茶道というと、
「わびさびの世界」という印象が強く、粋という世界とは全く無縁というイメージがある。
茶室で静かに行われているお茶会とか、
あるお城の庭園で野点の催しとか、
「お茶の世界」というと、そんな風景が思い出される。
そうそう、江戸というより、京都の文化というイメージが大きいですね。
「花の友」というお茶の宣伝のために作られたと言われる長唄『花の友』。実は宣伝のためでなく、
ある日、新宮藩家老である柳瀬源五右衛門と用人の石畑福左衛門と茶宗匠二世川上不白の三人が、川遊びの折その感興忘れ難く記念に曲が作られたと解説されている方もいらっしゃいました。
確かに、「花の友」というお茶の宣伝であるなら、その名が唄われているはずですが、歌詞の中にはその名が読みこまれていません。
作詞はこの二世川上不白だと言われています。
二世川上不白という方は、久留米藩の有馬家の茶道役を務められていた方だそうです。
初代川上不白という方は紀州藩水野家の家臣である川上家の次男として生まれる。表千家の中興の祖といわれる7世如心斎に入門し茶道を学ぶ。如心斎の命によって茶道を広める為に江戸に。そして「不白流」という一派を気づかれたとか。
新宮藩は紀州藩家老の水野氏が藩主なのだそうである。
久留米藩との関わりの深い二世不白がなぜに新宮藩の家老と川遊びしているの?!と思いましたが、ちゃんとつながっているのですね。
さて、この曲に初めて出会ったのは、小学校六年生か中学一年生位の頃です。綺麗なしっとりとした曲というイメージで、当時は大好きだったようです。
千代紙で「花の友」をイメージした紙人形を作って飾っていましたね。思い出の品々の中に保存されています。
しかし、お囃子入りのこの曲を聴いて、そのイメージは変わった。
「綺麗でしっとりした曲と思っていたけれど、実は粋で綺麗な曲なんだなぁ」って。
前弾きが終わると、こういった曲の冒頭ではお馴染みの「序の舞」という手でお囃子は始まる。
序の舞とは、お能から来た手組である。
「その名の如く序の位のものなれば、位静かにて乗り少なく温和な優美の舞の掛り」の事なのだそうです。
まあ、歌舞伎系では御殿の場面の人物の出入りに御簾で打ったりするようですが。
印象的に、しっとり綺麗系の長唄の冒頭はだいたい「序の舞」のような気がします。・・・気がするだけです。
しかし、こんな始まりですが、すぐに太鼓の豊後下羽、くせという丹前ものによく出て来る太鼓の手組につながっていきます。
丹前ものは何せ丹前風呂ですからね。「ザ・お江戸」という風俗のもので、あまり「しっとり綺麗」なイメージではない。この手が付くという事は・・・調べたらこの部分は「丹前六歩の手」がついているのだそうです。
この時点で「しっとり」とか「わびさびのお茶」というイメージは不適切である事が分かります。
確かに中盤に佃の合方が入っている。佃は隅田川の描写に使われるもの。
お囃子も江戸前の細撥の神田丸を打っている訳で、
やっぱり「ザ・お江戸」。この曲は「粋」で「綺麗」な曲なんだなぁと理解するようになる。
お茶席というと、静寂でゆっくりとした華美ではないが地味ではあるが眩さを感じさせる世界を思い浮かべる。たぶん、そのイメージが「しっとりした綺麗な曲」というイメージを作ったんだろうな。
この曲を流しながらお点前するという趣向を楽しむ方もいらっしゃるそうですが・・・。何気にイメージが付きません。
お囃子を初めて、長唄というものを違う視点で見るようになって、
思い込んでいたものが、実は「そうなんだ」と言う事を発見する事が多々あります。
面白いものです。