結局、素人の弟子というものは踊らされるものであって、
自力で出来たと思っても、目の前の師匠が踊らせてくれるものなんだ・・・。
大皮のお稽古を初めて思う事。
確かに十年以上の月日は経っているけれど、「絶対に忘れないぞ」の勢いで、その時のお稽古の時間を過ごしている。特に、スパルタの前師匠。泣きながらのお稽古の日々。こんな思いをしているのだから忘れるはずがない。
なのに忘れている。。。
身体の痛みよりも、心の痛みの方が回復が早いのかもしれない。
認識的には逆なのだけれど・・・
スパルタと言えば、先日亡くなった蜷川氏。彼方も演劇学校での先生である。特別講座の講師で演技指導を受けたことがある。大変申し訳ないが、スパルタで前師匠。そして蜷川氏を思い浮かべてしまった。
せっかくスパルタの良き師匠を得ても、指摘されたことを消化して身の蓄積させなければ意味のない事。
私は、消化はするが、その場しのぎで対応している面が大きくて消化して身にするまでに至らないからこうなんだろうな・・・
師匠の評価として、
小鼓>太鼓>大皮という評価。大皮は超久しぶりに接しているから。。。
確かに、
自分自身小鼓が一番好きな楽器のですが、亡くなった師匠が「命を懸けて教えてくださったものを忘れちゃいけない」はずなのですが・・・
私たちの稽古をしながら、怒りまくって胃が痛くなって、稽古中に太田胃散を内服される姿を度々見た。
たぶん、あれが良くなかったんだろうなぁ!今の立場だから分かるけれど、あの状況で胃酸を促す薬は良くない。私たちは食べ物で、別に師匠の胃袋に入るわけではない。思うに、逆に胃酸を抑制する薬を飲んだ方が良かったのではと思う私。
でもね。。。大皮を忘れすぎです。
小鼓は確かに一番好きな楽器である。でも、大田胃酸を内服しながら、灰皿や張り扇を飛ばしながら、一生懸命に私に神髄を伝えようと関わってくださった亡くなった師匠の芸がすっかり忘れられた存在というのが悲しすぎる。
やっぱり私は怠け者。「通り過ぎちゃおう」と思っている気がする。
太鼓名人の師匠に師事して、太鼓の方が上位にある事はうれしい。が。。。自身が「太鼓は苦手」という意識のある中で大皮の方が下位にある事の方が衝撃的。
確かに太鼓の方がお稽古歴は長いけれど・・・まずいじゃん!
なんか複雑。とにかく思い出さなくては。。。!
家には亡くなった師匠から受けたお稽古を録音したテープが山ほどあるが、とうしても聞けない。だって泣き声ばかりが入っている。泣き虫すぎる私の証明する録音物、封印したい。
勇気をもって聞きたいが、なかなか、、、。
私的には、太鼓は苦手なのですが、
小鼓と大皮は同等の評価であってほしい。
あの苦手な楽器の下に何かがあってはいけない。
日々の稽古を頑張るしかない!でも
小鼓を打つにあたってイメージする事・・・
何も考えていない。
しいて言えば、鮎原こずえになった気分かしら?常に「アタック!」と思っています。
私はバレー部ではなかったのですが、バレーが盛んな学校出身。昼休みというとバレーをやっていました。
プラステニス部出身。
スナップ…スナップ。小鼓を打つとき。私は小鼓がボールや玉にしか見えませ。
球技をやっていた人は小鼓の音を出せるのが早い。
私はこれにはまっただけ。
けっして、小鼓も大皮以上に上手とは思えません。ただ、音が出るから「よい」と評価なんだと思います。思えばかなりレベルが低い。
小鼓はまずは拍子と音という要素があるけれど、なんだかんだ言えば、大皮は間しかない。
思い出しながらやる大皮は微妙。自分の血肉になっていない大皮なんてダメダメに決まっている。そんなレベルの大皮に比べて。。。小鼓のほうがよいりは当たり前。超複雑。
さて、太鼓は紀文をやって、自炊は角兵衛です。
どちらも、通常は習う曲ではないので、復習が楽しみ♪
しかし、苦手が増えると、なかなか小鼓に触れられないのがストレス。
本当は小鼓とじゃれ合いたい。
が、自尊心が、
「大皮も忘れちゃダメ」という。
師匠は太鼓の名人。だから、太鼓が上手にならなければならない
。嗜好て゜゜いえば小鼓が大好き。もっともっと深めたい。そして、何が何よりも優先されるのは大皮。亡くなった師匠の命です。
どれも大切。。。
いやいや、複雑