東京オリンピック1964 | ボヤキ男の一人旅

ボヤキ男の一人旅

様々なジャンルに、ただひたすら毒舌吐きながらぼやいていく。
ただし偏りがあるのはご容赦のほど。

これは50年以上昔のこと。僕がまだ小学生だった我が家に、テレビがやってきた。

 

今まで置いていた仏壇の横のテレビを運び出し、その場所にデンと鎮座したのだ。

電気屋のおじさんがテキパキとコードを繋いでいるのを覚えている。

ひとしきりの作業が終わると、親父が嬉しそうな声で家族を集めた。皆が集まると、親父はもったいぶった様子でスイッチに手をかける。

カチン・・・と音がして電源が入るが、昔のブラウン管はなかなか映像を映し出さない。

しばらく経つと、白黒の画面が見えてきた。

 

「白黒か・・・」

お婆ちゃんが最初に声を上げた。

親父は困惑した顔で新聞を手に取ると「・・・今は白黒しかやったらん」と声のトーンを落とした。

チャンネルの数は12個有るのだが、写るチャンネルは、NHK・NHK教育・民放(1社)の計3つしか無いような田舎である。

「夕方の7時になったら、やってるよ」親父はそう言うとテレエビを消した。

そのとき僕は、大人は何を言ってるのだろうかなと思っただけで、外に遊びに行った。

 

昔は居間に折りたたみ式の座卓(ちゃぶ台のデカイ版)を出して、みんなでご飯を食べていた。

その日も変わらず食卓が用意され、お袋が夕食を運んでくる。

僕たちもお手伝いが終わると、食卓の前に座って食事が始まった。

しばらくして柱時計を見た親父は、顎をクイとあげ「おい、テレビをつけろ」と弟に声をかけた。

大役を任せられた弟は、嬉しそうにスイッチを引っ張りテレビをつける。

で、少しばかりの時間が経って画面が見えてきたときに、思わず声が出た。

そう、画面に色が付いていてのだ。

色つき画面というと、画面の前に変なフイルムを貼って見るのが一般的だったが、そんなんじゃなく画面そのものに色が付いていた。

思わず見入っていたが、お袋の「いつまでも見てないで、ご飯食べなさい」との声で止まっていた箸が動き始めた。

コレが我が家に初めてカラーテレビが来た日となった。

 

そこから1ヶ月ほど経ったとき、我が家の居間は多くの人であふれていた。

天気の良い午後、僕たちは東京オリンピックが始まるのをウキウキとしながら待っていたのだ。

テレビかつけられると、何人かが声を上げる。

多分時間通り進んでいたのだろう、ファンファーレが鳴って選手の入場が始まった。

今でも強く記憶に残っているのは日本選手団が入ってきた時。

真っ赤なブレザーを着た選手団が行進していく先頭を、日の丸が進んでいく。

その日の丸の赤が、今のテレビと違い進行方向の後ろに流れていくのだ。

選手団が止まるまで、その赤い帯はなびいていた。

僕の東京オリンピックの一番強い記憶は、この流れている赤だった。

 

あと7ヶ月ほどで、オリンピックが始まる。

今度はどんな光景が僕の記憶に残るのだろうか。