今日は雨 | fuyusunのfree time

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長唄などの邦楽をこよなく愛する看護師のfuyusunです。
ナースの仮面を脱いだ、fuyusunの日常を綴っています。

朝から雨。やはりリハビリはお休みにしました。

ここまで良く成ったのに、足を滑らして転倒などしたら・・・そう思うと怖い。きっと心配し過ぎかも知れないですが、思わぬ怪我に見舞われたてなので、より神経質に考えてしまいます。

 

さて、看護師のような仕事は本来「倫理的感受性が高い」事を望まれている仕事だと思います。

が、残念ながら自分を含めて今一つな感じがします。

看護学校時代には倫理について多少は学ぶのですが、現場に入ると倫理観を育む教育なんて手が回っていないように感ずる。

良い例が身体抑制である。

医療安全の観点では身体抑制は致し方がない処置であると思う。しかし、同時に患者さんの人権や尊厳を考えると、身体抑制などといった処置は行うべきではないものである。

初心の頃は、この倫理にジレンマに悩まされたものだ。しかし、経験を経ていく毎にジレンマは生じず「医療安全のために仕方がない」という判断を下してしまう。

ちょっと安全確保に問題があるなと感じれば、迷いなく身体抑制を実施するようになる。つまり倫理的感受性が麻痺した状態となってしまう。

医療安全面で問題に直面した時、本来は「患者さんの人権・尊厳」VS「安全」を天秤にかけて熟考する必要がある。

患者さんの人権や尊厳に配慮しつつ、なんとか安全を守る事はできないかと考えるべきなのである。

しかし、倫理的感受性の麻痺状態に至ると、安直に身体抑制を実施してしまう。その結果、身体抑制の必要のない人に対しても「認知症だから」と言っただけで抑制を実施する事になってしまう。

今月に入って、入院体験をもとに反面教師となる出来事をテーマに書いてきたが、考えてみれば「倫理的感受性が低い」人たちの話である。

患者さんが主体であるべきなのに、治療や自分たちの仕事の段取りが主体となって看護を行っている。倫理の「り」の字もない。

多忙な日々が感受性をどんどん鈍らせている。・・・いやいやそうじゃないんだな。

教育の問題だ。倫理観というのは生まれ持ってのものではない。育まれるものである。継続的に倫理的感度を上昇させる教育が大切なのである。が、今の現場は倫理教育に手が回っていない。

知識や技術の向上・維持のための勉強会はあるけれど、倫理についての勉強会なんてほぼやっていないところが多い気がする。

職場に復帰し、今まで通りに教育担当を継続させてもらえるのなら、ぜひぜひ看護倫理を育む教育を勉強し、仲間に広げていきたいな。

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なんて、最近、妄想中。

 

超亀のペース。ダメ出しを修正して五月頃に提出予定だったのですが・・・。

時間的余裕が少しできて、復帰の頃には提出できそう。頑張ろう。