「日本の小学校は生徒が掃除をする」
ということが、海外で取り上げられて
真似をする学校が出てきていると聞きました。
大人が管理して清掃するのではなく
子どもたちに掃除をさせたところ
落書きや物が壊れることが激減したそうです。
「自分たちで管理する場という意識が
大切に使おうという気持ちに繋がったのだろう」
という考察がなされています。
そんなニュースを観て、なるほどねと思いつつ
思い出したことがあります。
小学校の掃除のとき(何年生かは忘れました)
必ずサボる男子がいて
怒る女子がいました。
彼女の言い分は
「掃除当番なので掃除をすべきで、サボるのは許せない。」
それなら、怒るのは当然だし
目くじらたてて追いかけるのも無理はない。
一方、サボった彼はというと
掃除が嫌だというよりも
「怒る女子の目を盗んで、いかに掃除をサボるか」
ということに面白みを感じている様子で
ワクワク感満載でした。
サボる男子と怒る女子
毎日繰り返される、その光景は
平和な日常風景ではありましたが
わたしは
人が怒鳴ったり、誰かを責めたりするのが
怖かったので
その二人からは離れた場所にいました。
とはいえ
サボる男子と怒る女子は
二人とも掃除はしませんから
その分、わたしは楽しく掃除をしていました。
掃除が結構好きだったんです。
そうして
掃除の時間は
サボる男子にとっても
怒る女子にとっても
わたしにとっても
まあまあいい感じの時間だったと思います。
サボる男子は
追いかけられて、結局つかまるので
やれやれ、、だけれど
サボることを楽しめる。
怒る女子は
サボる男子に、気分を害するけれど
つかまえて、自分の主張が正しいと
思わせることができる。
わたしはというと
二人のやりとりが怖くて
それはストレスだけれど
自分のペースで、好きなように掃除ができる。
学校指導という目線でみると
「自分たちで管理する場という意識が
大切に使おうという気持ちに繋がった」
ということかもしれません。
けれども
掃除という日常的なことから感じることは
ひとりひとり違います。
そのひとりひとりに
嫌な感じもあり、楽しい感じもあります。
嫌な感じを無理矢理なくそうとせず
楽しい感じは味わって
まあまあいい感じに日常を過ごしていく知恵。
そこにこそ
「子どもたちが掃除をする」意味があるのかもしれない。
そんなことを思いました。