメ、2人の『天才党』で良い政治が実践できるチャンスだったのに」。タッグ結成の夢はかなわなかった。
大川総裁
>「やり残したことが相当あったと思う。一度は当選させて、政治家として働いてほしかった。非常に残念だ」と肩を落とし「黒川さんは命を縮めたかもしれないが、ほかの政治家よりずっと楽しく活動していたと思います」としのんでいた。
川添登さん(建築評論家)
>「1960年の世界デザイン会議で、丹下健三さんから準備を指示された私の助手を務めたのが黒川さんだった。会議を機に未来の都市デザインを提案しようと、菊竹清訓さんや黒川さんらとメタボリズム・グループをつくったが、そのころ彼はまだ大学院生だった。彼の作品は『カプセルタワー』などのように、言葉がそのまま建築になっていた。そういう意味で彼は天才であり、理論家というよりも形態の詩人だった。天才だけに人生を急ぎすぎたのではないか。建築界が寂しくなった」
以下 共生の思想~共生新党第一回党大会~
第二部、生まれてはじめての夫婦対談
なぜ第二部に関して文字起こしを控えていたかというとまさに、上述したような愛に関わる問題。私は「愛」の部分も含めて大好きなんですけれど、「理想」部分を純粋に評価してもらいたかった(笑いに関してはむしろ積極的にメモしていたの、その躊躇がどこに根ざしているかといえば、それは今回黒川党首が文字通り命を削っていた部分を微塵も出さずに最後まで明るい選挙を貫き通したことと、川田議員の差かな。これは別に批判の意図はまったくないです。単に美学の問題です)から。前置きはこれぐらいで純粋に起こしてメモしておきます。
紀章
>「お久しぶり(会場笑)まーこういう形になっちゃったんだ、本人びっくしたと思うんですけども、選挙制度というのはこういう風になっていて比例区というのがあるからそれに出てみないかと。あれ最初聞いたときは相当吃驚した?」
文子
>「そうですねーなんだか・・・と、だいたい私はそもそも新聞で読むか毎日ニュースで見るぐらいしか選挙にはほとんど縁がない生活してましたから、今でもわからないに等しいですけれどね。とにかく、その…あの残る人生をね、私もそうですけど国のため、人のため少しでも役に立ちたいという気持ちは私ももちろんよく分かりましたし、それにそれまでちょうど考えたことなかったんですけども、それを聞けば確かにそうだった。私も実はもう50年以上自分が好きだと思う道をこうやってやってこられましたしね。そのためにはたくさんの人に意識してもらって助けていただいたわけですから、この辺でもう明日死んでもおかしくない」
紀章
>「それは困る、愛妻弁当を私に」(会場爆笑)
文子
>「残る時間をそういうふうにつまり自分以外のものの少しでも役に立てられたらこんなにすばらしいことはないなと改めて思ったんです。それで今回こんな大それたことをやることになったのですけれども、私は悲しいかな、ユーモアのひとつも解さない野暮な人間だから話はちょっと・・もう」
紀章
>「正直に語ってくれたと思うんですよね。僕が・・そうだね、始めようとしたときにもちろんお願いはしたんですけれども(会場笑)、しょーがないわねという感じでじゃなくて、やっぱりこういうときに話をしてみると、舞台と建築という違いはあっても共通してもっている感じはあるよね?」
文子
>「まあ、仕事はしているという意味でね。」
紀章
>「それに今度の選挙は参議院ということもあって、参議院というのは専門家集団であるべきだと思うだよね。弁護士とか…女性代表であるとか、お医者さんであるとか、け建築家であるとか、スポーツ選手であるとか、歌手であるとか、作曲家であるとか…そういうそれぞれの分野のベテランが衆議院で殴りあったり、髪の毛引っ張ったりしてやってきたのを参議院できちんと冷静に判断する、そういうことが機能する。今は予算は参議院がなくても通っちゃうからそういうのって反対なんですね。やはりねアメリカの上院とかね、参議院も通らないと予算が通らない。
そうすると、もっとね、僕が重要な人物とは思っていませんが、もっと参議院にふさわしい人がでてみようと思うと思うんだ。今はまるで衆議院から見ると参議院いらないんだよというこという人もいて、そういうのって政治が腐ってきますよね。なんか一院制って軍事政権みたいになっちゃう、批判者ゼロだったら軍事政権です。だからやっぱりね、参議院はね、うちの家内も私もすごく忙しいけれど、仕事にねそれを十分にやりながらびしっと専門家の立場から政治にものをいう。そして国民のみなさんの意見を我々が国会に届ける。そういう点で、さっきも記者会見のときちょっと話をしたけれど、舞台ひとつを座長としてやりとげるってのは身体だけじゃなく大変でしょ?」
文子
>「ええ、まあ、でも建築家であれ、あの好きな道をやっているのでそんなことはないですけれどって…対談になりませんねこれ(会場笑)」
紀章
>「いえいえいえ、あのー僕も詳しく知らないんだけれど、ひとつのこう舞台を作っていくときに座長っていうか…」
文子
>「いや別に・・座長って言い方嫌いなの」
紀章
>「そうなんだ、座長とか組長(会場笑)という言葉はあまり言わないの?」
文子
>「言わない、いや言うかな?座長って呼ばれることを好きな人もいるし…。」
紀章
>「座長ってどういう責任があるの?」
文子
>「要するに座長って言うのは一番の主役であって、主役って言うか…」
紀章
>「座長は脇役を好きに決めていいの?座長は」
文子
>「いえいえいえ、そんなばかなことはないです」
紀章
>「じゃあ僕は座長はやれないな、自分が主役をやるのにこういう人を並べたいというのはあるじゃない?」
文子
>「いやーそのどうでしょう・・昔はあったかもしれませんね」
紀章
>「じゃあ、今は誰がやるの?」
文子
>「プロデューサーであり、配給会社であり、俳優は普通はそういう権限はもたされていない。人によってはそういう横暴なする人はいる・・・らしい(会場笑)。でもそういうものはやや過去になっており、今はもっと若々しい時代ですからそんなことは多くない。」
紀章
>「でもあのー僕は、一緒にアメリカよく行ったじゃない、アメリカできくとひとつの舞台でも一日おきに二人が主役やるときがあるとか」
文子
>「まずね、この一日2回やるという制度が日本だけらしいんですよ。よく向こういったときに一日土曜日二度なんて言うとみんな仰天しますよ、能力としてはありえないっていわれますけど。でもそういうことになっているから、でもね不思議なんですよ俳優って。今日は朝から二度やるから多少力をセーブしてやっとこうと思うと思いそうでしょ?でもこれがないんですよ。やっぱり欲があってね、一回これ一回だけと思うから次のことは考えない。だから良いんでしょうね。」
紀章
>「まあ、職人でも僕らだってそうだけど、これはまあ予備でね、次が本番だといったらだめだね。一作、一作が命の限り、でも作ってみたらもうちょっと・・と人生だってそうだよね。一日一日が全力投球で明日あるかわからないけれども、また次の日起きて生きていたらまた全力投球と。あのー建築家でも弟子っているじゃない。世界的なチームだからみんな国籍も違うし、じゃあそういった連中に僕が黒川紀章設計論って教えられるかというと教えられるわけがないもん。役者が若い人を育てるときに学校みたいなものがあると思うけれど・・」
文子
>「あんまりないです。一回アメリカハリウッドの学校行きましたけれどああいうことってないです。」
紀章
>「結局、誰が手取り足取りではなくて自分で先生がやっているのをみて何か掴んでいく」
文子
>「口で説明してわかることじゃない。もしそれが説明することでよくちゃんと出来てだったらその親から子に受け継ぐ人はみんな優秀になる・・」
紀章
>「歌舞伎とかそうじゃない?」
文子
>「ええ、まあ、そのみなさん優秀な後継者がいるからいいんですけれど、やっぱり教えられるものじゃないんじゃないですかね」
紀章
>「一緒に泣きながら勉強して・・まあ今話しているようにポスターにはあの共生新党は経済と文化の共生というのはこういう意味なんですけれど。もうちょっと具体的な最近の経済論でいいますとね。ご存知のようにあのマルクスから始まり、ケインズへ行って今は市場だとか供給だなどと言うんですけれど、一番ね今世界で起きていることで紹介したいのはね、日本語にはまだ翻訳されていませんが紹介したい本があって『ライフ オブ クリエイティブクラス』という本がある。ホワイトカラーというとサラリーマン、クリエイティブクラスというのは脳の中で新しいことを考え出す能力がすごい金を産むぞと。
アーティストとかアニメーションとかコンピューターソフトとか映画とかみんなその想像力で例の料理ですらそう。そういうのが芸術のポイントなんだと。鑑賞するときもたとえピカソの絵だって、自分の人生を重ねてみて自分なりに感じると。国立新美術館だって私には作家として言いたいことはあるんです。
僕は川端康成に話を聞いたことがあるんですが、「小説書くときにこう読んでほしいというのはあるんですか?」「ある」と。「読者がちゃんとそういうふうに読んでいると思いますか?」「そうは思わないねー、自分で解釈して読んでいるんだよ。で、いろいろな読み方ができるのが芸術なんだよ。」職人芸だなーと。自分の方で感性がないと相手の感性に気づけない。今までの教育は科学技術ばっかり教育してきたから絵を見て感じられない、人の心を読む、舞台などの芸術に感動するというのをそういうのを失っている。だから経済だけになっている。経済は計算できるから、金儲けになる。株で何円上がったという世界になる。芸術とか文化には株と違ってこっちが上でこっちが下というのはない。
その人が一枚の絵をいくらで買おうがその一枚の絵があるために自分の人生が豊かだと思えればそれはいくらで買ってもいいんです。建築でもなんでもそうだ。地方の文化というのは何か、地方の文化というのはその人たちがその人なりに最高の野菜を作る。それを築地市場にもってきたときにトマトの大きさが同じだからと評価したらだめなんだ。みんな形は違うし、でこぼこしてるけれどもものすごく美味しいじゃないの、この部分が日本から抜けている。こういう新しい経済のことをクリエイティブエコノミィと言います。今僕が翻訳しています、日本語で言うと、文科経済学とか創造性経済学といいます。そこに今、共生新党のやろうとしていることがある。
今、アメリカではファッション、グルメ、建築、アニメーション、映画産業それが防衛産業よりも自動車産業よりも増えちゃった。アメリカ経済引っ張っているのも、イギリス経済引っ張っているのも文化。日本が遅れている、日本の経済成長を保っていくためにはどうしても文化の創造性が必要。それを支えようというのが共生新党ですから、文化だから経済知らないとか、儲けてくれた金を道楽として使うというのとはまったく違う。我々が経済の活気を取り戻してやろうと、我々が地方の地場産業の力を活性化させるそれが文化の力だ!あとは詳しくは帰ってからマニフェストを読んでいただきたいのですが、その中の重要な考え方です。
年金は同様に金額だけじゃないですね。年金額をあと2万円多くもらっても家賃があと2万円高くなったらどうするんですか?そうでしょ?だから住宅政策、国交省。年金、厚労省、医療負担、環境そういうもの全体を含めて老後の幸せ。それが共生新党の言う総合的な老後の安心。最後に私が専門家として付け加えたいのは日本には大震災が必ず来る。その対策が出来ていない、共生新党は緊急5ヵ年計画を作る。そのためには800億の予算をとって、各自治体でまず緊急計画を作る。木造二階建てが怖い、それを鉄骨で補助する。まずそれをやる、この耐震補強は全額国がやる、1兆1000億ぐらい。その後希望者から耐震診断する、これも国がただでやる。金がかかるのは耐震受けてだめだといわれた後、それは国でできない。これから作るものを絶対大丈夫なように耐震チェックする。
安心と安全を金をかけて作っていく、それも5年でやる!これが具体的な共生新党の党の柱だと申し上げて今日の対談を終わりたいと思います。ありがとうございました。
- もやしかもねさん、おはようございます。
残念ながら当該番組は見れませんでした、昨晩NHKでやっていた「世界わが心の旅 ロシア建築と初恋に燃えた日々 旅人 建築家 黒川紀章」を見て…昨晩更新できなくなったのはそれが原因です。
私のような人間が「愛」を信じたくなったのは、実際に二人が寄り添っている姿を拝ませていただいたからですのでもう本当に最後の言葉は堪らない・・です。
・子供の笑顔、質素な食生活…選挙戦密着記者が見た「人間・黒川」
>4月の都知事選と7月の参院選で黒川さんを密着取材し、パーティーに招待されるなど個人的親交もあったサンケイスポーツの山内倫貴記者(36)が、黒川さんの素顔や人柄などを振り返った。
>黒川さんを初めて取材したのは同氏が設計した東京・六本木の国立新美術館だった。なぜ世界的建築家が都知事選に出馬するのかと尋ねると、「ロシアのサッカースタジアムのコンペが通ったときの賞金が、約300億円ありますから、選挙費用は大丈夫」。黒川流のリップサービスだったが、それでも年収約1億5000万円、総資産は約11億円と推定される。潤沢な資金を使って、独自の選挙戦を展開した。
>自家用クルーザーやチャーターヘリを駆使。選挙カーには1000万円を投入した。本当にマイペースで破天荒な活動だったが、食生活が意外なほど、質素だったのには驚かされた。
>都知事選前のある日、午前中に事務所を訪れると、ピーナツをかじりながら新聞を読んでいた。「朝は時間がないので、千葉産ピーナツと、奥さんが買ってくれるにんじんジュース」といい、「昼は奥さんの愛妻弁当を楽しみに食べるの」と子供のような笑顔で話した。
◆愛妻弁当。・゚・(ノД`)・゚・。ウエエェェン いつもいつもさりげなく奥様を愛していることを誇らしげにそして自然にお話されていましたよね。
>参院選の選挙期間中にもかかわらず、7月20日には、約6000万円の新クルーザーの進水式を行う型破りな行動も。特別に乗せてもらい、東京湾を約30分ほど、クルージングした。デッキで海を見ながら、「キミ、彼女いる?」と突然きかれた。そして、「正直、ボク、党首をやめて奥さんとのんびり暮らそうかな」とポツリと漏らす場面もあった。
>そのあたりから、ほおはこけ、衰弱が目立つようになった。テレビカメラがなくなると、かばんから大量の薬を取り出し、こっそり飲んでいた。最終日(7月28日)に「あなたは選挙のメーンの自民党の取材もしないで、落選確実の私ばかり取材する。きっと会社では上司によく怒られる駆け出し記者だろ」と声をかけられた。図星なのだが「けど大丈夫。のびしろがあるということ」と続けてくれた。疲れた表情だったが、思いやりはいつも忘れなかった。
>あの温かい言葉は今でも耳を離れない。ありがとう、黒川さん。合掌。
◆最高の記事をありがとうございます、黒川党首にのびしろを保証されたのですから全力でがんばってください!!!
★福田首相「新しい建築の道開いた」
>福田康夫首相(71)は黒川氏死去の報に「私もお付き合いがあったので、ビックリしました。選挙でも元気にやっておられたが…」と記者団にコメント。「天才的能力を発揮して、新しい建築の道を開いたと思う」と話していた。
◆黒川紀章氏と同じ故丹下健三氏の門下生だった建築家、磯崎新(あらた)氏(76)
>「突然亡くなり大変驚いている。世間では、私とはライバルで衝突していたとみられているが、それは理論上のことだけ。今までにないものを作るという点は共通していた。彼は深い形で才能があり、専門家としてきちんと仕事をした。(政治の世界に踏み込んだのは)やることはみんなやったと思ったからだろう」(サンケイスポーツ 10.12)
◆石原なんぞでなく総理と磯崎氏のコメントをとるあたりに最高の愛情を感じました。サンスポ最高!!!
・若尾文子沈痛「2人だけで対峙できない」…黒川紀章氏急死
>約24年連れ添った夫を亡くした女優は涙を見せなかった。本名の黒川文子として、喪主として、気丈に振る舞った。通夜は、今月20日に黒川氏が講演を予定していた港区内の寺で営まれ、親族や黒川氏の設計事務所の関係者ら60人以上が参列。密葬だったため報道陣に公開されなかったが、弔問客らによると若尾は泣くことも取り乱すこともなかったという。
>参列した黒川氏の元秘書によると、若尾は沈痛な表情だったといい、座って弔問客におじぎをしていたという。黒川氏の高校時代の同級生という男性は「きょうの若尾さんは凛としていた」と話し、口元を震わせた。若尾はこの日午後3時前、亡き夫とともに車で港区内の自宅マンションから出発。喪服姿で後部座席に座り、詰め掛けた報道陣約20人に対し、窓を開けて「皆さんがいると、気が紛れます。でも2人だけでは対峙できないですよ、まだね」と憔悴しきった表情で通夜へ。通夜では最後まで残り、午後8時前に車中から報道陣に会釈して寺を後にした。
>祭壇の遺影には、15年前に海外で黒川紀章展を開いたときの写真が使われた。若尾のお気に入りで若尾が選んだという。元秘書は「遺影は笑顔のいい写真でした。(棺の中の)黒川も非常におだやかな表情でした」と話した。戒名は「至聖院範空功道居士(しせいいんはんくうこうどうこじ)」。
>葬儀式は14日午後2時から同所で。関係者によると、ヘリやクルーザーを使い「銀座の恋の物語」まで披露した4月の都知事選、おしどり夫婦ぶりを見せつけた7月の参院選とは違い、サプライズはナシ。世間を驚かせてきた巨匠は、最後は静かに旅立つ。
◆良い戒名ですよね・・。
>黒川さんが設計した東京・六本木の国立新美術館=写真=にはこの日、多くの黒川ファンらが訪れた。館内のカフェなどでは、世界的建築家の突然の死を悼む声が上がった。
>「ニュースで訃報を知り、お別れを言いたくて来た」という都内の建築事務所に勤務する男性(70)は「同世代で唯一、常に世界の先端を走り続ける人だった。残念です」と肩を落とした。「日本に1年前から語学留学中」というフランス人学生(20)は「日本人の優しさを表現できる建築家という印象」。都内の女子高生(17)は「冗談もおもしろいし、建築もすごい。今では貴重な、かっこいい大人でした」とした上で「選挙もいいけど、もっとすてきな建築を見たかった」と話した。
>一方、同じく黒川さん設計の東京・銀座の中銀カプセルタワービルはひっそりと静まりかえっていた。同ビルはマンションで居住者がいる。管理課によると「大学で建築を学ぶ学生らが、今でも年間300人ほど訪れます。黒川さんの偉大さを再確認しています」と沈痛な表情だった。
◆これでも取り壊すというなら、本当に日本には文化を大切にしようという心のないことを全世界に発信することになるんでしょうね・・。ロシアでも中国でも良いから買い取ってくれないでしょうか。
>AP通信など海外通信社は黒川氏の訃報を東京発で世界に打電、これを受けて海外のメディアも一斉に報じた。米国や欧州各国のほか、クアラルンプール新国際空港を手掛けた縁でマレーシアなどアジアでも取り上げられた。たびたび行き来していたロシアでは、黒川氏が紋付袴で日本刀を持っている写真を掲載し、哀悼の意を表した。記事では、これまでの建築の世界的偉業を称える一方で「今年はややエキセントリックな候補者として知られた」(AP)と、海外ではあまり知られていない“意外な面”も伝えた。(サンスポ 10.14)
・若尾文子「こんなに早く死ぬなんて」 (日刊スポーツ 10.13)
>若尾文子は黒川さんの遺体が安置されている赤坂の自宅マンションでインターホーン越しに取材に応じた。「まさか、まさか、こんなに突然急変するとは思いませんからね、誰もね。あらかじめ覚悟といっても、まさかこんなに人間が簡単に死ぬとは思いませんから。つらかったですね」と現在の心境を語った。若尾は入院した9日から前妻の娘と交代で病室に詰めた。10日の会話が最後になった。「あっという間に亡くなりましたけど、10日に『私、いい奥さんじゃなかったわね』と言ったら、『そんなこと言うなよ。本当に好きだったんだよ』と言ってくれたんです。遺言みたいですが、それが最後の会話になりました。10月10日のことは一生忘れません」と言葉に力を込めた。
◆。・゚・(ノ∀`)・゚・。この記事が山ほどあった関連記事で二番目に良かったと思います…。
>13日午後6時から青山の梅窓院で密葬が営まれれる。「黒川はこんなに早く入るとは思わなかったでしょうけど、私のために梅窓院にお墓を買ってくれていたんです。今はとにかく横になろうと思います」と気丈に話した。
>76年にテレビ番組の対談で知り合った。その日の内に黒川さんは若尾の自宅を聞き出し、絵画を持参して訪問。交際が始まった。当時、黒川さんは前妻と別居中で、離婚成立直後の83年末に結婚した。プロポーズの言葉は「君はバロックのような女性だ」。若尾も再婚だった。若尾は世界を駆け回る黒川さんに合わせ、年3分の1の外遊に同行。ドラマや映画出演は控え、舞台中心となった。
>建築家と女優、生活の時間が違うだけに、ここ数年は、若尾は自宅、黒川さんは近くのホテルで暮らす「別居」生活を送った。「若尾は女優として国の宝。僕が独占しちゃいけない」が持論で、住まいを別にしながらも携帯電話で毎日話し合い、若尾は手作り弁当を毎朝ホテルに持参した。7月の参院選は黒川さんの依頼で若尾は共生新党から立候補。慣れない演説もこなし、演説する時は傍らの黒川さんと必ず手をつないだ。
◆私が信じてみたくなった「愛」です・゚・(つД`)・゚・
>70代で仕事にまい進する黒川さんに、若尾はあるインタビューで「互いに気を使っているけれども口出しはしない。そういう関係がよろしいのではないでしょうか」と答えた。最後まで大人の関係を貫いた。
・黒川紀章さん死去、多くの作品残る九州でも惜しむ声
>黒川さんは、長崎歴史文化博物館など多くの建築物を設計した。
>共生新党党首として参院選に立候補した黒川さんは選挙中の7月21日、自ら設計した福岡市・天神の福岡銀行本店前に立った。妻の若尾さんと並び、「ここへ来ると福岡に戻ってきたという気がするね」と感慨深げにビルを見上げた。
>1981年完成の福岡県庁舎も黒川さんの設計。県庁舎建設事務局に在籍した元県職員皆川善孝さん(67)は「意見交換での指摘が鋭く、一流と感じた。もっと活躍してくれると期待していた」と惜しんだ。
>那覇市の沖縄県庁舎は90年の完成。屋上部に曲線を取り入れ、魔よけの像「シーサー」を正面玄関に配置した。県庁舎建設準備室長だった澤村宏明さん(71)は「主義主張がはっきりした人だったが、使い勝手の良さを求めた県の意見も、柔軟に取り入れてくれた」と振り返った。
>北九州市の門司港レトロ地区のシンボルとして親しまれている高層マンション「門司港レトロハイマート」(31階建て)も設計。市門司港レトロ室の大庭隆一室長は「景観に配慮したデザインや色合いで、多くの観光客に親しまれている。レトロ地区の恩人のような人。こんなに急に亡くなるとは」と残念そう。施工した建設会社会長の政近準造さん(81)は「市との間で問題が生じた際、理詰めで説得する姿が印象に残る。惜しい人を亡くした」と声を落とした。(読売新聞九州 10.13)
・黒川紀章さん葬儀…若尾文子は号泣
>喪主を務めた妻で女優の若尾文子(73)は、列席した親族、関係者ら250人に気丈に対応。だが、喪主のあいさつに立ち「建築家としての黒川の名前を忘れないでください。それが一番です。ありがとうございました」と頭を下げると、あふれる涙を抑えることはできなかった。(デイリスポーツ 10.14)
>愛知の誇りです。
世評など気にすることなく最後まで黒川党首を信じきれた私にとってそのことが一生の誇りですし、そして1000という数字に1を刻んだという意味で日本の誇りでもあります。・゚・(ノД`)・゚・。 - commented by 遊鬱◆jnhN514s
- posted at 2007/10/15 14:11
- おはようございます。
先ほど日テレ系の「THEサンデー」を見ておりましたら、長い時間を使って黒川紀章さんの特集をしていました。遊鬱さん、ご覧になりましたか?
食事をしながら見ていたので、どなたが発言していたのかさだかではありませんが、
黒川紀章氏のことを「最高レベルのアウトサイダー」と言っている方がいました。
私は女性なので、妻・若尾文子さんとの最後の会話を
安原さんのコメントや若尾さんのインタビューで聞いて本当に胸が打たれました。
「あなたの美しさはバロックだ!」
…。・゚・(ノД`)・゚・。
愛知の誇りです。
この場を借りて、ご冥福をお祈りします。 - commented by もやしかもね
- posted at 2007/10/14 08:32
- nobさん、一緒に悲しんでいただいてありがとうございます。
このような世界の片隅で、もやしかもねさん、Sさん、安原さん、りずさんと一緒に悼んでくれる人がこんなにいるということ、そのことが本当に嬉しいです(な、泣いてないもん。・゚・(ノД`)・゚・。ウエエェェン)。
>短い期間でしたが、この人ならば何かやってくれると熱い気持ちを抱くことができました。
北京が砂漠化に耐えられなければ遷都先として鄭州は普通にありうるのでは、そして中国が飛躍的に発展を遂げればなどと夢想したりもしています。
箱物行政のイメージが悪すぎて公共事業そのものが悪と思われがちですが、それこそが想像力の貧しさを表しているのだと思います。歴史を紐解き、国の興亡を追えばたとえ国は滅んでも都市は生き続ける例がいくらでもあります。都市設計などというもはや誰も一顧だにしなくなった大きな話に希望があったなんてこれほどわくわくすることはないです…。 - commented by 遊鬱◆jnhN514s
- posted at 2007/10/14 00:31
- 「黒川紀章」という人は本当に太陽のような人でしたね。力強いオーラを発しているというか(決して体は大きくないのに)…
悲しいというより、寂しい気持ちです。
短い期間でしたが、この人ならば何かやってくれると熱い気持ちを抱くことができました。 - commented by nob
- posted at 2007/10/13 23:51