子どもに様々な体験をさせるには時間もお金もかかる。

私自身はインドア派で、様々な体験を積もうとあちこち出歩くのは性に合わない。

書物が大好きで、時間さえあれば人生の残り時間を逆算しながら「あと何冊読めるかな」と考えている位なので、書物に囲まれながらゆったりと流れる時間に身を任せて過ごしたい。

 

昨年夏に『難聴者にも「体験格差」は存在する』を投稿したが、「体験格差」が生じる背景には、親の性格や嗜好、金銭的な余裕も大きく関わっていることをこの一年で痛切に感じるようになった。

 

 

どちらかといえば、アウトドア派だったり、バイタリティがある親のほうが子どもに様々な体験をさせようとする意識が強く働くのではないかと思う。

特に、難聴児を育てる親の場合、私が過去に見聞きしてきたり体験談を読んだ範囲でいうと、その傾向が強い。

年齢が若いかどうかも関係あるかもしれない。

 

息子(小3)は健聴だが、私自身が歳を重ねるごとに疲れやすくなっている自覚があるので、好奇心旺盛な息子にいろいろと付き合うのはきついと思うことがよくあった。あれもこれもと欲張らなくても良いのではないか・・・と思う位、子どもが様々な体験を積むことに否定的な考えを持っていた時期もあった。

 

そのような考えを、昨年、とある本が変えてくれた。

投資と人生をテーマにした本。(本の題名は憶えていないので書けません。ごめんなさい。)

昨年の初め、その本を読んでいて「人間が死ぬ瞬間に、脳裏にまず浮かぶのは楽しかった思い出だけ(らしい)」という内容の文章を目にした途端、息子には楽しかった思い出を作ってあげたいから、様々な体験を積ませようと意を強くした。

この一年間は時間をなんとかやり繰りして息子を様々な場所に連れて行った。総額で数十万円は使ったのではないかと思う。

 

難聴児に様々な体験を積ませてきたという親の場合、体験談などでは全く触れられていないが、親が持つ人生の確固としたポリシーが見え隠れしているように思う。

その、人生の確固としたポリシーは、どのようにして確立されたのかまでは想像できない。

だが、私が一冊の本に影響されたのと同じように、何らかの形で(尊敬する人からアドバイスされた等)影響を受け、難聴児に様々な体験を積ませることができたのではないかということを常に考える。

様々な体験に恵まれた難聴児は成長して分別のつく大人になると、リーダーとして主導権を握る機会が多くなる傾向にあるが、恵まれている自覚がないのか傲慢な態度を取る人が多い。

 

説教じみていることを言うようだが、とにかく、子どもの頃に様々な体験を積めることは当たり前ではない。

親をはじめとする周囲の人に感謝するだけでなく、機会に恵まれなかった難聴者を思いやる心も持っていてほしい。