【歴史】苦労の絶えない調停役 | 大つごもり日記

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わたくし、ふようほうによる、歴史ネタ、寄席ネタ、マジック鑑賞ネタ、鉄道ネタ、音楽ネタ、障害競馬ネタ・・・などを書き連ねていく、はずのブログです。

長らく書かないまま日が経ってしまいました。
今年は、大坂夏の陣400周年ということで、色々書こうと思っていたのですがまだ書けておりません・・・とか言ってる間にはや5月。
旧暦ながら、5月6日から8日にかけては、西軍のビッグネームが次々に亡くなっています。
5月6日 道明寺・誉田合戦で、後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相ら討ち死に。
    八尾・若江合戦で、木村長門守重成ら討ち死に。
5月7日 真田左衛門佐幸村(信繁)ら、討ち死に(自害?)
    大坂落城
5月8日 豊臣秀頼、淀殿、大野修理治長、毛利豊前守勝永ら、大坂城本丸北にある山里曲輪内にて自害。


・・・いずれ遅ればせながらでも書いていこうと思いますが、今日はちょびっと。
慶長20年5月8日(1615年6月4日)、秀頼とともに自害した大坂方の武将たちのなかでも、やや地味な速水甲斐守守久のことを。

●前半生
例によって、Wikipediaやら何やらを元に。
さきに「やや地味」と書いてしまったものの、彼は秀吉が晩年秀頼のために創設した親衛隊・七手組の筆頭にいた人です。出身は近江(滋賀県)で元々は淀殿(秀頼の母)の父 浅井長政の家中にあり、浅井家滅亡後、お市の方(淀殿の母。織田信長の妹で浅井長政に嫁いだ。のち信長により浅井家が滅ぼされると、信長に引き取られる)の家来を経て、その後秀吉に仕えます。

Wikipediaによれば
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近習組頭、黄母衣衆となる。
小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに歴戦し、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務めた。
平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。
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ということで、派手な戦功はともかく、秀吉から信頼を受けていた印象があります。


●調停係の日々
秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いの後徳川が政権を握ったあとも、守久は豊臣家に仕え続けます。秀頼の奥方で徳川家康の孫娘(秀忠の娘)である千姫の教育係にも任じられたようです。
その彼が、歴史の表舞台に垣間見え始めるのが、大坂の陣直前のこと。

世に言う方広寺鐘銘事件が起こります。
豊臣家の財力を恐れる家康は、秀頼に勧め京都の方広寺大仏殿を再建させます。この再建とセットで梵鐘が作られたのですが、その銘文の文言にある二つの語句「国家安康」「君臣豊楽」に徳川がいちゃもんをつけます。
「国家安康とはどういうことか。前征夷大将軍であらせられる大御所さま(家康)のご本名(諱)を含めるのでさえ無礼不法の至りなのに、家の字と康の字を二つに切ってしまうとはもってのほかだ!!」
「君臣豊楽とは、豊臣を君主とし子孫がおおいに栄えるのを楽しむて意味であろう!!」

果たして豊臣家サイドでは、重臣で再建の総奉行を務めた片桐且元を徳川側に派遣し、弁明をはかります。しかし大坂城に復命した且元が、
「秀頼が江戸・駿府に参勤するか、淀殿を人質として江戸によこすか、大阪城を出るか、どれか一つを呑む必要がある」
と提案した------この提案が且元の考えなのか、徳川の案を伝えたのかは定かではありませんが、ともあれその結果淀殿や大野修理から内通を疑われるようになってしまいます。
・・・と、前置きが長くなりましたが、そのようなわけで大坂城内の空気がぎすぎすしてきたなか、調停役として登場するのが守久です。
老練な守久は大坂城首脳陣と且元との間の調停に努めます。結局且元の疑いは晴れず、一時は且元は暗殺者から身を守るため、場内の屋敷内で籠城体制を取ります。結局調停は不首尾に終わったものの、守久の骨折りもあって大阪城内での戦闘は回避され且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、大坂城を武装退去することとなりました。退去に当たり守久はこれを護衛し、ひとまず且元の命は助かります。池波正太郎の小説「真田太平記」では、且元と首脳陣の間に立った守久と秀頼との間のやりとりとして、このようなエピソードを挙げています。この真偽は知りませんが、守久が秀吉に続き、秀頼からも信頼されていたように描かれています。
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秀頼は、
「東市正(いちのかみ。且元のこと)の心底が甲斐守(守久)によって、よくわかった」
と、いい、速水守久へ、身につけていた羽織をぬぎ、密かにあたえたというはなしも残っている。
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且元退去後、大野修理ら大坂城首脳陣は、徳川と戦うべく会議を開こうとしますが、七手組の組頭たちのなかには挙兵反対論を唱え会議出席を拒むものもいました(ちなみに、そのなかには元々徳川に仕えていた者もおり、元々スパイだったのかことの成り行きのなかで豊臣家を見限ったのか、戦後のなりゆきから考えて徳川への内通していたと考えられる組頭もいました)。
そこで出てくるのがまたしても守久です。守久は会議出席を渋る組頭を説得し、何はともあれ合議を実現させます。なかなか気苦労が絶えない立場のようです。


果たして大坂の陣が始まると、守久も奮戦します。夏の陣の5月7日の決戦では後方に位置して、壊滅した真田隊らの殿(しんがり)を勤め大阪城内に撤退。同日16時頃に大坂城が炎上すると、守久は秀頼らを先導して万一の避難場所であった本丸北部にある山里曲輪に落ち着きます。この際守久は、千姫を家康の許に送り届ける手配をおこないました。守久の嫡男守治は自ら騎乗して敵のおとりとなり、その間に堀内氏久が千姫を護り徳川陣屋に送り届けました。その間に守治は戦死(ちなみに堀内氏久およびその兄弟たちは千姫を助けた功により徳川に許されます)。
かくて千姫を通じ秀頼・淀殿の助命を乞わせますが交渉は失敗。かくて翌5月8日、秀頼や淀殿らとともに、守久も自刃し最期を遂げます。

最後まで、調停ごとの苦労が絶えなかった守久でした。
こういう感じの人、身の周りにいたら多くの信頼を集め重んじられるんでしょうけれど、存外守久のように報われることが少ないのかもしれません。

ちなみに大坂の陣の戦後、守久にとってちょっと良かったことが。千姫のこともあったのか、戦死した守治以外の子供たちは、戦後徳川に助命されたそうです。

何のオチもなく何なのですが、今日はこの辺で。


・速水守久 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E6%B0%B4%E5%AE%88%E4%B9%85
・大坂の陣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
・天王寺・岡山の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%83%BB%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
・片桐且元 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83
あとこれはWikipediaではありませんが(記事の内容の出典の有無はわかりません)
・速水守久 - 大坂の陣人物列伝
http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.hayami.html