凸凹で大変だった子ども時代のことを振り返っていて
ふと思い出したことがあります。
小学6年のとき
担任の先生に声をかけられました。
「お願いしたいことがあるから、放課後残ってくれる?」
要件は、クラスメイトMくんの読書感想文の清書でした。
「内容はとてもいいの。入賞すると思うのだけれど、字が汚くて損をするからね。
先生が書いちゃうと大人の字だからダメなのよ。」
素朴な疑問が湧きました。
当時、わたしはお世辞にも字が上手とは言えませんでした。
もっと綺麗な字を書く子が、クラスには何人もいたのです。
けれど、言いませんでした。
先生が「あなたに頼みたい」と言ったときの
なんとも言えない感情が伝わったからです。
今なら、その感情に名前がつけられます。
切実さとか、そういったものです。
わたしはMくんの読書感想文の清書をしました。
一言一句、句読点の位置も変えずに写しました。
正直言うと
先生が「内容はとてもいい」と言うほどの出来栄えとは思えませんでした。
ただ「入賞すればいいなぁ」とは思いました。
Mくんが言いたいことはわかるのだけれど
この表現では言葉足らず、もっと伝わる表現があるはず
わたしなら、違う言葉を使うなぁ。
そんなことを思いながら
それでも、Mくんの文章を変えるのは違います。
Mくんの読書感想文が賞をとるなら
それはMくんの文章でなければ意味がありません。
いろんな思いが浮かびながらも、清書をして
先生に渡しました。
先生は「ありがとう」と、にっこりしました。
大人になった今だからわかります。
先生がなぜわたしに頼んだのか。
ひとつには
そのまま正確に写すことができること。
そして、もうひとつには
口止めする必要がないこと。
実際、先生は「このことは誰にも言わないでね」なんてことは
ひとことも言いませんでした。
けれども、当然のことながら
わたしは誰にも言いませんでした。
(いま、初めて書いています。もう時効ですよね?)
Mくんが入賞したとき
当然のことながら、その評価は全てMくんのものです。
わたしが書き写したと、Mくんが知ったら
Mくんは全てを受け取れないんじゃないかと思いました。
わたしがチラッとでも誰かに話したら
Mくんが知ることになるかもしれない。
わたしはただ書き写しただけなのに
Mくんが手放しで喜べなくなるなんて嫌ですからね。
三角眼鏡で細身の先生は
「ザーマスかまきり」なんてあだ名の
厳しいことで有名な先生でしたが
わたしのことを理解してくれていた、信頼してくれてたんだなぁって思います。
小学校高学年のころは
集団無視の憂き目にも遭ったし
罪をなすりつけられたリもしたし
気持ち悪いとも言われたし
その他もろもろ、なかなかシビアな時期でした。
その渦中にいるとわかりませんでしたが
わたしを信頼してくれていた人がいたんですね。
脇先生、すみません。
ここに至って、ようやっと受け取りました。
ありがとうございました。